「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」

 【談話室】▼▽飾り臼は、新しいむしろの上にしめ縄を張った臼を据え、鏡餅を供えて祝う正月行事である。古来、農家はその年の福徳をつかさどる歳徳神(としとくじん)を祭る際、くわと鎌、臼を供えていたとされ、中でも臼は大切なものだった。▼▽〈あかねさす近江の国の飾臼〉。元東京大学長で文相も務めた有馬朗人さんの第3句集「天為」の巻頭を飾る句である。洗い清められた臼と真っ白な鏡餅が置かれた場に、あかね色の朝の光が静かに差し込んでくる。新しい年が穏やかに明けたことを告げる一句といえよう。▼▽山形市切畑で伝統の餅つき臼を手掛ける酒井平男さん(86)のなりわいにも明るさが見え始めた。おととしはコロナ禍の影響で注文が途絶えた。しかし昨夏から新品に加え、修繕の依頼も入るようになったという。加えて作業を手伝ってくれる青年の存在も心強いはずである▼▽長井市の林業平一貴さん(40)が木工技術を継承しようと酒井さんと共に製作に励んでいる。餅つきは祭りや慶事でも行われるが、新型コロナ感染防止のため取りやめた事例も多かろう。商店街などの行事で、子供たちが心置きなく餅つきを楽しめる日が早く来ることを願う。(山形新聞・2022/01/01)

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 もう六十年以上も前のことになりました、家の庭で「餅つき」をしたことを記憶しています。我が家ではなく隣家でのことで、近所の人が出て、鏡餅やその他の用意をするのでした。何年くらい続いたか、その後に引っ越しをしたので、餅つきとは無縁になった。ぼくはあまり「お餅」は食べない。嫌いではなく、他に食べるものがふんだんにそろっていたからでしょう。お雑煮も口にはしますが、「なんで、それを食べるの」という疑問ばかりが多くなりました。やがて、大学生になり、「民俗学」などを一人で調べるうちに、ぼくたちのしている、どんなにつまらないように見える「行事」にも、その初めには深い、あるいは深刻は理由があったことを知るようになりました。正月などの取り決めも、それぞれに「由緒」「謂われ」があったことを知り、ぼくは、その意味や背景を失った「行事まがい」「模擬行事」に、ある種の興醒めを感じたままで、青年期を過ぎ、年寄になってしまったのです。その昔、ぼくたちの先祖が大切にしていた年中行事で、信仰に基づかないものは何一つなかった。だから、「信仰」を喪失した、「信仰」を忘れたままの模擬行為は滑稽ですらあると、ぼくは考えるようになったのです。たまにお寺やお宮に出かける、その大きな理由は「建物」「建築」に関心があるからです。

 今でも各方面で散見しますが、「祭礼」、お祭りです。軽トラックに輿(みこし)を載せて、町内を巡回するという、まるで「廃品回収」のような「惨めな風景」には、言葉もないというか、可哀そうな「祭礼」という気がしてきます。(「廃品回収」を惨めとか、可哀そうというのではありません。それにしても、くだんの業者さんは、近年では、姿を見ませんね)田植えや稲刈りも同様です。耕運機やトラクターがやってくれる農作業、それは悪いことではありません。しかしその脇で「田植え」や「稲刈り」に纏わる行事は、かえって「厳かに」執り行われるのですから、ここでも滑稽というほかありません。皇室の田植えでは、農機具を使わないのは不要だからでしょうし、それだけに「稲に関わる行事」は厳粛を究めているんでしょうか。なにしろ、「瑞穂のクニ」です。新嘗祭や神嘗祭などというものも、民間でも行われていたもの。遥かの昔、苦労して育てた稲を収穫する喜びは、ぼくたちには想像すらできないほど大きなものがあったと言えます。収穫がもたらされたのは農薬や農機具などの御蔭ではなく、「田の神」のご加護があったという信仰は、それなくして人民の生活が立ち行かいないという宗教心に支えられていたのです。

