
ぼくの目も耳も、ただの節穴なのか。「戦争の足音が聞こえる」と言われても、ぼくの目には「徴候(兆候)」は見えないし、微かな摺足(すりあし)の音すら、ぼくの耳は聞き取れない。この「戦争の足音」は、ただいまウクライナで生じている「戦争」を指しているのだろうか。他国における「戦争」や「戦場」「戦禍」の報道は、これまでも一瞬も止むことはなかった。取り立てて「聞こえる」と言うのだから、この「戦争の足音」は島国に関わる(起こる)ものだというのだろう。そうだとして、どんな「足音」がしているのか。(この駄文は、昨年の「真珠湾攻撃・八十一年目(記念の日・12月8日)」に書こうとしていた問題でした。「反撃能力≒敵基地攻撃能力」をどれだけ強めても、「先制攻撃」で戦争は始まりはするが、終わりはしない。それを百も承知で「政治家」は戦争する国になりたがっているし、したがっている、その愚挙・暴挙を、ほとんどのマスコミは尻押し、尻馬に乗っていたと、ぼくは思う。管見の限りで、唯一、東京新聞(中日新聞)だけがこれに触れていた。でも、「戦争の足音が聞こえる」と当紙は書くが、ぼくには、ついぞ聞こえてこない、それを言いたかった)
あえて言うまでもないじゃないか。この間に示された政府の独断・独裁的な「国防政策」「軍事費倍増」の強引な導入や決定を見れば、誰にも「足音」は近づいているのがわかる、東京新聞を始め、多くの国民にも「足音」が聞こえているから、そういうのだろう。それは、しかし「妖(あや)かしの音」であって、冷静に観るなら、聴くなら、「前触れ」」も「足音」も見えない、聴こえないのだ。「妖かし」の正体は何か。「正体見たり、枯れ尾花」だとしたら、とんだお慰みさ。「仮想敵国」をでっち上げて、戦争準備と称して、完膚なきまでに叩きのめされた現「超軍事大国」の属国への道をひたすら走っているに過ぎない。過ぎないというが、それは大変な事態で、両者間での「安全保障条約」を締結させられているがゆえに、「独立」を奪われ、領土を乗っ取られているのだ。(だから、結果として「アメリカの戦争」に加担させられる危険性は甚だ大であると、ぼくも考えている。だとしら、「アメリカの戦争の足音が聞こえる」というべきではないですか)
ぼくの耳・目は故障しているのかもしれない。国防関連の問題で政権党は、必要以上に「騒ぎ、煽り立て」、政府は強引に「当初の計画」を閣議決定した。その経過を針小棒大に報道して、火の元は狂ったように加熱しているのだ。要するに、「戦争する国」という看板を掛けたかったのだ。これが「一等国」の印だと、まるで明治時代の大方の世論が示した「錯誤・錯乱ぶり」です。当時、漱石はなんといっていたか。空騒ぎも強引な手法も(大山鳴動ぶり)、「筋書き通り」で、本気で「戦争」するための序奏(第一歩)だと、ぼくには思われない。一体、(この小国は)どこと戦争するというのか、どこが(この小国と)戦争をするというのか。中国や北朝鮮やロシアだと広言されているが、それらの「敵対国」はこの小島国を相手にするとは、ぼくには微塵も考えられない。「戦争の足音」を立てているのはこの島国ではない、島国のごく一部の覇権屋であるのは確かでも、本筋は、アメリカの忠実な属国(家来)として、戦費も兵隊も、万事怠りなく準備しておけと命じられたから、「小間使い」「ATM」として、精一杯の背伸びをして「役割」を果たそうとしているに違いない。何のためか、おのれの地位や身分を宗主国に保証してもらうために、だ。その格好の見本が、先ごろまで存命していたではないか。史上最長不当政権を騙った、例の「虚言総理」さ。

