義理がすたれば、この世は闇だ

 地球の至る所で、寒波や豪雪が襲来しています。(夏季には山火事や渇水、熱波などが頻発している)もちろん、その多くは、自然現象として説明されますが、その被害が人間の生活におよぶと、それは単なる「自然災害」とはいえなくなるのはなぜでしょうか。この劣島では、昨年も北陸、東北、北海道地区などで豪雪がありました。その被害の広がりと深さにおいて、この数日間、ぼくは昨年の「映像」を見ているような錯覚を覚えたのです。寺田寅彦が言ったとされる「災害(天災)は忘れた頃にやってくる」は、百年前ならいざしらず、今日では「忘れる間もなく」やってきて、人間社会に大きな被害が生じるのです。今冬は始まったばかりで、各地で停電が発生している。今の生活で「電気」のない生活は考えられません。まさに「電化生活」が直撃されるのが今の「災害」ではないでしょうか。つまりは「文明生活」が直撃されて、手足がもぎ取られる状態が日常となっている、これを、ぼくは「耐寒」とか「耐乏」などとは言わない。ここにこそ、人間生活の根っこがあるということを忘れたくないのですね。縄文や弥生時代の人々に学ぶのだということですよ。

 「災害に強い国造り」というものがあるのかどうか。水害に対処するために豪華過ぎる防水・防波建造物を乱立させる。巨額の税金を投入し(その内の何割かは、「水防」などとは無関係のピンハネによって、私腹を肥やすために、いつの間にか消えていく)、これこそ、つまりは巨額の税金の何割かを横取りすること、それが政治なのだというように、「国土強靭化」そのものを、自然の営みはあざ笑いながら、庶民の生活を急襲する、その一方で、政治家もまた時差医者を「あざ笑いながら」横取り、ピンハネ、略奪を繰り返す。いい商売があったものです。「公共事業」というなの「税金略奪行為」が世辞なんだ。

 豪雪地帯に対しては「融水装置」の設置が関の山で、これまでにどれくらい続いてきたか、実に素朴な「屋根の雪下ろし」の苦行。恐らく数百年の停滞(そのまま状態・お手上げ状態)が続いている。道路の雪を溶かす装置が早い段階で装備されていながら、屋根の雪が人力でしか降ろ(さ)せないという、自動運転の車が行き交う時代、無人ドローンがミサイルを積んで飛ぶ時代、何という滑稽かと、ぼくは当該地区の人々の苦労をみやり、想いを寄せながら、政治の無策・無能を密かに笑っている。すべてがそうだというつもりはないが、この国の国政に携わる人間たちの「覇権主義」「名誉欲」「利益第一」などという、腐った姿勢や態度が、どれほど人心を澱ませてきたことか、他者を尊重しない態度が、いらぬ敵対関係を生むに至っているか。「公共」「公徳」「公民」「公務」などという、みんなで作る(共同する)からこそ「社会」であるという、その社会性が著しく毀損されたのは、かえすがえすも悔しいことです。ここでまた、学校教育の貧困かつ粗暴な「成績主義」を呪うのです。多くの政治家・完了・経済人たちは、こぞって(誇るべき高学歴」の所有者だという事実に、赤面こそすれ、そんな卒業生を生んだ「学校の恥」だと、どうして考えられないのだろうか。

 社会は、もと「社交」とも言われていた。いわゆる交際・交流・交換・交渉など、簡単にいえば、人々の「付き合い」でなりたつ、一つの仕組み(町内会)です。その「仕組み」を支える「交際」や「交流」、付き合いがどこかで歪められ、軋轢を生じない人間関係が結べなくなる傾向がかなり増大しているのは、どうしてか。この年齢になって、今更のように「競争」「優劣」ではない「教育の再生」に深く思いを及ぼしています。 

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 徒然日乗(LXVI ~ LXX)

徒然日乗・LXX Shrinkという単語をよく聞く。「収縮」はその邦訳。ここで使うのが適切かどうか迷うが、本年の出生数はおよそ77万人と予測され、半世紀前の1973年生まれと比較すると、約三分の一。この人口が社会・福祉政策の基本だと見做すと、身の毛も弥立(よだ)つと、大仰臭くとも、ぼくは震えるのだ。「国家の屋台骨」を支えるべき「人口」が極端に縮んでいるのに、かなりの政治家はほとんど関心を示していない。莫大な借金の上に、防衛費という名の「戦争ごっこ代」の奪い合いの乱痴気騒ぎ(orgy)に反して。だから、身の毛が弥立つのだ。急減傾向はさらに続く情勢にあって、さて、諸人が身命を賭して「守るべき祖国」が存在し得るのかどうか。遠からず「国家消滅」に至る。「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)「それほどの祖国は、オイラにはないね」と、ぼくは反応します。(2022/12/25)

徒然日乗・LXIX 一人の国民でありながら、政治や政治家の動向を仄聞していると、救いがたい心境に襲われます。総理大臣が、いわば側近官僚に「拉致」され、まるで身ぐるみ拘束(梗塞)されて、当節は「官僚傀儡政権」とでも称するほかない自滅状態に陥っています。言わずと知れた「経産省内閣」であり、「経産省政治」の傍若無人ぶりを見せつけられている。その経産官僚支配の背後には米国がいるという「日米安保体制」の歪んだ完了型がここに見て取れる。原発問題、防衛費増額問題、その他諸々、「現下政治課題」のことごとくが、ほぼ数人の「官僚」に掌握されてしまっている。この「歪(いびつ)体制」は二十年以上も続いていることになる。ごく一握りの官僚は「無能内閣」を操り、省益を優先して誇ってきたが、国内だけでは扱いきれない課題が陸続と生じて、やがて、その殆どの「大計画」は失敗に帰した。おのれ一個の「名誉挽回」「失地回復」の手段に国政を「乗っ取った(take over)」し、「牛耳っている(dominate)」のだ。行く先には「瓦解」が待っている。(2022/12/24)

