
午前二時前、(猫に)起こされました。お腹が空いて眠れないのと、外に出たいのが騒いだのです。その猫と付き合いながら、例によって「ラジオ深夜便」を聴いていた。本日の担当(アンカーというらしい)は、渡辺あゆみ、旧姓黒田さん。テレビではしっかりしたアナウンサーとして七時や九時の「ニュース」を担当していた方。今日の二時からはアメリカの作曲家・フォスターの数々の曲がかかりました。その殆どをぼくは記憶していた。さらに驚いたのは、歌詞は「原曲(英語)」だった、それをすべてとはいえませんが、ほぼ覚えていました。この歌をどこで習ったのか。もちろん学校でだったことは確かで、それも高校だったと思う。音楽担当の教師は、恐らく音大出だった。細かいところは忘れていますが、男性で、それなりに年を取っていた。名前が「宝光井◯◯」という珍しいものでしたから、今でも記憶しているのです。時々、彼(テノールだったか)はカンツォーネ(ベルカントで)を謳った。とくにイタリア民謡は圧巻だったし、それをぼくたちはイタリア語で唱わせられた。声楽家の歌唱を「生」で聴いた最初の経験だったろう。今でも「サンタ・ルチア」「オーソレ・ミオ」「帰れソレントへ」などは丸暗記したイタリア語が口をついてくる。人間の記憶作用の摩訶不思議さです。

フォスターは南北戦争の遥か前に生まれ、戦後に不幸な生涯を終えた。今日では「アメリカ民謡の父」などと称されますが、生前は家庭的にも音楽家としても恵まれなかった。酒と乱れた生活で三十七歳で生涯を終えた。死地はニューヨークだったと記憶しています。彼の生き方や時代との軋轢を思うとき、突飛な空想ですけれど、ゴッホを思い描きます。今日、歴史上もっともポピュラーでもっとも価格の高い画家で、生前はまったく世間から除け者にされた存在だった。世に受け入れられなかったという意味では、何時の時代でもどこの地域にも、才能豊かでありながら、いわば不遇の生涯を送った人は無数にいます。逆に言えば、死後において、高い評価を得るというのは、当人にとっては関係のないことであり、それが彼の生涯の価値を高めてくれるということはできても、はっきり言えば、彼・彼女には無意味・無関係だったというべきでしょう。世間からの「高い評価」に意味や値打ちを求めることは否定しませんが、ぼくは、そんなのはまったく御免被りたい人間です。若い頃は、「評価」は後からついてくるなどと嘯(うそぶ)いていました。今考えると「汗顔」の至りですな。賞牌などは厳禁、それが「家風」(あるとしたら)ではなかったか。この点で、親父は仕事と酒だけで、他は一切無関心だった。
● フォスター(Stephen Collins Foster スティーブン=コリンズ━) = アメリカの作曲家。ペンシルベニアの実業家の家に生まれ、大学を中退して、一九世紀のアメリカの素朴な風土に根ざした数々の歌曲をつくった。作品は世界中の人々の愛唱歌となったが、彼自身は貧困のうちに三七歳で死んだ。代表曲は「草競馬」「オールド‐ブラック‐ジョー」など。(一八二六‐六四)(版日本国語大辞典)(フォスターは「プランテーションの作曲家」とも称された人。如何にも「南北戦争前のアメリカ」で生まれた音楽家でした)

「命あっての物種(ものだね)」「死んで花実が咲くものか」などという表現は、一面では真理でしょう。でも半面では「物種」や「花実」が過大に評価されてしまい、ある意味では、人生の内容や優劣を「世間的評価」などといった現世利益に傾きすぎるという嫌いを、このような不遇のうちに生死し人々は教えてくれるのではないでしょうか。少し浪花節になりますが、大変に素朴な視点から「人生の哀歓」を謳った「船頭小唄」を思い出します。野口雨情・、中山晋平・曲で、別名「枯すすき」(大正十年刊)です。関東大震災前後に大流行したものです。(これを綴っているのは、午前四時です)
当時、「船頭」がどのような社会的評価を受けていたか、ぼくにはわからないが、誰彼に勧めるべき「稼業」であるとは思えません。まして「立身出世」が人生の価値であり、「故郷に錦を飾る」ことが栄誉とも成功ともされていた時代、「どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯すすき」と、あるいは男女の仲の不条理を歌っているのか、つましく、世の中の方済みに生きる、これもまた一つの生き方だという。ぼくは、理由は判然としませんが、この「枯すすき」になりたいものだと、ずっと念じていたことは確かでした。でも、今持もって「枯すすき」にも慣れないで生き恥をさらしている。アカンなあ。
早起きの「寝惚け頭」であらぬことを書いているようです。(下新聞写真は「スペイン風邪流行」を報じる新聞・大正七、八年ころ)

