民主主義から「独裁」「暴力」は生まれる

 議会主義の黄昏(たそがれ)と言っていいのか。あるいは民主主義の核心部と言われる「選挙」の効力が期限切れを起こしたのか。あるいは、…。ブラジルで前大統領が選挙に負けたのは「相手候補に選挙(投票)を盗まれたから」と、自らの「敗北」を認めない、その上に熱烈な支持者は、それを理由に議会や裁判所などを襲撃したという。この「暴動」には米国の前大統領支持者の有形無形の参画も指摘されています。その国だけの問題なのか、それとも、民主主義も選挙も破壊される事態に逢着しているのかもしれない。極端に言えば、一票でも多い票を獲得したら勝ち、これが投票の結論ですが、この投票方法が「電子投票」方式の採用によって、アメリカもブラジルも「結果を否定する」暴動が生じたとも思われます。ここにもまた、「勝てば官軍)魂が根付いているのです。もちろん、「負ければ賊軍」、お縄を頂戴する羽目になるから、暴力も辞さず、となるのです。

 デモクラシーは「政治の方法」だと思われがちです。しかし、事実はそうではないのです。民主主義は、一種の「蜃気楼」のような輝き(頼りなさ)があり、その幻想を信じたがゆえに幻滅するということはいつでも生じている。「百年河清を俟つ」というまだろこしさがある。かかる「暴力」は、この島社会でも起こるかもしれません。民主主義は万能薬でもなければ、医者いらずの回復力を持つものでもないのです。政治の手法としては、十分なものではないのは、これまでもの政治史や暴力の歴史を見れば容易に了解されます。いつ何時、足蹴にされ、踏み潰されるかもわからない、まるで砂上の政治でもあることを忘れたくない。しかし、残念ながら、悪政に小切手を渡すのも「投票」であるし、それを克服するのも「投票」による。もし「電子投票」に大きな欠陥があるなら、それを取り除けば済むこと。それ以上に肝心なことは、誰を選ぶか、誰を選ばないか、その根拠を何処に見出すか、民主主義は選挙民の見識に依存していると言いたい。賢明な投票者に。

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徒然日乗( LXXXII ~LXXXVI )

徒然日乗・LXXXVI 人であれ、物・事であれ ぼくが不勉強だから知らないだけ、そんなことはいくらでもありますね。ぼくは新聞を読まないので、どんな人がこの記事を書いているのか、まったくわからない。最近、M新聞のコラム欄を週一で担当し記事を書かれている O 記者を知った。コラム(「金言」)を担当し始めて二年ということだったから、知らないのも当然だろうが、もっと早くから知っておくべきだったと思う。また、今日初めて声を聴いた仏教研究者の植木雅俊さん。どこかでお名前は聞いたかもしれないが、それもすっかり失念していた人です。改めてその人の研究対象や何冊もの著書の存在を知り、仏教研究の第一人者だと思い至った。いわば在野の研究者であり、あるいは思想家と言ってもいいかも知れませんが、それだけに、知らないままで、ここまできてしまった。未知との遭遇ということ、それも、とても大切な事や人に、この年齢になって出会うという、おのれの怠惰や無知が無性に情けなくなる瞬間です。遅まきながら、少しずつ読み出そう。(2023/01/10・火)

徒然日乗・LXXXV いわゆる「成人の日」、なにに限らず「儀式」は内容ではなく形相(形式)だ。淡々と、いつもどおりに(旧慣墨守)、それが命だが、ぼくはだから大嫌いだった。勤め人の時にも「年中行事」が毎年二度あった。入学式と卒業式。これに参加するのがとても嫌だった。サボることばかり考えていた。なぜ嫌いだったか、「おめでとう」の連発が聞くに絶えなかったのだ。「入学おめでとう」「卒業おめでとう」というおべんちゃら(と思えた)は一度だって使わなかった。使う理由がぼくにはなかったからだ。入学の際には「ひどいところに来てくださり、ありがとう」といい、「怠学の挙げ句の卒業かな」という思いを別の言葉で言ったものだ。ぼくには「晴れ着間」の要素が混じっていたと、自覚はしていたのです。結婚式も葬式も出たくないですね。誘われたが、ついに、ただの一度だって卒業生の「式」には行かなかった。(2023/01/09・月)

徒然日乗・LXXXIV 時が過ぎるのが、どうしようもなく早い。一歳の子どもの時間の感覚と八十の老人の感覚では、どんなに違うか。ある学者が言っていたことで、一歳の児は「一年が人生」ですのに、八十歳は「一年は人生の八十分の一」になると。同じ時間であっても、これほどの違いがあると、まるで嘘のような話。▼ 庭先までたけのこの根が這い出しています。ほんの少しばかり、掘り起こして、竹根を取り除きました。相当に大掛かりな作業をやらないと、竹は我が庭を好き放題に占領するに違いない。▼ それにしても、この冬季も間断なく、地下茎は侵略を試みている。竹の創生力の凄さは、何に例えればいいのか。地下茎がこれだけ成長しているので、さぞかし猪は「穴掘り」に全力を挙げているに違いない。(2023/01/08・日)

徒然日乗・LXXXIII 日の出が鮮やかです。 連日の好天続きで、その反動が恐ろしくなるほど。自然現象にも反動はあるもので、高気圧のつづく日ばかりではないことは、北陸や東北、あるいは北海道の豪雨・豪雪を知れば理解できます。北海道ではマイナス二十度を超えるところが出ています。あるいは豪雪地帯ではさまざまな雪害ともいうべき事故が続発している。▼ 昨夜は姉貴の娘(京都在)からメールが入りました。メールを貰ったのは、恐らく初めてかも知れません。ぼくがアドレスを知らせていないせいで、彼女から届いた年賀状に書かれてアドレスにメールを送ってたのです。京都の長岡天神傍に住んでいる姉貴には三人娘がいます。娘といっても、うちの子たちよりも年上か。元気で仲よく暮らしているとの由、帰京できない状態が続いています。彼女たちともゆっくりと話したことがないのはどうしたことか。(2023/01/07・土)

徒然日乗・LXXXII  数年ぶりで、元同僚から電話がありました。熊本出身の統計経済学者です。現在は県内柏市に住んでおられる。彼とは、いろいろといいことも悪いこともやってきました。共通の友人を押し立てて「大学総長」選挙に乗り出し、そのたびに「一敗地」にまみれた。当選しなくてよかったと、当時も思い、今も思ったりしています。▼ 拙宅には数度来られた。古い友人から連絡が入ると、「嫌な予感」がするものです。誰かに何かが、ということでもあり、当方の「安否伺い」の気遣いでもあるからです。▼ 夜九時半ころ、京都の友から、久しぶりに電話がありました。恙(つつが)なく過ごしている様子。なにかと不平や不満、不安、不信があるのは生きている証拠だといえますし、その証拠ともなる感情の迸(ほとばし)りを、飽かず電話越しに訴えられるのですから、平安、満足、安心といった生活に「恋い焦がれている」とも受け取れます。ぼくと同年の「後期高齢者」です。▼ 当たり前のこと、同じ年寄でも「生に対する姿勢」は違うものです。歳を取ることは、それなりに色々な煩いが増すことでもあるのです。「年波の押し寄せ来たる夜寒かな」(無骨)また、こんな句に出逢いました。「淡交をあの世この世に年暮るる」(恩田侑布子)(2023/01/06・金)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)