【談話室】▼▽125年ぶりと言われてもあまりピンと来ない。来年1月8日に初日を迎える大相撲初場所は「1横綱1大関」で行われる。番付上ではまれな事態だとしても、相次ぐ休場で看板力士不在の土俵に慣れてしまっている。▼▽大関は東西で欠くことができないため、番付には横綱照ノ富士が大関を兼ねる「横綱大関」と記された。直近では2020年春場所で鶴竜が大関を兼ね、その時は38年ぶりで話題となった。珍しいこの肩書は、鶴岡市出身の横綱柏戸も1966年名古屋場所で背負っている。▼▽企業や役所に例えれば、空位となった役職を上席が一時的に兼務する状況だろう。早期の改善が望ましい。幸いなことに、現在の土俵は群雄割拠だ。大関陥落組はやや元気がないが、新鋭が躍動している。本県関係はこの人、琴ノ若(佐渡ケ嶽部屋)が新三役に名を連ねた。▼▽父は元関脇佐渡ケ嶽親方(尾花沢市出身)、母方の祖父は元横綱琴桜。受け継いだ資質を猛稽古で磨き小結まで番付を上げた。早晩、大関候補の有資格者になろう。不祥事絡みで閣僚が辞め、大臣経験者が急きょ再登板する悪循環を繰り返す現政権には見られぬ新陳代謝だ。(山形新聞・2022/12/27付)

まさしく、隔世の感とはこのことをいうのでしょう。今では想像すらできませんが、六十年前ころには、大相撲中継にテレビ局が四つも五つも競い合っていた時代があります。「テレビ放送が開始されたのは、1953年5月16日のことだ。この頃の相撲中継の影響の高さを物語るエピソードとして、民放でもNHKに追従する形でテレビ中継を行っていたことが挙げられる。1959年にはなんとNETテレビ(現在のテレビ朝日)、日本テレビ、フジテレビ、TBSテレビの在京5局が同時に大相撲中継を放送していたのである」(Abema Sports Times・https://sports.abematimes.com/posts/3527383/)
ぼくがもっとも熱心にテレビ観戦したのはこの時期でした。横綱には吉葉山・鏡里・千代の山・栃錦・若乃花など、錚々たる力士が並んでいました。中学生の頃だった。この後に「柏鵬時代」が続きます。柏戸と大鵬の両雄が競っていた。ぼくは大鵬が「納谷」を名乗っていた頃から知っていましたし、柏戸は本名の富樫をしこ名にしていた頃は、こんな「剛力」がいるなんてと懸命に応援した。真綿のように柔軟な大鵬は、勝つと言うよりは負けない相撲を取っていたと記憶しています。この二人が外国旅行から帰ってきて、警察から事情聴取を受け、手ぬぐいで頬被りをして、船に乗って隅田川だったかに「証拠品探し」をしたことがありました。海外旅行で「ピストル」を買ってきたからでした。やばいと思った二人は「隅田川に捨てた」と警察に話したための珍風景で、この場面もよく覚えています。(上の写真は「ピストル不法所持に関し、取り調べを受けた横綱柏戸について報じる」1965年5月25日付・中日スポーツ。「近く北の富士も」との見出しも)

