【敵一滴】年末年始の休みに入り、自宅の片付けや掃除に精を出している読者もおられよう。今年の汚れは今年のうちに、と大掃除に励む風習は平安時代に宮中で行われた「すす払い」に由来し、庶民に広がったという▼岸田文雄首相も大掃除を済ませた気分に浸っているか。政治資金問題や差別発言で批判を浴びていた大臣と政務官を、仕事納めを前に交代させた▼「任命責任を重く受け止める」。神妙な顔をしてみせた首相だが、これもおなじみの光景だ。責任は受け止めるものでなく、取るものですよ。突っ込みたくなるのは毎度のことである▼政務官を辞した杉田水脈(みお)氏は、性的少数者やアイヌ民族、性暴力被害を公表した女性らに対する差別的な言動が臨時国会で追及されたが、いずれも政務官になる前から分かっていた。「適材適所」と起用した首相の感覚が問われる▼衆院の比例代表中国ブロック選出の杉田氏。いくつかの政党を経て自民党に入ってからは比例単独候補として名簿上位に掲載され、厚遇されてきた。ゆえに党の責任は大きい▼忘年会が象徴するように1年の終わりを区切りとする日本人の考え方は、欧米人にはない感覚らしい。気分を新たにするのは大切だが、政治を巡るあれやこれやは忘れずに年を越したい。国民はすぐに忘れると見くびられれば、政治はさらに劣化する。(山陽新聞デジタル・2022・12・30)

「国民はすぐに忘れると見くびられれば、政治はさらに劣化する」というコラム氏。穏健というか穏当というべきか。的を外していますね。意図してですか。「見くびられれば」は仮定なんかではなく、現実そのままじゃないですか。「見くびられ」ているんだ、実際に。言うことと腹の中は違う(「言っていけないこと」をいう、その寸止めの記事ですな)、と教えてくれる点で、ぼくはお礼を申し上げたい。「国民なんて、すぐに忘れるさ」「殆どの国民は、今や認知症を患っている」と見下さなければ、今やっている「偽政治」「政治まがい」「政治もどき」はあり得ないではないですか。「任命責任を重く受け止める」と、この能天気は誰に対していっているんですか。「国民」に向けているとは思えないのは、確かだ。彼の視野に「国民」なんか入っているはずがないでしょ。今時の記者会見は、並みいる新聞記者が「総理のお考えを教えてください」と教師に「ご高説」を伺う類の猿芝居(と、ぼくには映るが、当の記者たちは「質問」だと思いこんでいるのですから、困ったものだ)。官邸に送り込んでいる政治部記者が年端の行かない幼児・幼稚ばかりであるのは、これは内閣府と記者クラブ=新聞社との取り決めなんだな。「まっとうな記者は送り込むなよ」「了解」という政府と報道各社の「談合(癒着・密着・馴合)」は完璧です、じつに「仲良きことは美しき哉」の極北。「仲良きことは醜悪哉」です。そんな「塵屑」のような記事を誰が読むと思っているのか、国民を舐(なめ)ているし、見下しているのは報道各社も総理とその周辺も、右に同じだ。

(「政治に対する国民の信頼が揺らいでいる」と思ってもいない「政治的自己評価」をする。どうして「私に対する信頼が失われている」と正直に言わないんですかねえ。この人間の言う「国民」というのは自民党支持者などのことを指すのでしょう。でも、その人たちだって「あなたに対する信頼は最初から無い」と断言するでしょう。政治は人ではなく、力だし、力の源は数で、阿蘇の核を束ねた親分が「K]に決めたというから、そうしただけ。支持率が下がるのも、総理に数という「力」がないことの証明なんですね。
この「国民守る使命、断固として果たす」というセリフ、誰が言わせているのか。また、守るという「国民」の中に誰々が入っているんですか。「攻撃能力」をっ備えるための軍事力増強を言っているようだが、まるで「真珠湾の再来」を望んでいるような口ぶりです。「先制攻撃」だけで、「戦争」は終わらないのは、ウクライナの現実を見ればわかるでしょ。「断固として果たす」のは、もっと別のことじゃんと、ぼくは教えてあげたいね。(このところの書きぶりが、なんだか「日刊ゲンダイ風」になっているのに、一種の悪寒を覚えています)
高校生の頃、どういう風の吹き回しか、ぼくは「ブンヤ」になりたかった。テレビ放送の草創期、【事件記者」という番組があり、その影響だったかもしれない。単純素朴だったが、正義感ばかりは強かった少年時代だった。その願い通りに、新聞記者になって、記者会見の場に居合わせたらどんな質問するか。「総理のご意見を伺います」などという、小便を垂れ流しながらの寝言は言うまい。この劣島の政治家および政治の堕落や頽廃に大きな役割を果たしてきたのはマスコミだった。この報道機関の現状をどう思うかと尋ねられれば、新聞経営の幹部たちは「報道責任は重く受け止める」とでも言うだろう。こんな詮無いことを言っていても始まらない。「総理、あなたに無理だから、辞めて欲しいという国民が過半数もいますが」とどうして問い詰めないのか。自分たちが実施した「支持率調査」は、マヤカシでない限り、辞任を迫る(糺す)理由はありますよ。自分の息子を秘書官にした根拠・理由を訊かれ「適材適所」といった、この飛び切りの「親ばか」は、「差別発言」が洋服を着ている人間の処遇についても、「適材適所」といった。「責任」とか「適材適所」という語意を知らないに違いない。呆れるとはこの事態。

