ゆく年や草の底ゆく水の音 (万太郎)

徒然日乗( LXXI~LXXVI ) 

徒然日乗・LXXVI 昨年も書いたような気がしますが、「破れ長屋で今年も暮れた」という実感が強くあります。その「破れ」は家屋は言うまでもなく、ぼく自身の心もそうであり、この劣島そのものの屋台骨も破壊されました。そうです、「国破れて山河あり」。その山河もまた、荒れ放題に放置されている。「國破れて 山河在り 城春にして 草木深し 時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり 家書 萬金に抵る 白頭掻いて 更に短かし 渾べて簪に 勝えざらんと欲す」

 もちろん、杜甫の「春望」です。余計なことは言わない。国は戦いで破壊されたけれど、故郷の山河だけは残されている、杜甫はそういう。でも、ぼくたちの現状はどうか。果たして、ぼくたちは「春を望むこと」ができるのか。荒廃した劣島の惨状が、春には蘇り、鳥は鳴く、花が咲く、人々は謳う、そんな景色に出会えるのでしょうか。

 人の一生というものは、恐らくは、幾度かの「春望」の明け暮れの果てに、ついには終りを迎えるのではなかったか。芭蕉は、それを含めて、次のように詠みました。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」 東北藤原氏「三代の栄耀一睡のうちにして大門の跡」を訪れ、彼は、その「儚さ」に落涙を禁じ得なかった。「功名一時のくさむらとなる」「笠うち敷きて、時の移るまで涙を落としはべりぬ」(「奥の細道」)はたして俳聖の「滂沱たる涙」を誘ったものはなんだったか。今日の世もまた、「功名一時のくさむら」となり「栄耀一睡のうちにして」朽ちるのは盛者、奢れる人ばかりではないでしょう。弱者も、奢らない人も、すべては「儚さ」に覆われてしまうのです。本日は「大晦日(おおつごもり)」。

 感傷に誘(いざな)われているのではありません。我が心は、昨年末も今と同様に「破れ長屋」に等しかった。この世に生きるというのは、一睡のうちに打ち壊されるほかない「栄耀」や「栄華」を求め、幸か不幸か、それを手に入れるところにあるのではない、一生は、執拗に繰り返される「禍福」によって翻弄されているのです。運と不運と言い換えてもいい。来る年もまた、「時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす 峰火 三月に連なり」です。戦争は海の向こうの「対岸」に起こっているのではないと胸に刻んで、知友・旧友の平穏をひたすら願うばかりです。(2022/12/31・土)

一般社団法人 南房総市観光協会

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徒然日乗・LXXV 昨日拙宅を訪ねてくれた方々との話し合いについて、その後も考え続けていた。学校は「正解」を与える場所であり、決して「間違い(誤答)」を認めてくれる場所ではないことに、今更のように悲しい気がしているといった。例えば、簡単な計算問題で間違えるのは、偏差値が低いからではなく、注意深さに欠けていたからだという、なんでもない気遣いが教師は持ち合わせていない、それが子どもにも移植されるのではないか。間違えは、消しゴムで消せるし、さらに答えを探せる機会(時間)を生むのです。カッとなって刃物で他人を傷つけて、果たして「消しゴム」で訂正できるか。学校(教室)内で間違えることを恥ずかしいとか、愚かだからと、まるで子どもを辱めるような教師の言動は、果たして消しゴムで消せるのかどうか。考える力をつけるなどと多くの人は気軽にいうが、実際はどうか。「考える」とは間違いを執拗に探し続ける時間なのです。時間をかけて「消しゴム)で消してつく、その間が「考える」なんだ。(2022/12/30・金)

