Homo sapiens とはだれのことか 

【斜面】人がネコにもらうもの 「吾輩は猫である」に正月の場面がある。吾輩が主人の膝の上にいると、絵はがきの年賀状が届く。それは「舶来の猫」が並んでペンを持ったり書物を開いたり、勉強している絵柄だった。この1枚は架空のものでなく実在したらしい◆英国の挿絵画家、ルイス・ウェイン(1860~1939年)の作とみられる。擬人化したネコのイラストで英国中を沸かせ、ペットとしてのネコの「社会的地位」も高めた人物だ。最初は闘病中の妻を慰めようと飼っていた子ネコを描いていたという◆転機は新聞のクリスマス特別号だった。パーティーをする子ネコの絵が見開きで載ると反響を呼び、作品は世に広まった。後年、日本の収集家が英国で小説通りの1枚を見つけた。絵はがきの流通と漱石の執筆は時期も重なるという。南條竹則著「吾輩は猫画家である」で知った◆ウェインの生涯を描いた映画が長野など全国で公開中だ。作中で妻がネコを語る。「愚かで、かわいらしく、寂しげなの。怖がりで、勇敢で。私たちみたい」。人の姿を映すようなネコ。では彼らの目線から人の世を見ると―。小説の着想にも生きたか◆昨秋からわが家にも小さな保護ネコが2匹いる。ワクチン接種の際に追い回したせいか、近づくと今も怖い顔でにらむ。寂しいけれど、仕方ない。じゃれ合う彼女らを遠くで眺めるだけでよしとするか。人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっているのだから。■あとがき帳■9月にやってきた子ネコに振り回されている毎日です。テレビやカーテンの裏に隠れているかと思えば、人の手が届かない高い場所で昼寝。深夜は「大運動会」で部屋中を荒らし回ります。/ 世話をしているのに、触らせてもくれません。それでも、姿が見えなければ心配でたまらない…。何だか不思議な関係です。/ いつか斜面で取り上げたいと思っていたところ、年末にルイス・ウェインの映画を見ました。夏目漱石にも関係していると南條さんの著書で知りました。ネコが日々の暮らし、人生まで彩っていることを改めて実感しました。/ 映画「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」は長野市の長野相生座・ロキシーで上映中です。(論説副主幹 五十嵐裕)(信濃毎日新聞・2023/01/05)

(予告編:https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26094)(「美術手帳:カンバーバッチが演じる「ネコ画家」。映画『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』が2022年12月1日に公開:https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26094)その他を参照。

  思いの外、この国ではウェインは早くから知られていたようです。今から考えると、ぼくもこの猫の絵には見覚えがあるといえるのですが、誰が描いたか、まったく気にしなかったのも、かえすがえすも迂闊でした。猫は不思議な動物で、どちらかというと、犬よりも「神経質」であり、なにかと「偏見を以て」捉えられていたのではないでしょうか。猫にまつわる「怪奇話」「怪談」には事欠きません。そんなものからも、ぼくたちは知らずに影響を受けて、猫に関する「偏見」や「狭い了見」を作ってきたのではないでしょうか。コラム氏が紹介しているルイス・ウェインは苦悩に満ちた生涯を送ったようで、晩年の長い期間、彼は認知症を患っていたし、精神病院にも入っていたと、どこかで書かれています。彼にとって猫はどんな「同胞」だったのか、遅まきながら、調べてみたい気がします。漱石が「吾輩は猫である」を書いたのは、この画家の人となりや明け暮れ(暮らしぶり)を知っていたからかも知れないと、勝手な想像を重ねてみたくなるのです。(猫に関する小説や昔話にも事欠かない。いずれ、そのことについても駄文を物したいですね)

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 本日の駄文の主題(もし、それあれば、の話ですが)、猫と人間、あるいは人間と猫の「友情」「付き合い」とでもいうべきものです。「君は猫が好きか?」と尋ねられたら、大抵の人は「大好きです」とか「とても嫌いだ」とはっきりいうのではないでしょうか。また、今ではとても多くの人が「猫アレルギー」を訴えられている。それに反して「イニアレルギー」はあまり聞きませんね。さらにいうと、好き嫌いを問われて、「別に…」という人は僅少でしょう。その「好き嫌い」も、やがては「嫌い好き」になるという点では、人間同士の付き合いとよく似ている、いや人間という動物は、そんな付き合い方しかできないのですね。「死ぬほど好きやねん」と惚れ抜いたと思わせた人間が「あいつを憎み倒してやる」「呪い殺す」と物騒なことを言い出す始末です。実際に「呪い殺す」のですから、冗談ではありません。人間の世界は「好きか、嫌いか」でしか成り立っていないような雲行きです。「狭い了見」ですね。好きだからこそ、嫌いにもなるんだがなあ。もっというなら、好きになるのも嫌いになるのも、じっくりと「熟成する」という意味では、時間はかかるし、好きが嫌いになり、また好きになるというように、一筋縄ではいかないのが「付き合い」というものではないですか。

