
暗き人の、人を量りて、その智を知れりと思はん、更に当たるべからず。 拙なき人の、碁うつ事ばかりに聡く、巧みなるは、賢き人の、この芸に疎(おろ)かなるを見て、「己が智に及ばず」と定めて、万(よろづ)の道の匠(たくみ)、我が道を人の知らざるを見て、「己れ、優(すぐ)れたり」と思はん事、大きなる誤りなるべし。文字(もんじ)の法師、暗証(あんしょう)の禅師(ぜんじ)、互ひには量りて、「己にしかず」と思へる、共に当らず。 己が境界(きょうがい)にあらざる物をば、争ふべからず、是非(ぜひ)すべからず。(「徒然草」第百九十三段」)(参考文献・島内既出)


世に「有識者」が幅を利かせら(利用・悪用さ)れている。「私は有識者でございます」という人間の心根が見透かされているのですが、それを承知で、厚顔にも「わたしは有識者なんだ」と自称する、その根性が腐っているんじゃないですか。いたるところに「有識者会議」が蔓延っているのも、一種の「自己顕示欲感染症」だといっていい。政府や官庁(行政)が、おのれのやりたいことをストレートに出すと差し障りがある(と考えているとは思えない)から、ここはワンクッション、「有識者」という御用聞きにお出座し願って、すべては「お膳立て」して置いて、「答申」とか「具申」する・させるという茶番劇、この段取り(六方・六法)さえ踏めば、何だって好き放題に権力を行使することができ、税金は湯水の如く濫費できるというのです。あくどい政治(悪政・苛政)の露払いが「有識者」と尊称(一部では蔑称)されている面々だとするなら、この「愚かな賢者」も始末に悪いと言わねばなりません。
以前に勤めていた職場で、企業で言うなら「社長」に位置する人間(民法学者)が、「我社の社員も、中央政府の審議会の委員になるくらいでないと」と政権への「擦り寄り」を盛んに奨揚していました。また友人の一人からは、ある審美会の「専門委員」に推薦しておくと言われ、赤面したことがある。ぼくはそんな程度の低い人間と見られていたのだ。(もちろん、断った)彼は「有識者の一員」で中央教育✖✖審議会に参加していた。事程左様に、自らをして「有識者」「知識人」と名乗りながら、この世に生息している人間がいる限り、政治家はそれを悪用しない手はないと考えるのは当然です。政治的な課題(防衛力増強など)に関して、政府が独断専行すると、大きな批判や非難を浴びる。浴びながら、ひどい法律を通す輩もいる。でも大抵は、一種の「ショックアブソーバ(緩衝材)(ダンパー)」として「有識者会議」なる看板を掲げ、呼び込まれるのを涎(よだれ)を垂らして待っている「自称有識者・知識人」を並べるのです。

先述したように「結論」はすでに出されているのを「承認する」だけだから、「露払い」というのです。「太鼓持ち(幇間)」といったほうがいいかも知れません。「露払い」とは「貴人の先に立って道を開くこと。また、その役を務める人。転じて、行列などの先導をすること。また、その人」(デジタル大辞泉)そして、「幇間(落語では「一八・イッパチ」)」とは「1 宴席に出て客の遊びに興を添えることを職業とする男性。幇間 (ほうかん) 。2 人にへつらって気に入られようとする者。太鼓たたき」(同上)かくして、「有識者会議」の「お墨付き」をもらったといって、好き放題。このとき、「有識者」なる存在は「有害無益」「百害あって一利なし」というほかないでしょう。「自分は、世間からは有識者だと認められている」という御仁が、どんなに無知で不見識であるかを、ぼくはいくらでも証明できます。そんなことをしたところで仕方がないが。