 軽トラでお神輿、デパートの「お節料裡」、スーパで贖った「鏡餅」などなど、「もういくつ寝るとお正月」がシラケてきませんか。その景色をぼくは揶揄もしなければ、否定もしません。できない相談です。そうすると、ぼくに残る仕草は「嗤うしかない」ということになるのです。つまりは「年越し」「お正月」の真似事でもいいではないか、まあ、そんな時代になったのですから、と、民間信仰や年中行事にこめられていた、わが祖先の生活への願いや想いさえも、どこかに置いて行かれてしまったのです。子どもの頃は「初荷」といって、幟を立てて品物を運んだものです。新年の「松の内」は商店も会社も休みでした。劣島揃って冬ごもりだった。それがどうだというのではないのです。そういうことをするだけの理由を、わが先人たちはもっていたということを忘れたくないだけです。そして、できれば「まがいモノ」だけは止めてほしいねえという、個人の感慨です。そんなものがなくても、年は暮れるし新年は明けるのです。「民間行事」の大半は、今では迷信からのものとも言えそうですが、大本は、素朴な自然信仰、先祖のお陰・ご加護を感謝・祈願するものだったろうし、困難の際の嘆願や救援の意味合いもあって、ことのほか丁寧(煩雑)に行われていました。

 こんにちは、そのような素朴な信仰心や先祖への敬神の姿勢が薄れたり皆無になったにもかかわらず、表層だけ、あるいは換骨奪胎の真似事が横行する、その「軽薄な伝統踏襲」は、だれが、どうしてやるのだろうかという疑心だけがぼくには募るのです。その軽薄な「模擬・模倣主義」は、この社会の基底をなしてきた「文化」を浅薄なものにしてしまうし、その文化圏に生きていた「人間関係」そのものを軽薄化していることに、ぼくたちは手を拱(こまね)くしかないのです。かかる文化に生きていた民衆の生活感覚・感情に対して、いささかの尊崇の念も抱けないというのなら、それは、そこはかとない滅びへの道を、ぼくたちは歩いていることにならないでしょうか。

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 【有明抄】おさい銭と初心 新年を迎えた。初詣に出掛ける人も多いだろうが、おさい銭はいくら? 10円、100円、500円。一年の幸せを願うわけだから奮発してお札にしようか。いや、神様は少額でも機嫌を損ねたりはしないはず…。さい銭箱の前で瞬時、思いが巡る◆詩人の吉野弘さんが旅先でおさい銭をけちった思い出をエッセーに書いている。ポケットの中には100円玉3枚と10円玉が7、8枚。手を入れると、100円玉が3枚出てきた。行きずりの祠(ほこら)の神に300円は多すぎる。そんな気がしてポケットに戻し、もう一度取り出すと、また100円玉が3枚出てきたという◆〈祠の神が向こうをむき、声をしのばせてお笑いになったような気がした〉。吉野さんはさらに想像を膨らませる。神様が所望したのは人間の「初心」であり、実は人間も自分自身に対して初心を所望するのではないか、と◆「初心に帰る」「初心を忘れず」というが、日常はその場、その時の判断でやり過ごす。そうしなければやっていけないのも現実だが、気づかないうちに初心からは大きく離れてしまっている◆年が改まった元日は初心に帰るとともに、新たな初心を胸にする日でもあるだろう。できるだけ自らに初心を求めて、一年を歩みたい。さて、おさい銭はいくらにするか。けちらずにと思いながら初詣に出掛ける。(知)(佐賀新聞・2022/01/01)

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 神社本庁 お賽銭について お賽銭の意味や起源には諸説があります。現在では神社にお参りすると、お賽銭箱に金銭でお供えしますが、このように金銭を供えることが一般的となったのは、そう古いことではありません。/もともと、御神前には海や山の幸が供えられました。その中でも特に米を白紙で巻いて包み「おひねり」としてお供えしました。/ 私たちは祖先の時代から豊かな自然に育まれ暮らし、秋になるとお米の稔りに感謝をして刈り入れた米を神様にお供えしました。こうした信仰にもとづき、米を「おひねり」としてお供えするようになったのです。しかし、貨幣の普及とともに米の代わりに、金銭も供えるようになりました。/ そもそも米は、天照大御神がお授けになられた貴重なものとされ、人々はその大御恵(おおみめぐみ)を受け、豊かな生活を送ることができるよう祈ったのです。現在でも米をお供えする方もいますが、金銭をお供えすることも、この感謝の気持ちには変わりはありません。/ お賽銭箱にお金を投げ入れるところをよく見かけますが、お供物を投げてお供えすることには、土地の神様に対するお供えや、祓いの意味があるともいわれています。しかし、自らの真心の表現としてお供えすることなので、箱に投げ入れる際には丁重な動作を心掛けたいものです。(https://www.jinjahoncho.or.jp/omairi/osahou/osaisen)(すぐ上の「お賽銭箱」も、ヘッダーの写真も)