徒然日乗・LXXIV 都下の私立学校に勤めている後輩(国語教師)が、同僚(数学教師)と高校三年生(女性)と連れ立って、拙宅に来られた。さらに「コロナ感染」炎上中のさなか、久しぶりの「対面談話」に及んだ。四方山の話に終始しましたが、普段、かみさんや猫相手では、互いに実のある話もできないものだから、遠来の客人を得て、大いに、いや必要以上に、一人勝手の「無駄話」「雑談」に花を咲かせた気味で、さぞかし、客人は呆れたことだったと思う。どんな問題にも「正解は一つ」などという嘘っぱちを学校で強いられると、生涯、それがついて回って、「正解」が見つからなければ、人生はアウトだと思いがちな人間が多すぎる気がする。だからこそ、いくつでも答えがありうる「問題」にこそ、自分を鍛える手応えがあるのだと、そんな教育や教師、あるいは生徒であることを願っているとも話しました。黒・白、正答・誤答、成功・失敗などと安易に「二元論(二択)」に問題や課題をすり替えるのは、間違いであるということをこそ、教師たちは授業で徹底して伝えるべきではないかとも言いました。「間違うこと」を避けたり恐れたりすることが生徒たちの身についたなら、それは学校教育の「失敗」ではないですか、とも。「永遠」はない、あるのは「瞬間」だけだ。でも、その「瞬間」の中に「永遠が宿っているのだ」ということが伝えたかったんですね。間違いも、正解も、いずれも「問題」の捉え方においては、「当(中)たらずとも遠からず」なんだ。(2022/12/29・木)

徒然日乗・LXXIII 歳末という雰囲気がどことなく消えかかっている風景は、ぼくには好ましい。年が改まるというけれど、人心がそれを実感するかどうかという問題で、大晦日であろうが、元日であろうが、「日常」以外の何物でもない、ぼくには「普段どおり」の一日に過ぎません。日の出も日の入りも、宇宙の運行通りに運んでいるのです。何事によらず、ぼくは「日常性」に埋没するという姿勢が大好きですね。人間の心は移り気であり、落ち着きがなく、後悔もするし、先走りもする。ほとんどの不幸は、自らの内側にその原因があるのでしょう。少しばかりの訓練や修練では足りない「自制」「注意」をさらに心静かに心がけることしか、ぼくには興味はないのです。(2022/12/28・水)

徒然日乗・LXXII もう長い間、飲料用に「天然水」を使っています。先ごろから、愛用の品が三割り近く値上がりしていました。いつも買い置きをしておきます、2リットルペットボトル(一箱、6本入)を五箱から十箱は買い置きしています。断水に備えてという意味もあります。大体、夫婦で一ヶ月どれくらい使うのか気をつけたことがない。多分、五箱(30本か)六箱(36本)くらいか。それにしても、物みな値上げという、この「狂乱」の事態はまだまだ続きそう。いろいろな理由や原因がありそうですが、もとを糺せば、諸事・諸物「輸入頼み」のしからしむるところ。食糧自給率は四割を切っている。安い品物を輸入すればいいという「安直政策」が問題の根っこにあります。自作、自給、つまりは「自立」の放棄が国是となって、今日の必要以上の「他国・他人頼み」状態を招いているのです。目下渦中にある「国防」問題そのもので、まさしく自衛の放棄であり、自立の断念ですよ(2022/12/27・火)  

徒然日乗・LXXI 猫の食料の買い出し。年末年始の混雑を避け(混んでいるところには行かない。雑踏は避ける)、暇な時間帯を選んで出かけました。昨日は日曜日、大変な混雑ぶりで、別の用事で出かけたのに、その状況を見てぼくは帰ってきたほどでした。とにかく人混みや混雑は嫌いだし、並ぶということも嫌ですね。電車やバスの切符を買うために並ぶのが嫌いで、すぐに、次の駅に向けて歩き出す人間でした。月曜日は、どうしたのというほど空いていましたので、二回分をしこたま仕入れてきました。文字通りの買い出し。消費に係る分は、夫婦二人分よりも高額になると思う。「いらち」などと関西弁では言います。短気ということ。まあ「瞬間湯沸かし器」に近いかも知れません。この性分はなかなか治りませんな(2022/12/26・月)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)