この兼好さんのお説を読みながら、ぼくは、プラトン著の「ソクラテスの弁明」を想起していました。「世の中で賢人だ、物知りだと言われている人ほど、無知で愚かだ」というのです。ギリシアの昔とすこしも変わらない、だから安心していいわけもないのです。ソクラテスの指摘は、兼好さんの見識にそっくり重なります。まあ、ソクラテスはアテネにおける兼好だったと言ってもいいし、その逆に鎌倉末期から南北朝期にかけて、京都にソクラテスがいたと考えるのも、ぼくのような「暇人」には面白い。しかし、ある人々にとっては迷惑な存在だったでしょう。世の中で価値が高いということを認めないどころか、それを若者に言い触らすんですからね。「偉いと思っている人ほど、貧しいのだ、心根が」と。
「暗き人の、人を量りて、その智を知れりと思はん、更に当たるべからず」という書き出しは、まるで「我が愚」を言い当てられているようで、心苦しい。恥じ入るばかりです。「物を知らない人間が、勝手に推し量って、あの人の知識(賢明さ)のお里が知れるね」という。兼好という人は辛辣が売りでもあったが、そのとき、自分をどこに置いていたかが問われます。「put myself on the shelf)でなかったことは確からしいが。「碁うち」上手が、賢人が碁に暗いのを見て、「我が智に及ばず」と即断して、すべてをそのように判断するのは、なんとも大きな誤りであるという。そのと通りだと胸を打ちたいですね。「好きこそものの上手なれ」は本当です。でも「好きこそ」というのは何でもかんでもではないでしょう。特定の、一芸・一道に秀でることは、他のすべてに優れていることを意味しません。

仏教(経文・経典)研究に勤しむ坊さんと、ひたすら修行する僧呂(経文の暗唱)たちが、互いに「オイラが勝ってるぞ」と言い合うのは間違いであるし、見苦しいというべきでしょう。「一分野には詳しい・明るい」のは悪いことではありません。でもそのことを勘違いして、世に優れている「有識者」だと思い込むのは、阿呆と違いますかと、兼好は断罪するのです。知らないことには「是非をするな」と、まるで、このぼくまでが非難されていると思ってきます。「知らないことは知らない」とはっきりと言うべきだとは、ソクラテスの言でしたね。何かを知っている、それは、知らないことが他にあるというのと同じことなんです。
ここでは触れませんでしたが、以上の関連において、「学術会議会員」選定・選任問題が尾を引いています。それについて、関心を持つとか持たないという問題ではなく、学問研究の自由(人権)に、権力が介在するというのは、どういうことかというのです。もちろん、兼好の生きた時代にもありました。知識があるとかどうということではなく、「自分は権力者」だという傲慢な意識があらゆる「権利」を左右できるという、その横暴さが露骨に生じたのが、この「会員選任拒否」問題でした。自分の気に入らない人間(研究者)は排除するという「無知蒙昧」が政治の真ん中にいる・いたという事実は、この社会の現実をあからさまに明示している、そんな問題ではあります。
(参照 「会員等以外による推薦などの第三者の参画など、高い透明性の下で厳格な選考プロセスが運用されるよう改革を進めるとともに、国の機関であることも踏まえ、選考・推薦及び内閣総理大臣による任命が適正かつ円滑に行われるよう必要な措置を講じる」(「日本学術会議の在り方についての方針」令和4年 12 月6日 内 閣 府)(https://www.cao.go.jp/scjarikata/20221206houshin/20221206houshin.pdf)

権力者といえども、いや、権力者だからこそ、「己が境界(きょうがい)にあらざる物をば、争ふべからず、是非(ぜひ)すべからず」という、肝心要が病んでいます。おのれの不得手な事柄については「口出し」もせず、論評などもするな。詮索もせず、是非もいうべきじゃないのだ。単純素朴な世間知ですが、「餅は餅屋」という。その言わんとするところは、「餅は餅屋のついたものがいちばんうまい。その道のことはやはり専門家が一番であるというたとえ。餅屋は餅屋」(デジタル大辞泉)あるいは「蛇の道は蛇」ともいうではないか。現代の「有識者」乱用は、まるで「左官の垣根」に等しいというべきでしょう。(右絵は「餅は餅屋」・北斎漫画より)
こんなことすら分からない、だから是非・理非の判断もできない人間たちが「政治の中枢」を占め、「政を独占」している、それがこの没落途上にある国・社会の不幸そのものの「現実」ですね。その悪影響たるや、測るを知らずです。奈落の底に向かってまっしぐら。一体どこまで突き進むのか。
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