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 左写真の「お札」は「大麻」と言われます。この「大麻」販売が、神社本庁の資金源になっているのですから、どこかの組織に酷似しているでしょ。この「大麻」の名称を巡っても議論されていてで、「大麻取締り法」の名称変更を神社側が出しているそうです。「お札」の正式名称は「おおあさ」と読むようです。しかし「たいま」と呼んでいるところも多くあります。それはともかく、この「幣」と、あの「薬」はよく似ているんじゃないですか、効き目が。はまると止められなくなるところも。効き目を周りに拡げたくなるのも。

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◉ たい‐ま【大麻】=ぬさを敬っていう語。おおぬさ。伊勢神宮などで授ける神符。アサ別名。また、その葉や樹脂から製する麻薬麻酔鎮静催眠・幻覚などの作用がある。日本では大麻取締法で規制されている。マリファナ。ハシシュ。(デジタル大辞泉)

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 神社本庁という組織がどんなことをしているのか、ほとんど知られていません。それをいいことに、かなりの荒行・荒業をしています。正月三が日をはじめとする多額の「お賽銭」はどういう流れで、どこに消えるのでしょうか。詳しくは書きませんが、お寺さんといい、お宮さんといい、お金と権力をめぐる闘争は積年の見世物であり、まるで「得意芸」でした。今も、その闘いは継続しています。ヤクザ世界に発すると言われる「啖呵」「仁義」、特に「仁義」はもともとは、お寺から出たものです。それは脇において、この神社本庁という「宗教法人」が、全国のお宮さんの元締め(博打で言う「胴元」)です。近年に至っても、主導権争い(金を巡る争い)の死闘を続けているのです。これに「日本会議」や政治家が深くかかわっている。

 歴史のおさらいになりますが、昭和二十年末にGHQから「神道指令」が出され、国家と神道の関係が切り離されることになったのを受けて、翌年に組織されたのが神社本庁(*「全国大多数の神社を統括する宗教法人およびその中央事務所の名称。第二次大戦後、国家管理を離れた全国約8万の神社を包括する」デジタル大辞泉)です。しかし、他の領域にも見られる傾向ですが、旧来の姿を取り戻すような動きが政治を通して明らかにされてきました。その過程で、あるいはそれが原因で闘争が繰り広げられるようになったとも言えます。神社をランク付けするという「愚」を旨とするような人々ですから、カネをめぐって「死闘」を繰り広げるのは朝飯前でしょう。その「資金源」になっているのが、祈願料である「お賽銭」ですよ、初詣の参加者殿よ。

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◉ 賽銭(さいせん)=神仏への祈願が成就(じょうじゅ)したことの報賽(お礼)のしるしとして奉る銭貨をいう。いまは、社寺参拝して祈願崇敬の心の表れとして奉る金銭をもいう。社寺の恒例の神事・仏事に捧(ささ)げる供物(くもつ)とは異なり、個人的な随時の参拝を目的とした際の神供である。古くは貨ではなく紙に洗米(せんまい)を包んで献ずるオヒネリとか、米を散(ま)く散米(さんまい)の形から、庶民生活に貨幣経済が広まり、また室町時代以降に庶民の他の土地への社寺参詣(さんけい)の盛行に伴って、銭に移行した。本来は、供物としての幣帛(へいはく)の味と、個人の罪穢(ざいえ)を祓(はら)い清める科料の意義も込められていた。また近年では、外国人による銭も増加し、明治神宮では約800種のコインが捧げられている。(ニッポニカ)

 賽銭の「賽」は神に報いる、お応えするという意。外には「お礼まいり。むくいまつる」「競争する。優劣を競う「日本さい。さいころ。すごろくやばくちに用いる道具」と多様多彩な使われ方があります。お寺も神社も、それぞれが好みの「お賽銭」を自らの理解としているんでしょう。さらには、「賽の河原=無駄な努力のたとえ」「賽は投げられた」決めたのだから、後戻りはできないの意。というように、「賽」には、いわく言い難い「因縁」めいた含意が認められそうです。