徒然日乗・LXVIII  大雪のために停電した家中から、駐車中の車で「暖を取ろう」と、一人の女性がガス中毒死したニュースがあった。少し気をつければ、命を落とさなかったのにと、他人事ながら悔しい。同じように、除雪中に側溝に落ちた、屋根の雪下ろしをしていて、落下し、雪の中から遺体が発見された、毎年のように、似たような事件や事故による死亡が絶えない。ぼくは若い頃、群馬や長野、宮城などに車でスキーに出かけたので、雪の怖さを経験している。無理はしないことは雪道に限らない。アクセルを踏みすぎない、ブレーキは踏まないなど、雪道の運転をイロハから学んだのも、実際の経験による。危険な目にあったこともある。だから、先ず無理はしないこと、細心の注意を払ってもなお、「念の為」を欠かさなかった。車は便利だし、生活には不可欠だからこそ、「便利」に足元を救われたくないのだ。「自分の命は自分が守る」、この島の「鉄則」なんだ。(2022/12/23)

徒然日乗・LXVII 本日は「冬至」だそうです。一年でもっとも昼が短く、夜が長い日。千葉地方の「日の出」が六時四十四分、「日の入り」が十六時三十一分。これを境に、日の出時刻が少しずつ早くなる。本格的な寒さが到来したという気もします。北陸地方の豪雪は大変なもので、雪を降らせないようにはできないにしても、もう少し雪による日常生活の「中断」をなんとかしたいと思う。当地は数年に一度、ほんの申し訳程度に「積雪」(というほどでもない)があるだけでも、停電はするし、断水もある、道路は通行不可になる。一日二日で雪が消えるからいいようなものの、これが三日も五日も続くとどうなるか、ぼくはいつもそれを考える。怖いわけではないが、日常が「中断」されることが我慢できないのである。(2022/12/22)

徒然日乗・LXVI 日銀の国債(国・政府の借金)保有率が五割を超えています。五百兆を超える国債を中央銀行が保有して、ようやくこの国の政治が成り立つという前代未聞の「闇金政策」が続いてきました。「バカも休み休み言え」の見本のような「異次元緩和」の金利水準が、ようやく溺死状態から救い出されるのかどうか。命脈は保っていけるのかどうか。仮に、自呼吸ができるとしても、あらゆる装置や医者を準備して置かなければ、一刻の猶予もならない事態に入っているのです。硬直(瀕死)状態にある病状が、さらに悪化するのか、この危機を乗り越えられるのか、誰にも予断は許されていない。悲しいことに、まともな医者がいないのだ。(2022/12/21)

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 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(万太郎)

 【日報抄】おでんに入れる具といえば? 大根それから卵だろうか。人気者である卵の値段が上がった。長らく「物価の優等生」と言われてきたが、1年前に比べると3割ぐらい高いとの相場データがある▼鳥インフルエンザの影響がある。さらに鶏の餌となる飼料の高騰も痛手になっている。多くを輸入に頼る飼料は価格が2倍になったとの話もある。段ボールなどの資材費や運送費も上がったそうで、優等生を取り巻く厳しさが伝わってくる▼日本政策金融公庫がまとめた冊子には、そうした生産現場の悲嘆が載っている。牧場も困っているという。飼料代だけでなく、高い電気代も重荷。畜舎に多く設置した扇風機を止めるわけにはいかないのに。60万円だった1カ月の電気代が85万円を超えたとの例が紹介されている▼牛乳メーカーも仕入れ値が上がって苦しい。容器となる紙パックの値段も、工場のタンクを洗う洗剤の価格も上がってしまった。ハウス栽培をする農家も苦境にある。ハウスを暖めるための重油が急騰。キュウリを育てる生産者によると、年300万円だった燃料費が550万になりそうだ▼どこも手をこまねいているわけではない。鶏ふんを堆肥にして韓国に輸出してみたり、暖房費のかからない夏だけの生産を試みてみたり。ピンチの中でひと筋の光をたぐる▼値上げなどしたくない。優等生でいられるなら、いたいはず。でも限界がある。卵や牛乳、野菜を手に取るとき、高騰の波をかぶる生産者の苦しみに目を向けたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/12/25)

 愚問です。「おでん」と聞けば、何を思い浮かべるでしょうか。ほぼ全員が「「煮込みおでん」でしょう。醤油味でいろいろな具材を煮込んだものです。時代的に言えば、それは極めて新しい調理法で、一種の「ごった煮」ですね。元来はそうではなかった。この食べ物の由来は「田楽(でんがく)」にあった。「田楽」は一種の習俗とも言えるもので、「田の神」を祀るための踊りや囃子などが繰り広げられ、恐らく【五穀豊穣」を祈ったのでしょう。一説には、平安時代あたりから見られるそうです。その後、田の神や田植えなどとは独立した、民俗芸能として広く民間で受け入れられた。ある種の大衆芸能であり、その流れは、ごく最近まで受け継がれてきたのです。その「田楽」「田楽舞」は他の風習と混在し、独自性が見えなくなりました。その履歴がかろうじて「味噌田楽」などという食べ物としてその痕跡をしのぶことができるのです。なぜ、食べ物の名前になったのか、無責任な当て推量をいうと、おそらく田植えなどの集団労働の際の「共同食」だったのかも知れません。豆腐や蒟蒻(こんにゃく)などに味噌を塗り、それを串に挿して食用に供したのでした。詳細は以下の辞書に譲っておきます。