 ぼくは、今のかみさんと「付き合い」始めて、五十年を超えました。だから、この五十年の拙(つたない)い経験が「付き合い」考のすべての元手だと言っても過言ではありません。そこから学んだことは、好きだけでも嫌いだけでもなく、さまざまな感情が働いた結果の五十年ということです。この感情(情念)というものは、実に面倒で始末に負えない厄介さがあります。よく「売り言葉に買い言葉」という。これは言葉が感情を突き動かして、場合によっては「修復不能」の域に達することもあるくらいです。「相手の暴言に応じて、同じような調子で言い返すこと」(デジタル大辞泉)だそうですが、このとき、間違いなしに「言葉は武器に」なっています。ぼくも、錆(さび)ついてているとはいえ、この「ことばの武器」を振りかざすことがあるのだから、困ったもんですね。

 いささかでも「自制心」が顔を覗かせれば、事なきを得るのでしょうが、肝心なときには「顔」を出してくれません。出し入れ自由というより、突然の感情(情念)の暴発に、果敢に「諌(いさ)め、宥(なだ)められる」ようになるには、相当な回数の過ちが必要になるのでしょう。情念の爆発が抑えられないのは「薬物依存」的意味での生理的問題があるからであり、そこから解放されるためには相当の「自己把握(立て直し)」が求められるでしょう。何事においても「授業料」は高くつくものです。「握った拳を開け」ということすら、簡単にはできないんですね。人間は犬や猫、ひいては「動物」と紙一重、四捨五入すると、いっしょやで。

 駄文が思いの外に調子がよくて(嘘です)、どんどんあらぬ方向に奔走して行く。テーマは「猫と人間」でした。おそらく、ぼくと猫との付き合いは半世紀を遥かに超えています。幼児の頃からの交流ですから、かみさんとの交際の「先」というか、「上」を行っているようです。もともと、ぼくは野良育ちですので、野生の動物が好きでした。犬でも猫でも「ノラ」専門だったといえます。飼い猫とかペットという言葉自体が「拘束」「玩物」を示しているようで、生理的に嫌いでしたから、猫や犬だって「繋がれる」のは嫌うだろうと感じていた。今だって、嫌になるほどたくさんのキャットが犇(ひし)めいていますが、家への出入りは自由で、まるで「我が物顔」の振る舞いです。ただいまの難問は、勝手放題に駐車中の車に飛び乗り、足跡を思い切りつけてしまうこと。我が家のものは仕方ないとして、年末に越してきた前の家(会社の支社のようです)に乗り入れる数台の車にも、見境なく「屋根」に飛び乗る。予(あらかじ)め、事情を説明して、こういう不始末がありえますから、その節はお許しください、申し訳ありません、と。傷など付けたら、当方に言いつけてください。猫には注意しておきます、と言ってみたいけ、あまりにも林や野原が広いので、木登りやかけっこに夢中で、勢い余って「飛び乗る」のです。これさえなければいいのですが、車屋根への飛び乗りに対する教育効果がなかなか表れてきません。いつだったか、電気工事なんかのバンの後部に、ちゃっかり乗っていたのがいました。

 「愚かで、かわいらしく、寂しげなの。怖がりで、勇敢で。私たちみたい」とウェインの妻が語る。およそ百年前の、異国の一女性の「猫とのつながり」を示しています。百年後も二百年後も、このような猫の「性格描写」は変わらないでしょうし、別の人に対してはまた別の「表情」を猫は見せる。漱石はこの時期(1900年前後)、ロンドンに留学中で、下宿の部屋でホームシックに罹(かか)り、死ぬほど懊悩・呻吟していました。おそらくウェインの「猫たち」を目にしたはずです。鬱(うつ)病になったり、胃潰瘍になるのは人間たちなんだと、漱石は猫から学んだかも知れません。