 お賽銭と聞けば、ぼくは直ちに「寺銭」という語を並べたくなります。お寺は賽銭の外に「寺銭」まで収入源にしていたとするなら、大した儲けがあったでしょう。もともとは「博打の賭場」がお寺だったことから「ショバ代」を指した言葉が「寺銭」だった。それが実際にお寺に入ったかどうか、「割前」があったのは確かでしょう。ここで気を付けたいのは「賽」は、元は賽子(さいころ)であり、賽の目(数)であったという点です。始めは「ご利益に与った」ので、お礼参りとして出した(投げ入れる)ものでしたが、寺や宮に拝みに行く際に(ご利益がありますようにと)出す方法に定着しました。「先取り」というか、ご利益があってもなくても「取りはぐれないように」という魂胆が見え透いているんですよ。後でもいいけど、前の方が「ご利益」が多くなるとかなんとか言ったのか。神社仏閣は、商売上手なんだ。まるで、戎(えびす)さんですね。

 本日は正月二日です。各地の神社は「善男善女」で大混雑しているかもしれません。「家内安全」「商売繁盛」」「夫婦円満」「試験に合格を」「今の彼(女)とは別の、彼(女)と結婚できますよう」と、無理難題、荒唐無稽、倫理荒廃に関わる、あらゆる願いごとを「お賽銭」に託して「大枚」あるいは「ワンコイン」をお賽銭箱に投げ入れます。ぼくに言わせると、お正月は劣島上げての「大博打」の開帳日のような気がしています。そうでしょうね、どんな目が出るかわからないのに、カネを張るんですから。さて、「丁と出るか半とでるか」。晴れ着を着て博打かいな。

 それを集めて計算するのに、銀行の支店が総出だという神社もあります。総額いくらとは言いませんが。願いごとがかないますようにと、浄財を振り込んだ(奮発した、張った)のに、その金の流れは、上で述べたような「山分け」「取り分争い」、はては「政治献金」まがいまでと、庶民の「祈願料」とは無縁の使われ方をしているのです。文字通り「さいころを振るための金」だったんですかね。

 いくら「お賽銭」を払っても、すこしも願いが成就しないのは、おのれの身の不始末のせいではなく、こんな「特定抗争指定✖✖団」顔負けの争闘に費やされていたと、疑っていいのです。この島で最大の暴力団が「抗争分裂」したのは「金銭問題」からでした。その上手を行くような神社本庁VS大手神社の抗争劇には、まだまだ幕がおりそうにありません。上納金を払いたくない「大手神社」が脱退、分裂を勧めています。

 「阿弥陀の光も金次第」という、至言、いや名言があります。「地獄の沙汰も金次第」ともいいましょう。まだまだ、この手の「格言」「名言」は尽きることがないようです。これを作ったのは「お寺さん」じゃないかと、ぼくは睨んでいるのですが、次はお寺さんについても、駄文を書きましょうか。ネタには事欠きません、経験談ですから。ものすごく「エゲツナイ世界」ですよ。ぼくはお参りするために、寺へも神社へも行かないし、誰かの連れになることがあっても、「お布施」「賽銭」は投げません。まして「寺銭」には無縁を決め込んでいます。要するに、ぼくは、一面では「自力派」です。(「自助」派ではない)「困ったときの神頼み」というのは、これもまた、お宮さん関係の人が作った「名言」だね、きっと。しかも、賽銭は多いほどご利益があるというのですから、神仏を騙る人間たち。このような「(救済や大願成就を騙る)宗教」には、時の古今、洋の東西を問いません。「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸(さきは)え給へ」

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 いくつもの「存在消滅」の残り時間を考える

 【滴一滴】伝統的な染織の世界で、緑というのは神秘の色だ。緑色をした草木はこれほど身近にあふれているのに、紅や黄、だいだいなど他のどの色とも違い、一つの植物から直接染めることができないという▼だから黄色く染めた糸に藍の青を重ねる。その作業を何度も繰り返す。手間はかかるが、力強く、鮮やかな緑は古来、そうまでして身に着けたい色だったのだろう▼四季が巡るこの国には、彩りの季節の後に必ず冬枯れが訪れる。寒さの中でも青々とした葉を保つ松や杉は、不変や長寿を象徴する特別な存在だ。正月の門松も年神様を迎える目印と、その神様が宿る「より代(しろ)」の重役を担っている▼新しい年が幕を開けた。いまだ新型コロナウイルス禍に社会全体が揺さぶられ、各地で貧困や格差の問題が噴き出している。何より多くの人が病と後遺症に苦しめられた。大勢が大切な誰かとの別離を経験した▼一方で、昨年は約80万人の赤ちゃんが生まれたとみられている。少子化の憂いはさておき、みずみずしい新芽のような「みどりご」たちを新しく仲間に迎えられたことを喜びたい▼ドイツの文豪ゲーテは、光を伴う黄色と闇に近い青が混ざって誕生するために、緑は安らぎをもたらす色であると考えた(「色彩論」)。難局の先に無数の若葉がもえる。そんな景色が広がる今年であれと願う。(山陽新聞デジタル・2022年01月01日)