 今で言う「おでん」は鍋物の典型として、多くの人が好んできました。かくいうぼくも大好きで、その昔は、一つ一つの具材を揃え、自分で作るのを楽しみとしていました。もちろん、お酒の友として、です。何軒か、よく通った店もありました。勤務先のそばにもよく流行るお店があり、しばしば酔いつぶれるほど(その店は白鶴の升酒でした)飲んでは、おでんに舌鼓を打った。今も、そのお店は健在かどうか。新宿や銀座にも名物おでん屋(ぼくが通ったのは「お多幸」)がありました。ここにも、何十年もいかなくなりました。健在かどうか。その店も、いつ行っても混んでいるような繁盛ぶりでしたね。

● おでん=鍋(なべ)料理の一種。おでんの名称は「おでんがく」の略語で、その語源は田楽(でんがく)である。田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた。/ 古いころの田楽は焼き豆腐にみそをつけるものもあった。こんにゃくが豆腐のかわりに使われる場合はゆでて用いていた。江戸中期から、野外宴会などに豆腐田楽が用いられたが、これに適するため滋賀県栗東(りっとう)市目川(めがわ)の崩れにくい田楽が導入された。当時の田楽串(くし)は先が3本に分かれていた。いまは全国的に2本串になっているが、名古屋、岐阜の一部に3本串が残っている。おでんの呼称は、田楽におの字をつけて「お田楽」となり、楽がとれて「おでん」となったものである。みそを用いての煮込みおでんは江戸後期にみられるが、しょうゆ味のだし汁で煮込んだおでんは明治の産物である。/ おでん種(だね)は、豆腐、がんもどき、こんにゃく、はんぺん、イモ、ダイコンなどであったのが、いまは動物性材料が多くなっている。大正の中ごろ、関西で「関東煮(だき)」の名で紹介されたものは、鶏のだし汁に下煮をした種を加えるのできれいな料理になって、関東に逆移入され、全国的にこの形態になった。郷土色のあるものでは、徳島の「でこまわすで」とよばれる、串刺しのサトイモにみそをつけて焼く田楽がある。熱いので息をかけながら串を回して食べるようすが、阿波(あわ)人形を操るのに似ているのでこの名がある。(ニッポニカ)

 これもどこかで書いています。おでんというのは種々の具材を煮込むもので、一品では絶対に出せない、混合の味が売りになっているのでしょう。ダイコンだけ、蒟蒻だけ、竹輪(ちくわ)だけでも食べられなくないし、それを好む人がいるのも事実です。しかし、それぞれの味を持ったものが時間をかけて煮込まれると、雑多のより合わせの味が滲みてくるのです。異種混合、あるいはハイブリット、それこそがおでんの風味だというと大げさですが、いかにも雑種のたくましさがあると、ぼくなどは思ってしまいます。今では沢山の具材(種)に出汁(だし)までがパックになったものが売られています。時々それを食べますが、なにかおでんを食べているという感じがしませんね。「練り物鍋」という気味が強く、あまり口には合いません。簡単というか、何もしないで鍋に移して温めるだけ、これを料理とは言わないのでしょう。面倒ですが、ダイコンもじゃがいもも、家で下ごしらえし、時間差をもってそれぞれの材料を煮るという手間暇が、雑多煮の良さを醸し出すのではないでしょうか。

 おでんには焼き豆腐が入っているかどうか。豆腐といえば、ぼくは何十年も「湯豆腐」を作り、食べ続けてきました。家で酒を飲むときは必ず「湯豆腐」(夏は「冷奴」)でした。それだけで、他になにもいらないほどに、湯豆腐を堪能していた時期が長く続きました。それだけ口にあった豆腐が手に入ったということで、この地に引っ越してからは、ぼくにとっていい豆腐というものが見当たらなくなり、それも一因で、ぼくは酒を飲まなくなった。もう十年近くになります。湯豆腐はめったに口にしなくなりました。でも、その食感の記憶は残り続けている。そして湯豆腐というと、きっと思い出すのが表題の句です。これは久保田万太郎さんの、いわば遺言ならぬ「遺句」となったものでした。晩年に、彼は長く独り身で生活されていたそうで、奥方にもお子さんにも先立たれた。この句は、死の一ヶ月余り前の作だったそうです。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  

 まさか「行燈」ではなかったでしょう、湯豆腐の間は。それであっても不思議ではないような陰影が刻されています。今時のLEDでは、先ず生まれない雰囲気ですね。そして、この「うすあかり」とは、万太郎さんを襲って止まなかった「寂寥感」というものだったろうか。

● 久保田万太郎【くぼたまんたろう】=小説家,劇作家,俳人。俳号暮雨,のち傘雨。東京浅草生れ。慶大文科卒。1911年小説《朝顔》,戯曲《プロロオグ》で認められ,三田派の代表作家となる。下町の生活と情緒を愛し,好んで市井人の生活を描いた。小説に《春泥》《花冷え》《市井人》,戯曲に《大寺学校》などがある。また江戸趣味の俳句をよみ,句集《道芝》がある。演出家としても一家をなし,放送演劇にも尽力した。1957年文化勲章。(1889-1963)