おれは河原の 枯すすき おなじお前も 枯すすき どうせ二人は この世では 花の咲かない 枯すすき 死ぬも生きるも ねえお前 水の流れに なに変ろ おれもお前も 利根川の 船の船頭で 暮そうよ 枯れたまこもに 照らしてる 潮来出島の お月さま 私しゃこれから 利根川の 船の船頭で 暮らすのよ なぜに冷たい 吹く風が 枯れたすすきの 二人ゆえ 熱い涙の 出たときは くんでおくれよ お月さん
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII
徒然日乗(LXXVII ~ LXXXI)

徒然日乗・LXXXI このところ毎朝のように「日の出」を眺めています。太陽は九十九里海岸の海上に現れ、少し時間をかけて拙宅の真東に昇る。ここは海抜百メートルほどですし、少し雑木林が密集しているので、少し遅れての「ご来光」です。今日あたりは七時ころでした。ほとんど毎日のように、拝みはしませんが、太陽がすっかり姿を現すまで見入っている。太陽の出ない日はないのですから、雨天などのとき以外は、ぼくは朝、東に向かって、一瞬ですけれど「善男」になる(なった)つもりでいる。(2023/01/05)
徒然日乗・LXXX 2日に猫の食料を買い出しに行ったばかりで、本日も(主として缶詰)出かけました。たくさんいますので、それなりに食料代がかかる。元気に育つことを願いつつ、あるいは、ぼくたちの食料代よりも高く付くのではないかと驚愕する。数日中にはワクチン接種をする予定(八つ分)、これが終わらないと、一安心ができない。その次には(避妊と去勢の)手術です。(2023/01/04)

徒然日乗・LXXIX 正月が 足早に過ぎ去っていきます。国政に関心を必要以上に持とうとしているのではありませんが、こんなに国民の目の届かないところ、国民の目から全てを隠しながら、着々と「戦争ができる国」への道をひた走りに走っている、それを黙ってみていることができないのです。物価が一直線で右肩上がりに上がる。その原因はよくわかっているのですが、どうも、国内事情ではなく、外地における他国の戦争やその影響によるものとされている。にもかかわらず、この島社会の首脳は「外国における戦争」の片側を応援しているのです。戦争を止めるための算段(外交)ではなく、戦争に親和性のある国が勝利するための尻押しをしているのです。いったい、この国に、先を見据えて、政治の方向を定めようとする「ステーツマン」がいるとは思われないのが、なんとも悔しいね。もはや、この国は破綻しているんだがなあ。(2023/01/03)
徒然日乗・LXXVIII 横浜に住んでいる娘が子ども(ぼくにとっては孫)といっしょに車でやってきました。コロナ禍の用心もあって、久しぶりのことでした。ぼくのところの子どもは娘が二人(双子)でした。それぞれが高卒以来、親元を離れ、自分たちで生活することになった。やがて、彼女たちも結婚したり、就職したりして、今では別世帯。もう一人の娘(独身暮らしで、小さい頃から結婚はしないと確言していた。親の酷さを身近で見ていたからだろうか)は、先日、猫を見に来た方とやってきた。こちらも、なかなかの独立心旺盛な人で、あまりベタベタすることなく、好きなように(苦労しながら)明け暮れを送っているようです。親子であることは事実ですが、それをあまり意識しないで、可能な限りで、それぞれの生き方を尊重する、格好つけていうなら、そんな近距離接近にはならない程度の関係で「親子」を続けているのです。穏やかで、健康に暮らしてくれることを願うばかりです。(2023/01/02)

徒然日乗・LXXVII 穏やかな朝を迎えました。昨日の続きは今日という日、それだけのことがぼくには好ましい。往時、「晴れと褻(け)」などといって、日常の平凡さを突き破るような「一瞬」の賑わいが、きっと待望された。褻着(けぎ・普段着)とか褻事(けじ・日常茶飯)といい、普段着のままに日常行為を積み重ねるからこそ、その停滞を打破し、新たな生命力を得るための「晴れ着」を召しての「晴れ舞台」という、つかの間の「晴れの日」が必要だったのでしょう。大晦日と元旦は、新旧年の交代で、ことさらに、神仏・先祖も参加しての重要な日だったと思う。「直会(なおらい)」などといって、神・仏との供食が大切な宴だったのです。今では毎日が「晴れ」続きで、至るところで、日常が動顛(どうてん)するような事件や事故の連続。だからこそ、静謐な一日を切望するのでしょう。慌てず騒がず、心静かに日々を過ごしたい、それが、あえて言うなら、本年(毎年)のささやかな祈願です。つまりは「怡然自得」ですね。(2023/01/01)
____________________________