 「青春」というのは、一人の人間(個体)にあっても、種(系統)などにおいても言えることです。「彼や彼女は青春の真っただ中」だというのは、清々しいと同時に、危なげで目が離せないという気もするのは、当方が老人になり切ったからでしょう。それはまた、消え去った「青の時代」をはるかに遠くに見るような、一種の羨望の念が言わしめることであるのでしょうか。その老人からしてみれば、自分の貧しい経験を踏まえて言えば、「青春というのは、泥沼だった」と。弱いのに強がりを言う、背伸びは大事ですが、背伸びしすぎるのも青春だったような気がします。自分を持て余すんですね。だから、けっして持ち上げたり、囃し立てるような代物ではない、それが青春だと、ぼくは言いたい。

 赤ん坊を「みどりこ(嬰児)」というのも、実はとても古い「いわれ」があったのです。すでに奈良時代から「緑児(みどりこ・りょくじ)」とされていた、その知恵には何かぼくたちの知らない背景があるような気もします。

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◉ みどり‐ご【緑児・嬰児】〘名〙 (古くは「みどりこ」) 三歳ぐらいまでの子ども。赤児。幼児。大宝令では三歳以下の男・女児を緑と称すると規定してあり、奈良時代の戸籍には男児緑児と記している。りょくじ。※万葉(8C後)一八・四一二二「彌騰里児(ミドリこ)の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてそ待つ」(精選版日本国語大辞典)

◉ りょく‐じ【緑児】=〘名〙 三歳ぐらいまでの小児。特に、奈良時代の戸籍で、三歳以下の男児をいう。大宝令では三歳以下を緑と称し、養老令では黄(こう)といった。みどりご。緑子。(同上)

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 時代が下るにつれて、知恵も技術も、人間のなす事々が新しく、古い時代は「遅れている」と言いたくなりますが、それは「真っ赤な嘘」(とはいえませんが)であり、実はその反対であると、ぼくはいつも考えてきたし、言ってみたくなるほどに、人間は「不遜」であり、「唯我独尊」状態に舞い上がってきたし、舞い上がっているのです。温泉に入るのも、サツマイモを海水で洗うのもお猿さんから学んだ(継承した)のであって、人間が作った「文化」だと、猿が聞いて「顔を赤く」しますよ、恥ずかしいほど、人間は無知だね、と。あくまでも、この言い草は、人間の謙虚な姿勢を取りもどすためすの、ぼくの勝手な言いがかりではあります。それはともかく、古い時代から、すでに青や緑が「神聖視」されていたのは暗示的です。いったい何を示そうとしているのか。昨日、ぼくは「アオキ」や「オモト」に触れて、この植物は、「長寿」「長命」の象徴であり、年を取らない(ということはありえませんが)ことの例えに用いられてきたとも言った。「青」は瑞々しく、清々しい色であるという受け止め方は、時代や文化のせいではなく、その色彩が与える「安心感」であったろうと思われます。信号の「青」のように。(植物の問題としては別の機会に)

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◉ せい‐しゅん【青春】=[1] 〘名〙① (五行思想で、中国において、青色を春に配するところから) 春の季節。陽春。芳春。青陽。《季・春》※凌雲集(814)神泉苑花宴賦落花篇〈嵯峨天皇〉「過半青春何所催、和風数重百花開」※中華若木詩抄(1520頃)中「青春が江南の枝に入と、同く梅花さき乱て」 〔梁元帝纂要〕② (年ごとに春がめぐるところから) 年を重ねること。歳月。星霜。また、年齢。よわい。※読本・英草紙(1749)三「青春(セイシュン)十年を折(くじ)く」 〔司空曙‐送曹同椅詩〕③ 人生の春にたとえられる若い時代。年のわかいこと。青年。青年時代。※懐風藻(751)賀五八年〈刀利宣令〉「縦賞青春日、相期白髪年」※本朝無題詩(1162‐64頃)九・暮春遊霊山寺〈藤原明衡〉「青春花鳥雖志、今日貂蝉欲蹤」※三四郎(1908)〈夏目漱石〉一〇「考へるには、青春(セイシュン)の血があまりに暖か過ぎる」 〔李白‐送李青帰華陽川詩〕[2] 小説。小栗風葉作。明治三八~三九年(一九〇五‐〇六)発表。理想主義者だが個人主義的傾向が強く実行力に乏しい関欽哉と、才色兼備の女子大生小野繁との本能満足的な恋とその破綻を描く。同時代の風俗の描写に優れる。ツルゲーネフの「ルージン」の影響が濃い。(同上)