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 人生はゲームじゃないぞ

 【雷鳴抄】ああPK戦 今年5月に死去したサッカーの元日本代表監督イビチャ・オシムさんは、試合が延長戦でも決着せずPK戦に入ると、ベンチを離れロッカールームに姿を消した▼「あんなものはくじ引きみたいなもの。私は自分の仕事をすべてやり終えた。TOTO(サッカーくじ)は当たりを知るだけで十分だ」というのが理由だ▼サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本代表はクロアチアと対戦した決勝トーナメント1回戦でPK戦により敗退した。アルゼンチンとフランスによる壮絶な試合となった決勝も、PK戦でアルゼンチンの優勝が決まった▼よく指摘されることだが、PKはどんな名手でもミスすることがある。W杯史上初の2度目の大会最優秀選手となったアルゼンチンのメッシ選手も、1次リーグのポーランド戦では失敗した▼そもそもPK戦はトーナメントで上位進出チームを決めるために行うもので、公式記録上は引き分けとなる。日本対クロアチアもそうで、日本の今大会の成績は2勝1敗1引き分けだ▼頂点を逃したフランスのデシャン監督は「非情な結末だ」とうなだれた。死力を尽くした両チームへなお決着を迫るPK戦に、なぜ私たちは見入ってしまうのだろう。歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬に、人生にも通じる何かを感じるからかもしれない。(下野新聞SOON・2022/12/24)

 サッカーのPK戦については数日前にも書きました。個人の感想を言えば、無理に決着をつけなければならない事情があるから、「PK戦」などという、それまでの試合の流れを寸断するような「付録」は、ぼくには詰まらないし、どこまでも延長戦を続ける方がいい。二つの「異質なゲーム」が同一の試合の中で混在するのは、サッカーの試合のあり方(筋道)としてどうでしょうか、それがサッカーに熱心にならなかった岡目八目の愚感です。今でもそれが行われているのか、野球などでも延長戦(回数制限内)で決着がつかない時、「タイブレーク」方式を採用しているらしい。野球に限らず、制限時間のない競技で「決着」をつけるための「窮余の一策」に思われるし、なんか嘘くさい勝負の決め事であるという気もする。しかし、「規則(ルール)」なのだから、といえば、そのとおり。これが通用すると、ぼくなどは直ちに興味や関心を失ってしまうことになるでしょう。(左はサッカーダイジェストWEB編集部・2022/12/19)

● タイ‐ブレーク(tie break) テニスで、ゲームカウントが一般的に6対6になったときに、決着を早くつけるために行うゲーム方法。2ポイント以上の差をつけて7ポイントを先取したほうをそのセットの勝者とするもの。/ 野球やソフトボールで、延長戦になった際に、決着を早くつけるために行うゲーム方法。最初から走者を塁に置いて、点の入りやすい状況から試合を再開する。ソフトボールではタイブレーカーという。/ [補説]野球のワールドベースボールクラシックでは第2回大会から適用。延長11回以降は無死1・2塁からプレーを開始する。都市対抗野球では、延長12回以降は1死満塁からプレーを開始する。(デジタル大辞泉)

 「試合」だから、どうしても勝ち負けを決めなければ、というものなのですかね。「勝負」がつかない勝負(引き分け)もあるのです。無理に決着をつけるというのは、ぼくには「不自然」そのものに感じられてしまう。オシムさんのようなサッカーのプロだった人がいう意見に、ぼくは賛成したいですね。「本番」で全力を尽くしたのだから、後は余技とは言わないにしても、じゃんけんやトスのようなもので、試合の結果は、あくまでも「引き分け」でであって、それ以外のなにものでもないというのです。くじ引きやアミダ方式で、勝ち負けを決めると、「それはサッカーじゃない」という意見が出るでしょう。PK戦も似たようなものだと思いますが。

 「頂点を逃したフランスのデシャン監督は『非情な結末だ』とうなだれた。死力を尽くした両チームへなお決着を迫るPK戦に、なぜ私たちは見入ってしまうのだろう。歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬に、人生にも通じる何かを感じるからかもしれない」このように書くコラム氏の評価に反対はしません。しかし、「非情な結末」というのは、もう少し含蓄のある、監督だけが持つであろう、いい知れぬ苦悩の吐露ではなかったでしょうか。PK合戦で決める位なら、延長線で最後まで(決着がつくまで)やりたかった、と。でも、ルールはいつでも変えられるし、変えられてきた。あくまでも、これは「ゲーム」なのだと割り切れれば、ルールが示すがままに結末も付けられる、それが人生とは違うところではありませんか。「歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬」という表現で何を言いたいのかわかりますけれど、人生には「無慈悲な一瞬」があるようでいて、その「勝ち負け」の一瞬で人生は終わらないんですから、勝ちも一瞬、負けも一瞬、それで終わるのは「ゲーム」であって、人生終了のホイッスルを吹く人はいないし、ボールを蹴り合って決着がつくような、わかりやすいものではない、それが人生、生涯というものですね、「勝ち負け」を超えてなお続く、それだけです。

 サッカーには「ルールブック」があります。人生にはそれがあるのか。また試合には相手チームがあり、審判員がいます。人生はどうか。相手もあり、審判もいるといいたくなるでしょうが、残念ながら、どちらもいない。時に、相手が現れるかも知れぬが、人生を賭けて、勝ち負けを争うようなことは先ずありえない。審判は「自分自身」だともいえますが、この怪しい審判は「えこひいき」「身びいき」をしがちですから、当てにならない。審判がいないからこそ、ぼくたちは何事も自ら「判断」するのではないですか。その「判断」を誰かに任せてしまえば楽であるかもわからないが、人生を生きているという実感は湧かないでしょう。動かされているという「依存状態」に自らを置きたがる人もいるには違いないが、そんなところから「自分は生きている」という感覚が生まれないのはたしかです。

