何を守るための国防費増額なんだか

 不要不急外出するな忘れるな(無骨)誰彼なしに「不要不急の外出は控えてくれろ」と命じながら、いけしゃあしゃあと外回り。今週末には恒例の「米国詣で」だという。日程調整に手間取っていたのは、相手が来てくれるなと色よい返答をしなかったから。それを、「たくさんの手土産」を懐に、いそいそと出かけて、物笑いの種を作っているのだ。国民が哀れだな。今から六十年ほど前、時の池田総理が訪仏した際、「トランジスタ商人」などと揶揄(やゆ)する記事が、当地の週刊誌に出た。今はどうだろう。米国では何とも感じていないのか、それとも「いい金蔓(かねづる)」が来たとでも思っているのか。莫大な金額(数十兆に上る)の米国産武器(旧式・時代遅れのガラクタとも)を買っているし、これからも買い続ける。ローンの残高は増えるばかり。中身は何でも構わない。売り手の言い値で何でも買う国(同盟国)、こんなお気楽な同盟関係なら、相手は手放さないよ。何処を見て政治をしているの?

 加えて、「異次元の少子化対策」とは悪ふざけがすぎる。現総理は「箍(タガ)」が外れたらしい(あったとしたら、だ)。緩んだどころの騒ぎではないのです。この三世議員を自由自在に操っている「黒子(黒衣)(くろこ)」がいる。この二十年以上は「黒子(黒衣)政治」が花盛りで、官僚冥利に尽きるとほくそ笑んでいるのか、それともまだ足りぬと手綱を引き締めているのか。ある報道によると、このところ、現総理は異様な高揚感に襲われているという。「積年の難題」を片付けたのだからというのが、そのもとにあるらしい。有頂天とも。自己肥大がすぎると思う。まるで前々任者の悪霊が憑依したかのようだという報道もある。国会は無視され、国民は虚仮にされ、まさに、つかの間の「おらが春」を謳歌しているとしたら、とんだ勘違いだと言わねばならぬ。「金毘羅参り」ならぬ、バイデン詣でだが、何とも天文学的金額の「お賽銭」を払い込むのだ。

 素人ながら、この国が財政破綻(日銀は債務超過)しているのは明白で、赤字国債が市中で消化できない日が続いているし、金利を上げると、どうなるのか、当局は当然知っているから、当面は「お茶を濁す」しかできないのだ。しかし世界中の投機筋は足元を見ているので、円安が限度まで行き、その反動で日銀の姿勢(利上げ)を見て、一瞬の円高が続いているに過ぎない。「前門の虎、後門の狼」状態は変わらず、まるで落ちるのがわかっている「綱渡り」をしているのだ。こんな芸当には、誰も手を叩かない。(左上図は日経新聞・2022年8月1日 )(右図は東京新聞・対外有償軍事援助(FMS)・2019/12/21)

 おのれの首輪を繋いでいるリードを握ってもらいたくて、「アメリカのポチ」は飼い主の言いなりになってきた。言われるままに、言い値で古式武器を爆買いさせられ、挙げ句にその借金支払いのために財政破綻する、何のための「国防・軍事」なのかという、誰にもわかる理屈が頭にはないらしいのが、政治家の面々の知能なのだ。何とも「面妖な」というべきか。あるいは「笑止千万」というべきか。家族の食料を買いだめするために「背負いきれぬ荷物」を背負って、路傍で押し潰れるさまを思い描く。この四海小島をどう守るのか、もう一度、ご破産にすることができるなら、世話がないのだが。雨漏りがしているあばら家に、身の丈の何倍もの警報機や、防犯カメラや武器を備え、どこから来るか、来ないか分からない敵(侵略者)に備えて、家族が餓死寸前、そんな話がこの世にあるのかと、ぼくには悪夢を超越した「怪談話」に見えてくる。

 権力者を操り、傀儡師(くぐつし」のごとくに「人形」を手玉に取る、こんな政治は平安の昔から絶えたことはない。弓削道鏡などはその典型だった。あわよくば「天皇」(皇位を狙う)になろうという欲をかいて藤原一族や和気清麻呂らに阻まれた。今日の「官僚=道鏡」はどうか。まさかとは思うが、最高位を狙っているとは思われない。その昔、大変な政治力を誇示していた日本医師会の大ボス武見某が、「どうして政治家にならないのか」と問われ、「何人もの大臣を顎で使えるんだからさ」と豪語だったか、権勢を誇っていたのをよく記憶している。今日の官僚輩も、多分同じ感覚を持っているだろう。わざわざ苦労して選挙に出なくても、総理や大臣を顎で使う、手足のごとく使い倒す、しかし、なにが狙いか、自分でもわからないままに、やがて「権勢」の魔力に毒されるし、傀儡(総理)は、傀儡であれ、木偶(でく)であれ、位人臣を極めることだけが本望なのだから、右でも左でも向く。こうなると、流石に、バカにつける薬もなければ、治す医者もいないという惨状を呈することになる。(左図は東京新聞・2022/04/09)(GNPや人口の規模を無視した「国防費」の出現を他国はどう見るか。このシマノではなく、米国の「一部」としか見ないだろう。世界三位の国防費、狂気の沙汰であっても、米国の命令とあれば、従わざるを得まい。哀れを留めると、どうして報道しないのか)