 コラム氏は書く。「昨秋からわが家にも小さな保護ネコが2匹いる。ワクチン接種の際に追い回したせいか、近づくと今も怖い顔でにらむ。寂しいけれど、仕方ない。じゃれ合う彼女らを遠くで眺めるだけでよしとするか。人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっているのだから」猫に成り代わって、(ありがとさん」と感謝したくなります。(この「保護猫」などという表現をなんとかしたいね。保護されているのは猫ですか、と訊きたいのだ)ここにも一人、猫に「してやられた」人間がいます。動物との付き合いで大事なのは「してやられる」ことに尽きますね。ほとんどの猫好きの猫話は、まるで夫婦の惚気話(のろけばなし)のようで、耳にはなかなか入りにくい。でも、赤の他人にも「うちの猫の偉さ」「我が家のネコの凄さ」を話したくなるのは、結局は人間こそが寂しいからなんでしょうね。

 あるとき youtube を眺めていたら、一人暮らしの高齢者がインコと生活している場面が出てきました。食事をしましたかと、インコが訊く。「食べた?」「食べたよ」と答える。「美味しかった?」と訊かれる。「お薬は?」、まだ飲んでいないのを知っていて、尋ねる。この場面に、何かと工夫があるかも知れませんが、この女性は「Pちゃん」だか「Paーちゃん」がいなければ、生きていけないとまで言っていた。猫はどうでしょう。人間の言葉がわかる、といえば猫に「してやられている」証拠です。まあ、ぼくまでが「猫話」を話すこともありません。何時だって「悪戦苦闘」しています。それは人間との付き合いと寸分もとは言わぬが、似たようなものです。「人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっている」とコラム氏は書いている。この感情を末永く持っていてほしいですね。

 人間の厄介なところは「好きだから、嫌いになる」という「裏切り」が生じるという点です。嫌いになる要素も含んだ「好きやねん」ですからな。もちろん「嫌いが好きになる」もあるのですが、それはめったにない。最初は嫌いだったのに、努力の末に、やがて好きになった、こんなことは人間の付き合いでも、あまりお目にかかれません。それくらいに「好き」という感覚・感情が最初に働くのです。「ピンと来た」とか、「ぴぴっと来た」「直感が働いた」「赤い糸】などとあられもないことをのたまうのです。これは第一印象でもあり、一目惚れでもあるようですが、やがて、惚れたが悪いかと言っていたのが、「食傷気味」になり、顔を見るのも嫌だと、「本物の食傷」になる。「 同じ食べ物が続くと食べ飽きる」のだ。勝手ですね、人間は。でも、その点では、猫も変わらない。「人と猿」のDNAレベルの差異は、近年の研究では「1%」以下でしょう。猫とは、恐らく数%も違わないかもしれないと、ぼくなどは考えたりします。この1%の違いが、ドローンにミサイルを搭載して戦争するというハレンチを生み出すのですから、むしろ「わずかばかりの差異」がなかったほうが幸せだったかも知れません。一ミリとか、一%といいますが、この差は、時にはとんでもない大きな差になります。両目の間がもう一ミリ離れていたら、その口がもう一センチ大きかったら、「ぼく(わたし)は君(あなた)を好きにはならなかったろう」という、とんでもない「誤差」が運命を決めるんですからね。 

 親が子を殺し、子が親を殺す。他国人民を殺戮する人間が「英雄」「専制者」として「崇められる」、家庭を崩壊させてまで「カルト教団」に帰依する、その他、国を売り、国民を踏み台にして「自尊心」を誇り、それを他国の大統領に認証してもらいたいという、そんなチャラい「総理」がいる国がアジアの東にある。来週あたり彼は外国に出かけ、「約束した通り、こんなに軍事費を増やした」「もっとたくさんの(我楽多)武器を購入します」と成績を上げることにやっ気になっている。「売国」とは、これをいう。猫は、こんな人間模様をどのように見ているのか。さぞ辛辣に、と思いきや、「人間は昔から変わらんな。死んでも変わらない。二足歩行からこの方、実におかしく、かつ狂気じみてきたね」と言うだろうな。人間を観る動物の眼は、冷めていますね。尾っぽを振ると、すぐにずに乗る、手に負えない連中だよ、って。(もっと駄文を書きたいのですが、猫が呼んでいるので、ここまで。時間があれば、また後で。午前十時)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)