日本が焦土と化した太平洋戦争は一九四一(昭和十六)年のきょう十二月八日に始まりました=写真は、開戦を伝える国民新聞(中日新聞社が発行する東京新聞の前身の一つ)夕刊。あれから八十一年。憲法九条に基づく「専守防衛」が大きく変質しようとしています。耳を澄ませば、戦争の足音が近づいてくるようです。 / 戦後日本の防衛政策は、戦争放棄と戦力不保持の憲法九条の下で組み立てられてきました。日本の安全保障を米軍の攻撃力に委ね、日本の自衛隊は専守防衛に徹するという役割分担です。 / 自衛隊の装備は自国防衛目的に限られ、「他国に侵略的攻撃的脅威を与える」攻撃的兵器は、あえて保有してきませんでした。 / それは日本人だけで三百十万人というおびただしい数の犠牲者を出し、交戦国だけでなくアジア・太平洋の人々にも大きな犠牲を強いた戦争への反省に基づくものでした。日本は再び軍事大国にならないとの誓いでもあります。 ◆平和国家を歩んだ戦後 安倍晋三内閣当時の二〇一三年に策定された国家安全保障戦略は次のように記します。 /「我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持してきた」 /「こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない」 / この平和国家としての歩みを大きく踏み外すのが、岸田文雄首相が年内に予定する国家安保戦略、防衛計画の大綱、中期防衛力整備計画の三文書改定です。 その狙いは、他国領域を攻撃できる、政府与党が反撃能力と呼ぶ敵基地攻撃能力の保有と、防衛力強化のための財源確保です。 / 歴代内閣は、他国領域にあるミサイル発射基地への攻撃は「座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とは考えられない」と憲法九条が認める自衛の範囲内としつつも、他国を攻撃できる兵器を平素から備えることは「憲法の趣旨ではない」ともしてきました。 / 長射程の巡航ミサイルなど、これまで保有してこなかった敵基地攻撃能力を実際に持てば、専守防衛を逸脱することになります。 政府は、この敵基地攻撃能力を安倍内閣が一転容認した「集団的自衛権の行使」にも使えるとの見解を示しています。日本が攻撃されていないにもかかわらず、他国領域を攻撃することになれば、他国同士の戦争に積極的に参加することにほかなりません。 / 岸田政権が敵基地攻撃能力の保有検討に至った背景には、軍備増強を続ける中国や、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮の脅威があります。周辺情勢の変化に応じて安保政策を見直し、防衛力を適切に整備することは必要です。 / しかし、軍事力に軍事力で対抗することが地域情勢の安定につながるとはとても思えません。逆に軍拡競争をあおる「安全保障のジレンマ」に陥るのは必定です。 ◆軍拡増税という分岐点 抑止力の向上が狙いでも、攻撃的兵器をたくさん備え、他国領域も攻撃できると声高に宣言するような国を「平和国家」とはとても呼べない。戦後日本の平和を築いてきた先人への背信です。 / 岸田首相は二三年度から五年間の防衛費総額を現行の一・五倍超の約四十三兆円とし、二七年度には関連予算と合わせて国内総生産(GDP)比2%にするよう関係閣僚に指示しました。二二年度の防衛費約五兆四千億円はGDP比約1%ですので倍増になります。 / そのための財源をどう確保するのか。政府の有識者会議は歳出改革とともに「幅広い税目による負担」を求めています。 / 物価や光熱費が高騰し、社会保障費負担も増える一方、賃金はなかなか上がらず、国民の暮らしぶりは苦しくなるばかりです。 / いくら防衛のためとはいえ、国民にさらなる増税を強いるのでしょうか。国民を守るための防衛費負担が暮らしを圧迫することになれば本末転倒です。とても「軍拡増税」など認められません。 / 戦争はいつも自衛を名目に始まります。そして、突然起こるものではなく、歴史の分岐点が必ずどこかにあるはずです。 / 将来振り返ったとき、「軍拡増税」へと舵(かじ)を切ろうとする今年がその分岐点かもしれません。感性を磨いて耳を澄ましてみると、戦争の足音がほら、そこまで…。(東京新聞・2022年12月8日 07時46分)(上の二枚の写真も)