 革命前のロシアにはラスプーチンという怪僧がいた。ニコライ二世の皇后の寵愛を得て権勢を恣にした。(いま、その「孫」が好き放題に国を支配している、というのは嘘)表舞台に出ると叩かれ、潰される。だから人形使い(黒子)に徹して、捩(よじ)れないように糸を操るに限ると、この芸を、いったいどこで学んだか。出身大学だったろうか。その昔は「摂政」「関白」なる役職があり、これまた権力の捌(は)け口となっていた時代があった。官僚党なるものがあるとは考えられないけれど、なかなかの逸材がいることは確か。権力に阿(おもね)って、その権力を手駒・手籠にしてしまう。理由は単純、大きな力を振るいたいだけというのかもしれない。「弱者」「納税者」「民草」に思いが及ぶということはまずないのである。

 政治家や官僚に「節操」を求めるのは、何処まで行っても「悪い冗談」の粋を出ない。もちろん例外はあるし、いる。でも例外はあくまでも例外で、あるいは「政治家」「官僚」の姿はしているが、その仲間ではないのだといいたい。仲間という自覚がないから、仲間として認められない。そんな奇っ怪な官僚が極めて稀に存在することは確かだ。そんな「稀官僚」に出会うと「地獄に仏」というような奇遇かもしれないと、同情しそうになる。その昔、通産官僚に佐橋某がいた。佐藤ノーベル賞かすめ取り総理に対して「沖縄密約」を諌言したし、その政治手法をして「それでも実力者か」と詰ったという。城山三郎さんの「官僚たちの夏」の主人公となっている。官僚が腐るのか、政治家が腐るのか。療法が腐るのだろう。同じ箱に、一個の腐ったりんごは入っていると、他のりんごも腐敗する」というのだ。この島社会の政治家は、すべからく、上から下まで「権力亡者」であり「金満・守銭奴志向」を隠さない魑魅魍魎。その魑魅魍魎の一員たらんとする面々の中にあって、清貧を志に据え、経世済民(「世を治め、人民を救うこと。経国済民」・デジタル大辞泉)に生きようとする、それこそが生涯の目標だという政治家がいるなら、ぼくは直ちに死んでもかまわないと思うほど、それほどに、歌謡な政治家は「絶滅種」なのだ。

 「節操がない」「無節操」というのは政治家のための「業界用語」だろう、そんな思いがさら増す。ぼくは以前から、この島社会には「与党と野党」があるが、共産党以外はすべて「与党」であると言ってきた。思想も志操も、ともに堅固などという御仁は何処を探しても、今の政界にはいないだろう。理屈をつけては「右顧左眄」、左右を眺めて「二股膏薬」、その他、限りなく木の葉の如き「軽薄の徒」が、口をついては「誰ひとり取り残さない」とかなんとか、衒学・幻術の限りを尽くした「虚言」を吐いて選挙に出る。政党を移り変わる。「風見鶏(an opportunist)」が聞けば怒り出すような尻軽なのだ。どうかすると、「昔の名前で出ています」というとんでもない輩もいる。しかし、政治を志す者にとって「政党・党派」は一つの「鞍」であって、乗替え自由だという感覚があるのだろう。右から左に鞍替えするというのは、似た者同士だからとも言える。乗り換えて、恬として恥じないというのも「政治家の厚顔」の程度を示しているだろう。お互いに「人を見る目」を曇らせたくないし、「軽薄人間」とは見られたくない、そのための精進が欠かせないと思う。(アメリカ国会下院議長選挙の無様を見るといい。どこもかしこも、陣取り合戦そのままの戦国時代が「議会内」で繰り広げられている。暴徒は議会を襲撃する、こんな場面が各地で、さらに起こるだろうよ)

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*中嶋彰子(ソプラノ)=「春への憧れ」(Sehnsucht nach dem Frühling、 W.A.モーツァルト作曲:https://www.youtube.com/watch?v=DzaZW4mAtDI&ab_channel=SopranoChannel

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)