 サッカーを始めとするいろいろな「ゲーム(競技)」と、実人生の決定的な違いは「ゲームセット」が決められていないこと。人生において、失敗は何度でも取り返しができる。「七転び八起き」というように、失敗や間違いという経験が己を鍛えてくれるのが人生だと言いたいですね。サッカーや野球にも失敗はつきものですが、それは往々にして、勝負にとっては致命傷になるでしょう。人生とは「楽あれば苦あり」だし、「苦あれば楽あり」だとも言えるし、そうではないこともある。苦しいことだけが人生だと、なんとも過酷な人生を経験する人もいるはずです。ゲームはゲーム、人生は人生です。その二つの異物・異種同士を重ね合わせることは面白いでしょうが、そこからなにか人生に必須の条件が生まれ出るとは思えないですね、ぼくには。

 (コラム氏に異論をはさむのではなく、コラム氏が言うようなものとは違うのが、人生ではないかということを考えさせてもらっているのです。丁寧にお礼が言いたい気持ちです)

 人生に「勝ち負け」はないし、まして「引き分け」なんてないと、ぼくは考えている。なぜなら、人生は「ゲーム」なんかではないからだ。

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 スマホは盗撮用には作られていない

 学校教員の「不祥事」が頻発しています。気分が悪いので、細かいことは言いません。どうしてこんな「幼稚」「下劣」な犯罪が起こるのか、ぼくには不思議でも何でもない。起こるべくして起こっているというのです。それぞれの不祥事には個別性がありますから、十把一絡(から)げで「今時の教員は~」とは言わない。かろうじて指摘できそうなのは、「自制心」や「克己力」などと言い換えられる「意思(意志)」の働きが希薄か、あるいは無いに等しいからであり、逆に言うと「自分」といい「己(おのれ)」という「自分」とは「情念(passions)」のかたまりを指しているとみていい。この「情念(という感情)」は、日常的には、しばしば「喜怒哀楽」と称されるものに近いかもしれません。(この4つの情念は、外からの刺激に対する身体の反応 ー そのとき、当人は受け身でしかない。要するに「火のない所に煙は立たぬ」であって、「火」は外部の刺激因であり、「煙」は身体内の現象。宝くじに当って、喜ぶ。悪口を言われて、怒りまくる。好きな人に振られて、哀(悲)しくなる。ゴルフに出かけて、楽しむ。どれもこれも、「因」があって、「果」が生まれるのです)

 大半の人は、雨の日には「気分は不快」でしょう。逆に、晴天であれば「気分は爽快」です。天気具合で気分が変わる人を「お天気屋(気分屋)」といいますよ。同じ天候であっても、人によって反応が異なるのはどうしてですか。気分に打ち勝つには、偏差値や学力は無用であり、ときには有害でさえあります。算数の計算問題で多くの人が間違いを犯すのは、理解できないからではなく、注意力が散漫だからでしょう。学校の教科目に「算数」「数学」があるのは、計算能力を向上させるためといえますが、それ以上に大切なのは「気分を克服」するためのもっとも有力な方法だからだと、ぼくは経験して来ました。「自分で計算する」能力を育てる、それは計算能力以上に大事な力を養うことにもなるのです。

 56+78=▢、この計算につまずくのは、能力の不足というより、集中(注意)力が欠けていたからではないでしょうか。その証拠に、ゆっくりとやり直せば、きっと正解を得ることができる。階段を踏み外して大怪我をする。何かに躓いて転ぶ。あるいは不注意な運転で「交通事故」を起こす。この時、いずれにも欠けているのは偏差値の高さや、家柄などではなく、誰にも備わっている「注意力」です。

 学校教員に求められるもの(「力量」という、嫌な表現が流行りました)は、第一に「学力」であり、第二に「指導力」だとされてきました。ぼくに言わせれば、人一倍の「注意力」だと思う。子どもの間違いに「カッとなる」とか、優劣思想に毒される、学歴や昇進(地位)などに必要以上に拘(こだわ)るとするなら、その「先生」には「注意力」「自制心」が著しく欠けていると、ぼくは言いたい。こういう点から見ていくと、この島の学校教育は「不注意な人間=情念に支配された人間」の育成には存分に成功したでしょうね。反対に、もっとも成功しなかったのは「他者への労り」の心、「他者への敬意」という崇高な感情を育むことではなかったか。「注意深い」という意味は、他者に配慮することをも指しているのですね。不注意人間や厚かましい輩の輩出、どうして、そんなことになったのか、猫や猿にでも教えてもらえばいい。

 ぼくが愛読して止まない、デカルトの「情念論(Traité des passions de l’âme)」(1649年刊)、そのなかで彼は6つの基本情念を上げています。「驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみ」であり、それらは、いずれも身体の受動性から生じるというのです。どれ一つとして、能動的に引き起こされるのではなく、先ず外部の対象の働きかけによって身体内に生じますね。(なにもないのに、怒れない」でしょ。注意深い人間であることは、高い学歴を獲得するより、人間にとっては遥かに大切な能力、いや人間性そのものです。政治の劣化は政治家の劣化ですが、「劣化」とは「注意力」の劣化、育て損ないをいうのです。そこにも「不注意人間」が引きも切らずに押し寄せている、その根本の原因(理由)なんでしょうか。一方的に「養成される人間」は、もっとも大事なものを失っているんですね。気の毒であり、可愛そうでもある。多くの教師は「やればできる」と教えます。間違いではないし、当たり前であって「やらなければできない」のです。やるとやらないの「分かれ目」はどこにあるのか。やる必要があることについて、大切なのは、命令されることではなく、自ら「意欲する」「自分を高めようとする」ところにあります。