天下の横綱も若かったのでしょう。その後の二人は精進を重ね、同時に「日の下開山」、柏鵬時代は大相撲の魅力を深く印象付けたと思う。という具合に書いていくと、いくらでも書ける。ぼくは「相撲博士」だと言ってもいいくらいに、相撲に関心を持っていたのです。娯楽が何もない時代、楽しみにしていたのは相撲くらいだった。もう六十年も七十年も経ってしまいました。野球は川上や青田や大下などという選手(職人)が渋い光を放っていた頃です。(写真は「拳銃密輸の疑いで警視庁に出頭した大鵬。昭和の大横綱も緊張の面持ち」(写真:共同通信社)
この少し後には、大鵬があまりにも強いので、いまでいう国民の人気ベストワンを三つ並べて「巨人・大鵬・卵焼き」などと、大いに人気を誇っていたのでした。双葉山の連勝記録(69連勝)を負っていた大鵬は、45連勝で戸田という関取に破れた。物言いがついたが、負だった。後で写真をよく観ると、相手が先に土俵を割っていたことが判明。それを訊かれた大鵬は「あんな紛らわしい相撲を取っているようじゃだめだ」と答えた。いい相撲取りでしたね。
その時代と、今日を比較するのは無意味ですね。つまりは、相撲は面白くなくなったと言いたいのです。(野球でも相撲でも、「大学出」がすぐに通用するはずもないと言われていた時代です)ところが、今や、相撲なのか、レスリングなのか、はたまた「格闘技」なのか。相撲に「美しさ」が感じられなくなった。あれほど好きだった相撲も、まったく見ない。野球も同様です。大関だ横綱だと騒ぎますが、ぼくの感覚では、相撲全盛期の「十両」か「前頭」程度の技量や強さで、名称は「横綱」「大関」と同じですが、中身はまったく異質で、比べること自体が間違っているのでしょう。今でも「栃若時代」「柏鵬時代」などという相撲人気最高の時期の、相撲取りなら百人は簡単に名前も出身地も示せます。相撲は「ご当地」といって出身地域・地方の最大の誇りなのかもしれない。「故郷に錦を飾る」というのが、このお相撲さんに当てはまるのではないかと思うくらいに、応援や支持が凄い。これがよくないんでしょうね、あまりにもチヤホヤしすぎるから、関取が育たないのではないでしょうか。

一年六場所、それが相撲をだめにした大きな原因だったと思います。怪我をしても治す時間がない、休めば番付が下がる、その頃は、若いものが追い抜いているという、真に慌ただしい時代に、相撲界も入っていかざるを得なかった。今は相撲ではなく、格闘技。ガチンコもあれば、八百長みたいなものもある、それでは相撲が盛んになるよりも、廃れるほうが先でしょうね。やがて、「国技」(というのは正しくない)も能や歌舞伎のように国家によって保護され、「文化財」として囲われて、ついには命数が尽きてしまうのでしょう。柔道が五輪種目になり、ついには「偽柔道」に成り果てたことを思っています。それもこれも、時代の流れで、どうということでもないのですが。運動(スポーツ)から「美しさ」がなくなったら、単なる格闘であり、勝ち負けにしか興味が湧かなくなるのは当然でしょうね。人でも何でも「栄枯盛衰」を繰り返すのでしょう。しかし「栄光よ!再び」と呼んでも、叫んでも戻らないものもあるんですね。これもまた、世の習い。
これと同日の談ではないでしょうけれども、政治の世界も「廃れきって」しまった。現内閣の閣僚が立て続けに四人も交代を余儀なくされたし、差別発言の「雌」である政務官も首になった。土台、こんな連中を閣僚や内閣の一員にすること自体が「恥さらし」なんですな。でも、他に人材がいないのも確からしい。杉田某は「故元総理のお気に入り(・∀・)」だった。鬼籍に移られた元総理はとんでもない「食わせ者」だったことが次々に露見している。そのような人物を「名宰相」「国葬級」「歴代最長不当」などと囃し立ててきたのですから、この島の「真相」「正体」がわかろうというもの。その「食わせ者」の軍門に下ったのが現総理、落ちるところまで落ちでも「総理は総理」であるのは、からきしだめな相撲取りでも「横綱は横綱」というのと五十歩百歩。「昔の名前で出ています」というわけ。