戦後体制(レジューム)の総決算と、総理たるものはだれでも宣言したいらしい。まるで蕎麦屋の釜(かま)だね。その心は「ゆ(湯)ーだけ」です。そのためにアメリカに数十兆円の「古式武器」購入を強いられ、自衛隊の増強を唆された、「勝共連合」の一部として、この劣島は米国の「戦争図」に書き込まれていたのが戦後一貫した有り様でした。中国建国、朝鮮戦争の勃発、ソ連の覇権主義の膨張、これらはすべて「共産主義」を売りにする国々。だからこそ「極東小国、ジパングは防共の防波堤(砦)」となるべきだし、その任を振られたのが、この島国の戦後でした。それを「ご破算」にし、「日本を取り戻そう」と雄叫びを上げたにもかかわらず、最難関敵国である米国に「自己権力」を承認してもらいたくて「売国の挙」に出たのは誰々だったか。米国の言いなりになる道しか取ら(取れ)なかった上での、悪い「いたずら(軍事大国化)」だった。今からでも遅くない、誤りを正すには。
「感性を磨いて耳を澄ましてみると、戦争の足音がほら、そこまで…」と、「社説」氏は、「怖いこと」を繰り返します。どこから聞こえるのですか?あるいは「王様の耳はロバの耳」のように、かすかな音でも聞き取れる「ロバの耳」をお持ちなのも知れません。もちろん、何時だって、どこかしらで「戦争の足音」はしています。あまり聞きたくもない「恐音」ですけれど、この世には「覇権」を我が物にしようという「欲張りの王様」がいるのですから、聞こうとすると、聞こえるのでしょう。でも、いくら感性を磨いても、この小島国が戦争するというのは、嘘っぱちでしかないでしょう。どこが、相手をしてくれますか。「戦争をさせられる」「戦争に巻き込まれる」というのなら、そのように書くのが正解ではないでしょうか。そのような他国による「戦争の足音」すら、ぼくには聞こえては来ない。

再言します。アメリカが起こす「戦争」はあるでしょうし、そこに巻き込まれる(集団的自衛権)危険性は十分にありえます。だから、こそ、属国から「自立・独立」した島社会になるための政治をこそ、ぼくたちは求めることが望まれているのです。「王様の耳は長かった」けれど、それで大切な事柄が聴こえなかったのではありません。自意識過剰だったに過ぎない。「軍備を備えよ」、そうしなければ、敵が攻めてきても遅いぞというのは「被害妄想」以外の何物でもない、作り話でさえありません。「少しばかり長い耳」を気にしていただけの話。気にしなければ誰も何も言わない。隣人と仲よく、それは小さなことの積み重ねで出来上がるものです。敵国視するばかりでは、仲良くしたくないという信号を常に発しているこことになる。新聞も、どんな足音が、どのように聴こえてくるのか、「ほら、そこまで」という、その実況を丁寧に書いていただきたいですね。アメリカに好かれたいし、そのアメリカはこの島国を属国視してきた。さて、政治家の皆さん、どうするのですか。「再度、一戦を交えるのですか、宗主国と」
アメリカから「時代遅れの武器」を買わされながら、アメリカと戦う、文字通り、日米決戦の再現ですね。当時も、アメリカ(敵国)から石油を買い求めていたのだ。闘魂の「EU諸国」のようですね。その石油輸入国と戦争するというのは(無謀)、「正気の沙汰か」というものだと、赤子・赤児でも知っていたでしょ。(真珠湾攻撃は、まさしく「敵基地攻撃能力」だった。「虎の尾を踏む」という掟破りでしたね)(写真は「1941年12月7日の真珠湾攻撃で沈む戦艦アリゾナ」Navy/U.S. Naval History and Heritage Command/Reuters:https://www.newsweekjapan.jp/furuya/2022/03/post-24.php)
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