● 情念論(じょうねんろん)(Traité des passions de l’âme)=デカルトの最後の著作。1649年刊。人間の情念(感情)を心理学的かつ生理学的に考察し、道徳の問題に説き及んでいる。本書は、ドイツからオランダに亡命していたエリザベート王女の質問をきっかけとして書かれた。王女は、デカルトの精神と物体(=身体)の二元論において、心身合一体としての人間が占める位置が問題となることを鋭く指摘した。そこでデカルトは、心身合一体に特有な意識である感情の考察に向かうことになった。感情は身体によって引き起こされる意識状態、すなわち「精神の受動」passion de l’âmeである。さてデカルトは、情念(=受動)のうち、驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみの六つを基本的なものとし、心理学的に分析する。他の諸情念は、基本的情念の複合として説明される。また、情念は動物精気(血液中の微細物質)が精神の座である松果腺(しょうかせん)に作用した結果生じるものとされ、その機構が生理学的に記述される。このように情念のメカニズムを客観的、機械的に認識することによって、情念を自由意志の手段とすることが可能となる。自由意志を正しく使用し、情念を支配することが、高邁(こうまい)という最高の徳につながると結論される。(ニッポニカ)

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 「災害との戦い」を放棄していないか

 まともに国会も開かないで、物事が強引に決められていく。国防費倍増も原発再稼働・新増設も、いろいろな理屈をつけた諸々の「増税」の決定も。議論がなく、議論の場がなく、諸党こぞって、ひたすら狂態を演じる「大政翼賛」の回り舞台である。何十年も前からぼくは、この島には与党と野党があるが、野党は「共産党」のみ、と言ってきた。強弁でも何でもない。現下の惨状はそれを明示している。権力に近づき、権力に阿(おもね)る、これを「曲政阿世」とぼくは呼ぶ。「政治の筋を歪曲」し、まさに「世人・世評(投票者)に阿る」だけの政治と政治家だからである。ぼくにはまったくわからないことがたくさんあるが、権力を握る・握りたいという「魂胆」などは、その最たるもの。なにか嬉しくて「権力掌握」を求めるのだろう。ぼくに言わせれば、政府はいらないし、もちろん国会もいらない。もっと言うなら「国」などという「金食い猛獣」なんか不要の第一候補だろう。そこから始めて、政治の根っこに戻って、少しはまともな仕事をしたらどうか。(左は時事通信・2022/12/16)

 日銀が動いた、いや動かされた。肩肘張って、強がりを言ってるが、「異様な金融緩和(異次元緩和)」を続けるつもりなら、容赦はしないぞ」と世界のマーケット筋からドスを突きつけられたからです。にっちもさっちもいかない場面が、さらに厳しくなって続くのは避けられない。国家破綻の瀬戸際を、果敢に「綱渡り」する力技をもったリーダーがいるとは思えませんから、近いうちに「破局」を迎えそうな気がして、ぼくも逃げ場を失っていることを知っているから、実に暗澹とした思いに駆られている。(日銀総裁は口が裂けても「金利引き上げ」とは言えない。理由はおのれの「間違った金融政策」を認めたくないから、その一念だけで、国策を誤誘導してきた罪は実に重いね。(彼もまた、「真っ赤な嘘つき」だった。おのれ一個の名誉欲しさに「アベガー」に躙(にじ)り寄り、しがみついたのだ。「金利幅上げ」は、亡霊、貧乏神のような呪いになって、この国に取り憑いていた「アベノミックス」の絡繰(からく)りが、跡形もなく壊れたと瞬間でした。ここから、庶民にとっては「煉獄」の苦しみが始まるのだ)(政治の不作為による生活の困窮・困難も「災害」だ。豪雪・豪雨も、言うまでもなく「災害」です。「国防」とは、ありもしない「敵」をでっちあげて「おだを上げる」ことじゃないのは誰も知っている、知っていてほしいね。自然災害から「生活を守る(防衛する)」、これもまた、紛れもない「国防」だと、知っているんですか、各方(おのおのがた)よ。

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 徒然日乗LXILXV

徒然日乗・LXV  北陸地方、分けても長岡方面の積雪は半端ではない。まる一日かけても、雪の道路は止まったままである。昨年もまったく同じようなニュースを見た気がします。車中に閉じ込められ、食事もトイレもままならない、寒中の耐乏が続くのだ。また、ある地域では豪雪のために停電、暖を取るために車に乗ったまま、「ガ一酸化炭素中毒」状態の女性が死亡した。屋根からの雪下ろしで墜落死した男性もいる。まるで、年中行事のような悲劇が続く。政治も行政も手を拱(こまね)いているだけ、必要としている人に「手が届く」支えも、徒に拱手傍観の為体(ていたらく)である。国民の「安心安全」を 守ることが最大の「国防」だと、一体どの口でいうのだろうか。当たり前の「国防」が泣くというもの。 (2022/12/20)

徒然日乗・LXIV 夜中に猫が起こしに来る。耳にしていたイヤホンから、アルゼンチンが「2対0」と聞こえてきた。前半終了段階での中継放送の声でした。その時、時刻は午前一時すぎだったか。後半戦が始まっていた。仕方なしに、起きてから、軽く「おやつ」を少し出して、また布団に潜り込む。実況が聞こえている。なんとフランスが立て続けに2点を奪取して同点。また眠り込んだようです。しばらくして、「(フランスの)4人目が外した」という放送。延長の末のPK合戦だった。この段階で「アルゼンチンが勝った」と理解できた。事程左様に、サッカーには燃えないんですな。でも、後でゆっくり考えて、メッシ選手もエムボペ選手も、なんとも凄いんだなと、わかりかけた。半睡半醒状態の「WCサッカー決勝戦」の聴取だった。(2022/12/19)