(国葬)については「丁寧な説明に全力を尽くす」という表現。「全力」とか「断固」、あるいは「丁寧」などという言葉を使ったら、現実に言葉通りになるという神がかりの神経を持っているとしか思われない。大変な「逸材」がいたものだと、ぼくは頭がくらくらする。その意味は、使われた言葉の正反対の行動で明らかになるというのです。虚言も、繰り返せば、真実になると錯覚することができなければ、総理が務まらないのは、歴代総理の言動を見れば一目瞭然。国会で「話せば嘘」といいたくなるほど、国民の前で平気で嘘を突き通した御仁もいた国です。正直者は馬鹿を見るというのは、政治家用に生み出された「確言」だとぼくは考えている。正直者が馬鹿を見る、こんな言い方がよく使われてきました。
「悪賢い者がずるく立ち回って得をするのに反し、正直な者はかえってひどい目にあう。世の中が乱れて、正しい事がなかなか通らないことをいう。正直者が損をする」(デジタル大辞泉)この辞書は「損得」にすり替えて、この「諺」みたいなものを説明しています。そうですかね。世の中が乱れているから「正直者が馬鹿を見る」と言うなら、何時だって世の中は乱れているし、正直者が救われることはありえないということになりません?。損得ではなく、人間の正しさ(美しさ)において「正直か不正直か」、それが問われているんじゃないですか。正直者が馬鹿を見るのが「世の中」で、それ以外に「世の中」はないと言わなければならんといいたい。そのことを、確信的に表現したのが「正直の頭(こうべ)に神宿る」といったんですよ。「正直な人には必ず神様の助けがある。神は正直の頭に宿る」(精選版日本国語大辞典)有利不利でもなければ、損得でもなく、当たり前に、まともな感覚で生きる、悪いものは悪い、嘘つきは嘘つきだと、捻じ曲げないで直言すること、それこそが「正直」というものだし、「正直」はそれ以外にはないと思いますね。

ぼくはよく教室で言っていました、「正直と素直と」、教師はどっちが好きですか、と。実感では、ほとんどの教師は「素直な子ども」が好きだし、贔屓(ひいき)しますね。正直者は嫌われる、除け者にされます。ぼくは経験から、それを確信してきた。それでも、節を曲げませんでした(そのように自分ででは生きてきたと考えている)。愚かだと思えば、遠慮しないで「愚か者」と、当の教師にも言っていた。嘘はつけなかった。図星を指されると、他人は怒るね。なんでかな?「先生すごいですね」と、死んでも言えなかったな。そんな教師が多かったようにも思う。正直者の教師から「素直な子」は生まれないでしょうね。この総理大臣や諸々の大臣諸侯の言行を見れば、それが世の中だと、嫌でもわかるでしょう。その世の中から褒められ、評価されたい人はどうぞ、ぼくは邪魔はしないけれど、だめはだめというよ。それこそが「邪魔だ」と言われるに違いないが、それは違う。黒は黒、白は白と当たり前に言っているのですか。黒を白と言える人にはなりたくなかったねえ。(しかし、自分では「清濁併せ呑む」ことはいくらだってできると思っていた)まっとうな「教師」にも、一人前の「政治家」にもなれなかった理由は、この辺りにありますね。
__________________________