「不祥事絡みで閣僚が辞め、大臣経験者が急きょ再登板する悪循環を繰り返す現政権」とコラム氏はいう。タコは自分の足を食っても生きていける、トカゲは自分で尻尾を切るという。自己防衛のためです。だとするなら、この岸田某は「トカゲ総理」か「タコ首相」ということになるでしょう。タコが自分の足を食べるのは「ストレス」からだといいます。「タコ首相」はが自分の足(閣僚)を切る(食う)のもストレスなんですね。この先どうなるのか、タコに訊いてみたい。これは政治ではなく、「秋分」なんですのに、だれもその危機感を通関していないようなのは、国そのものが「終った」からでしょう。一度死ななければ、再生はありえないのも道理だと、ぼくは考えています。この場にふさわしくはなさそうですけれど、ぼくは、次の言葉を思い浮かべています。「一粒 の 麦」の例えです。(「ひとりの人間。ひとりの犠牲によって、多くの人々が救われるという真理を示したイエス‐キリストのことばによるたとえ。※引照旧新約全書(1904)約翰伝「一粒(ツブ)の麦(ムギ)もし地に落て死ずば」」(精選版日本国語大辞典)(左上写真は東京新聞・2022/12/27)
果たして、この島に「一粒の麦」は存在しているのでしょうか。あるいは、存在していたのでしょうか。「税金」に集(たか)る人間どもが、自分たちの乗る船の船艇に穴をほっていることに気がついているのか、気がついていないのか。何度も言いますが、もうこの「島」は沈下しているんですね。
「トカゲ総理」のケースはどうでしょう。トカゲは自分から尻尾を切る(自切という)らしい。努力して切るのではなく、興奮したり恐怖を感じたりして事態に対処しようとして、自然に切れるように体が反応するのだという。敵に襲われると、咄嗟に逃げようとして自発的に尻尾が切れる、それを見て、敵は驚いて尻尾に見惚(と)れる。その隙きに、トカゲ本体は逃げおおせるのだそうです。「鼬(いたち)の最後っ屁」ですな。臭いぞ。こちらもあたっていませんか。迷ったり、時間をかけて状況を判断していて、「おそすぎる」と批判するのは間違いで、自分で、自然に切れるように組織ができているのです。世間で、岸田は判断力が遅いとか、優柔不断だと非難や批判が殺到しているようですが、それは外れ、彼はストレスを貯めているし、外的・内的に襲われてもいるから、その状況に体が反応していのです。頭を使うという「判断力」の問題ではなく、「条件反射(パブロフの犬)」だったんだ。だから、これからも、条件反射が起これば、何人だって閣僚や内閣のメンバーを切り続けるでしょう。本体を守るためですから。でも、やがては本体も滅びることを知らないようですね、トカゲは。

それで悩むことはないのです。恐らく、自分ひとりになっても命がある限り、彼は「総理の椅子」にしがみ付いているでしょう。それは「本能」なんだね。偏差値でも判断力でもない。タコでもトカゲでもかまわない、とにかく、少しは民衆(国民を含む)のことを考えられる「装置」を付けてほしいですね。猫に鈴ではなく、タコに酢でもなく、岸田に「判断力」を、です。まるで、「ベルを鳴らすと、唾を出す」というパブロフの犬みたいな首相では、あまりにも人民が可愛そうではないですか。相撲界は「新陳代謝」があるから素敵だとコラム氏は呑気なことを書いていますが、なに、やがてかなりの数の力士が二代目三代目になってくるでしょう。政界と瓜二つですね。この島全体に焼きが回っており、新陳代謝機能が故障しているんです。どうしたらいいんですか?
● パブロフ=ロシア,ソ連の生理学者。ペテルブルグ大学を卒業後,ドイツに留学,実験技術などを学ぶ。軍医学校の薬理学教授,パブロフ生理学研究所長。消化液分泌の神経支配を解明した業績に対し,1904年ノーベル生理医学賞。さらにイヌを使って条件反射を研究,精神現象を生理学的に把握しようという態度は,後のワトソンらの行動主義心理学に大きな影響を与えた。(マイペディア)

● しんちん‐たいしゃ【新陳代謝】=〘名〙 (「陳」は古いもの、「謝」は辞し去るの意) ① (━する) 古いものが次第になくなって、新しいものがそれと入れ代わること。※改正増補物理階梯(1876)〈片山淳吉〉一「凡そ宇宙間に在る各物体の斯く日に変化して新陳代謝し循環極りなき是造化の妙なり」② 生体内で、必要な生活物質が摂取され、不用物は排泄(はいせつ)される作用。物質代謝。物質交代。代謝。※日本読本(1887)〈新保磐次〉六「歯の面〈略〉イナメルには新陳代謝なきを以て、一たび損ずれば滋養もこれを快復せず、妙薬もこれを再生せず」(精選版日本国語大辞典)
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