徒然日乗・LXIII 日米主従関係(さらにつづける)繰り返し述べるように、戦後の一時期に、今のような非独立国、米国追従国への選択がなされた。「日米安保条約」改定が行われた1960年がそのきっかけだったが、その準備段階があったのですが、戦後も早い段階で、どこまでも米国と運命をともにするという方向性が選択されたのだ。石橋湛山内閣が短命に終わった後に、岸信介が後継者になった。かえすがえすも悔やまれるのは、総裁選挙で、岸と対抗するために「二・三位連合」をはたした石井光次郎を湛山内閣に加えなかったことだった。仮定の話だから、あまり意味はないが、アメリカ一辺倒という選択がどうなっていたか、ぼくはときとして、この運命を考えたりしている。(2022/12/18)

徒然日乗・LXII 高知県内で明治生まれが一人もいなくなったという記事を読んだ。最後の一人が昨年の十二月に死去。百十一歳だった。まさに「明治は遠くなりにけり」となった。中村草田男は明治三十四年生まれ、句作は三十一歳だったとか。彼の詠んだ時からは「遥かに、遥かに遠く」なった明治。防衛費問題の砂埃がまだ湧き上がっている。明治生まれが始めた「戦争」に駆り出された大正生まれの人々。まるで「捨て駒」だったという。圧倒的多数が戦争に斃れた。望むべくもない「未来の戦争」に駆り出されるのは、どの時代生まれだろうか。大多数の昭和生まれの国会議員が「戦争のできる国」突き進み、挙げ句に、その尻拭いをさせられるのは誰だろうか。歴史を学ばないとは、「規矩」のない泥濘(ぬかるみ)を暴走するのと同義だ。(2022/12/17)

徒然日乗」・LXI 福島原発事故からまもなく十二年目に入ります。この十年余、なにが変わり、なにが残されたのか。こと原発問題に関しては旧態依然どころか、毒を食らわば皿まで、と眦(まなじり)を決して、原発村は再稼働・新増設に猪突猛進。事故が起こることは誰もが危惧している。それがいつ起こるか、今日か明日か、はたまた十年後か。先のことはわからないのだから、今やれることをするだけという刹那主義、まるで「神頼み(ケ・セラ・セラ)」の政治が続いている。あらゆる分野には「有識者」が掃いて捨てるほどいる(らしい)。塵として集められた「有識者」は権力のお先棒や片棒を担いで、八百長会議が終われば捨てられる。新たな塵は無尽蔵に生み出される。不思議なことに「払底」することはないのだ。まるで、始末に負えない核燃料の廃棄物のごとし、ですな。(2022/12/16)

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 どんな「人」が「選手」であるのか

【12月20日付編集日記】悲願の世界制覇 13歳でスペインに渡った少年の身長はわずか140センチ。俊敏な動きでボールが足に吸い付くように自在に操る技術は、既に子どものレベルを超越していたが、成長ホルモンの影響で背が伸びない病に悩まされていた▼毎日、注射を打ち続ける日々。母国を離れたのは名門チームの下部組織にスカウトされたことに加え、高額な治療費を賄うのが難しかったことが理由だ。のちに「神の子」などと評される希代のスターも決して順風満帆ではなかった▼サッカーのW杯カタール大会決勝はアルゼンチンがフランスをPK戦の末に下し、36年ぶり3度目の優勝を遂げた。35歳になり、5度目のW杯で世界一という悲願に挑んだメッシ選手が、延長後半にみせたゴールは執念そのものに見えた▼病と闘ってきた経験を踏まえ、15年前に財団を設立し、世界中の子どものため小児がんなど難病の治療や研究費に資金を提供してきた。169センチの体ながら巧みなドリブルで相手をかわし、ゴールを決めるメッシ選手は、子どもたちに勇気を与えている▼数々の辛苦を乗り越えて、名実ともに「世界最高の選手」として歴史に名を刻んだ。それでも優勝トロフィーを掲げ、歓喜する姿は少年のようだった。(福島民友新聞・2022/12/20)

 くり返しいうように、ぼくはサッカーには関心を示してきませんでした。今回のWCも同様で、現地の時間の関係で深夜早朝などに行われる試合を実況中継していたラジオを通して、つかの間その経過を耳にするだけでした。メッシやエムバペという選手についても何も知らなかったし、知ろうともしなかった。決勝戦が終了した段階で、少なくともこの二選手に関して、少しは知らなければと、いろいろと新聞や雑誌記事をあさりました。まだその途中ですが、一つの記事を見つけました。さいわいにも、二選手を並べて書いていました。一読、驚きを通り越して、大きな尊敬の念を抱くようになったという次第。(もちろん、この記事だけですべてを判断するのは短慮が過ぎると、自分でも思います。しかし、それがまったくの偽りだとも思われなかったので、それを紹介したくなったのです)(左写真は中日スポーツ・2022年12月19日 ) 

 彼らが大変な選手であることは言うまでもないことですが、それを裏付けるような活動にも熱心に取り組んでいることを、ほとんどの人は知っているがゆえに、この二人は「偉大な選手であり、同時に素晴らしい人間である」と評価するのかも知れません。平凡な人間からすれば、目をむくような、桁違いの年俸を得ています。だから「寄付」などをするのは当然だと、いいたくなるのも確かですね。でもすべての「大金持ち」が、彼らのような社会奉仕活動に尽力しているとは限らないし、していないから、いけないという理由にはならない。だからこそ、彼らの行動が素晴らしいと、ぼくには思えてくるのです。もちろん、サッカーに限らず、このような社会活動を展開している「高額所得者」は数えきれないくらいいます。「大金持ち」だからとか「高額所得者」だから、困難に遭遇している人々を救うべきだということは言えません。あくまでも当人の人間性に関わる、あるいは奉仕の精神の問題として捉える必要があるのでしょう。(右の映画「地の塩」は1954年のアメリカ映画です。本日のテーマとは結びつきませんが、どこかで、必ず観たい作品ですね)