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 縄文や弥生時代の人々を「青春時代」の人々というなら、今日の人間は、きっと相当な老人であるということになりそうです。個体発生と系統発生の類比を出すまでもなく、われわれの社会にも「嬰児」は生まれますが、それは老人化した「赤ん坊」であるということにもなりかねません。ではどうするか。それが、いまや世界中で問われている大問題ではないでしょうか。「一国平和主義」も「一国民主主義」もなりたたないような時代状況にあって、「一国青春時代」を謳歌することさえままならないのは当たり前でもあるように、ぼくには感じられてきます。それだけ、この地球上には「緑」や「青」が棲息することが極めて困難になっていることを明示しているのです。定期的にWWFという団体から冊子が届き、そこにはつねに「絶滅危惧種」「絶滅種」などの色分けが掲載されています。やがて、そのリストに「人類」も掲載されることは避けられません。数々の動植物が絶滅する環境にあって、人間だけが生き延びられるという保証は、どこにも求められないんではないですか。

◉ ダブリュー‐ダブリュー‐エフ【WWF】[World Wide Fund for Nature]=《World Wide Fund for Nature》世界自然保護基金。世界の野生生物とその生息地を保護するための基金。1961年設立の世界野生生物基金(WWF;World Wildlife Fund)を、1986年に現名称改称本部スイスグラン。(デジタル大辞泉)

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 「万物の霊長」という自尊心をくすぐるだけの名称いや「詐称」、他の生命体を睥睨し、蔑視するような「種族」は、この地上におのれだけが生存しうると考えるほど愚かであり、そんな生き物、手前勝手な生き物は、どこを探してもいない。ということは、すでに「万物の霊長」の「絶滅」が始まっているということでもあるのでしょう。「核戦争に至る時間」が残すところ(核の危機を示す時計では)数分だとしばしば報道されますが、人類が「呼吸器疾患」「肺炎」などで死亡する、あるいはたがいに殺戮合戦を止められないで死する、その他、もろもろの「文明病」(その中に交通事故死などや感染症に因る、あるいは数多の公害に発する死なども含まれます)に起因する死亡など、その数たるや際限もなく膨らんでいます。「人類絶滅への残された時間」は、どれくらいなのでしょうか。ソバ屋で注文してそばを食べるほどの時間的余裕があるのかどうか、注文が出来た途端に、時間切れとなるのか。店に入ったとたんに「閉店」となるのかもしれない。

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【12月28日 AFP】昆虫の研究や、環境保護を声高に訴えたことから「ダーウィンの後継者」と称された米生物学者のエドワード・O・ウィルソン(Edward O. Wilson)氏が26日、マサチューセッツ州で死去した。92歳。E・O・ウィルソン生物多様性財団(E.O. Wilson Biodiversity Foundation)が27日、発表した。

ウィルソン氏は米ハーバード大学(Harvard University)の研究教授を長年務め、アリとその行動に関する世界的権威とされていた。後年は昆虫だけでなく、鳥類や哺乳類、人間の社会的行動を研究し、社会生物学を新たな科学分野として確立した。

数百本の科学論文のほか、30冊以上の著作を残し、1978年の「人間の本性について(On Human Nature)」と90年の「アリ(The Ants)」でピュリツァー賞(Pulitzer Prize)ノンフィクション部門を受賞した。

その先駆的な研究は物議も醸した。1975年の著作「社会生物学(Sociobiology)」は、動物の行動に関する論説が学界で高い評価を得たが、最終章では人間の行動は大部分が遺伝的なものであり、男女間の分業や部族主義、男性優位、親子の絆などの傾向は生まれつきの素質として獲得されると論じて、批判を浴びた。だが、それでも自然科学の権威としての名声は揺らぐことがなかった。(c)AFP

 「アリ」は中学校だったかの教科書(「国語」)に掲載されていましたね。「人間の本性について」はくり返し読んだものです。細かいところから、大きいところまで、微視から巨視まで、深く考えて問題を提示し続けた人だったと思われます。門外漢のぼくが、たくさんのことを教えられた「生物学者」でした。

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