 奉仕精神とは、お金の有無に無関係に、助けを必要としている人に手を差し伸べる心持ちのことでしょう。これもどこかで書きましたが、今も続いている山室軍平さんに始まる「社会鍋」にも関わっていた、一人のキリスト教徒が「地の塩」という冊子とともに、なけなしの金額を同封して、「もし必要なら、どうぞお使いください」と書いた箱を千葉県の市川駅(だったと思う)に設置していた。その人は貧困そのものといっていいほどの生活者でした。でも、もっと困っている人がいるからと、文字通りに「地の塩」になろうとしたのでした。ぼくの記憶では、その方は最後は「餓死」された。その後を継いだお嬢さんも、同じように力尽きて斃れられた。まだ大学生だったぼくには、強烈な心の景色となって、その後の生き方(およそ五十年が経過しています)に少なくない影響を与えられてきました。

 ● ちょうじゃ【長者】 の 万灯(まんとう)より=貧者(ひんじゃ)[=貧女(ひんじょ・ひんにょ)]の一灯(いっとう)=(「阿闍世王授決経」「賢愚経」から) たとえわずかでも、貧しい人の真心のこもった寄進は、金持の寄進よりもまさっていることをいう。物の多少より誠意が大切だというたとえ。長者の千灯より貧女の一灯。長者の万貫貧者の一文。※平仮名古活字三巻本宝物集(1179頃)「あるひん女、れうそく二銭もちたるを、あぶらにかへてあかしければ、のこりの火みなきえて、これのみ仏の御ために明なり〈略〉是を長者の万とうよりひん女が一とうとは申也」(精選版日本国語大辞典)

 メッシ選手に関しては福島民友新聞の「コラム」にある通りで、自分自身の辛い経験を、同じ思いをしている子どもに重ね、社会奉仕においても地道で広範な活動を展開していることを知りました。これだけの選手だから、それは当たり前ということもできますが、これだけの選手だからこそ、この活動が尊いということもできます。「世界的なサッカー選手になるまでに、言葉では表現できないほどの困難を乗り越えてきました。その努力と成果から得られたものを、支援が必要な子どもたちへと還元したい。なぜなら、子どもたちの笑顔に私は心を動かされ、彼らの瞳には希望があり、喜びに満ち溢れているからです。それこそが、サッカー選手としての原動力にもなっています」「サッカー界における歴史的な活躍だけでなく、世界各地で起きている危機に目を向け、人々を啓蒙する影響力と確かな実行力は、メッシを『歴代の史上最高選手』と称する確たる所以のひとつだろう」(VOGUE:BY MINA OBA・2022年12月19日)(https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/lionel-messi-charity

 一方のエムバペ選手。「2020年1月には自身の財団「Inspired by KM」を創設。家庭の経済状況や移民としてのルーツなど、さまざまな背景を持ちながらフランスで暮らす子どもたちが夢を追えるよう、成人になるまで支援することを目的としている」「子どもたちにはたくさんの夢があります。その夢を追うための手伝いをしたいのです。子どもたちは多くのポテンシャルを秘めているのに、経済的な理由などから、その機会が得られないことが多々あります。私が子どもだった頃、スターは遠い存在でした。でも、子どもたちにとって、私は遠い存在でありたくない。彼らの人生をより良いものに輝かせたいと真剣に考え、後押ししたいと思っている大人がいることを知ってほしい」「若きカリスマは、高級車やハイブランドにはまったく興味を示さず、夜遊びに行くようなこともあまりないと言われている。その一方で心血を注ぐのが、チャリティ活動だ。2018年には入院生活をおくる子どもや、障がいのある子をスポーツを通して支援する『Premiers de Cordee』に、同年に行われたW杯で得た収益のすべてを寄付したという。 その額は推定で約5700万円。そして、時には医療機関などを訪れ、子どもたちと直接接しながら一緒にスポーツを楽しむ時間もつくっている。『子どもたちの笑顔はプライスレスです』とエムバペは言う」(同上記事)(https://youtu.be/Z02BQIMVHB4

 【アルゼンチン-フランス】アルゼンチンに敗れて、優勝トロフィーの前を通り過ぎるフランスのキリアン・エムバペ=カタール・ルサイルのルサイル競技場で2022年12月18日、宮武祐希撮影(右写真)「サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会は18日(日本時間19日)、決勝があり、アルゼンチンが36年ぶり3回目の優勝を果たした。3―3からもつれ込んだPK戦を4―2で制し、フランスを降した。フランスは2018年ロシア大会に続く連覇を逃した。/ フランスのエムバペは試合後、口を真一文字に結び、ピッチに視線を落とした。/ 3―3からもつれ込んだPK戦に1人目のキッカーとして登場し、ゴールネットを揺らして役目を果たした。後続の選手が立て続けに失敗。手放しかけては何度も引き寄せた「連覇」を目前に、最後は力尽きた」(毎日新聞・2022/12/19)

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 本日の駄文にも、例によって「結論」はありません。サッカーという競技において、優れた運動能力を示すことができれば、それで十分。それだけでも大変なことです。何も欠けてはいないのです。もし付け加えることがあるなら、サッカー選手であると同時に、一人の人間であるということでしょうか。サッカー選手の前に、一人の人間ということもできます。何かをして優れた業績を残すことは大変なこと、だから多くの人はその成し遂げたことで自己評価し、称賛を送るのでしょう。「よくやった」と。でもさらに気がつくと、自分は一人の人間なんだということです。自分一人で生きているのではない。多くの人に支えられていると気がつくなら、時には「支える」側に回ることも大事だと。この二人の選手に関して言えば、おそらく歴史に残る「名選手」なのでしょう。それだけで、十分に称賛され、評価されるべきですね、それだけで。

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