文七元結を聴いて、夫婦親子を考える

【水や空】心温まる 「下げ」よく知られているのは夫婦の人情噺(ばなし)「芝浜」だろうか。年の瀬の江戸を舞台とする古典落語には名作が多いとされるが、その一つ「文七元結(ぶんしちもっとい)」に、隅田川に架かる橋の上で男2人がやりとりする場面がある▲娘の孝行によって借金を返すための50両を手にした男が、年末のある日、橋から川へ身投げしようとする問屋の奉公人、文七に出くわす。店の50両をなくしたのでこうしておわびを、と言う文七に、男は大切なお金を渡してしまう▲「死なせねえ。持っていきやがれ」「いや、受け取れない」。大金をつかみ合うのではなく、譲り合う2人の押し問答がやけにおかしい▲三代目古今亭志ん朝が演じるこの場面をDVDで見ると、笑えるだけではなく、なぜか心に染みる。巧みな話芸によるものなのか、カネをつかみ合ってばかりの昨今の問題にうんざりしている、その反動か▲東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件といい、政治とカネを巡る問題といい、カネの怪しい流れに人々が渋面を浮かべた1年が暮れる。「平和の祭典」という呼び名に運営する側、協賛する側が傷を付けたのなら、なおのこと罪深い▲「芝浜」も「文七元結」も、お金を巡る騒動のあと、心温まる“下げ”がある。現代とはどこか対照的なハッピーエンドにしばらく心を休めてみる。(徹)(長崎新聞・2022/12/26)

 今ではまったく絶えてしまいましたが、時節に合わせて、毎年同じような音楽や落語などを頻りに観たり聴いたりしてきました。暮になると「第九」が今でもあるようですが、本場の国々よりも盛んに “Freude, schöner Götterfunken”という平和への願いを籠めて、全国各地で演奏されてきました。ぼくは一度だって、合唱団に参加したことも、演奏会に出かけたこともありません。この「第九」が嫌いというのではなく、よほどのことでもない限り、音楽は家で静かに聴き、静かに盛り上がるに限るというのが信条でしたから。今でも、車に乗ってFMなどをかけると聴こえてきます。つい先日も。その最後の部分だけでしたが、あ、これは日本人の合唱団だなと直感した、しかしソプラノやテノールは外国人。しかもライブでした。最後まで聴き終えると、演奏はN響で、指揮は井上道義さん。思ったとおり、合掌は国内の音大の学生たちでした。それでどうというのではありません。まだやっているんだ、そんな気がしただけでした。かなり前、もう今はなくなったある大きな交響楽団のソリストたちと話す機会があった際、「第九は、ボーナスみたいなもの」、年越しのお年玉だと言っていたほどに、演奏する方も聴く方も、それなりの意義があったんですね。それが今も継続しているとすれば、おそらく戦後しばらくしてからですから、もう九十年も続く「年中行事」なんですね。(前からの疑問で、どうして暮にしかやらないのか。やはり「お年玉」だからでしょうか) 

 落語も時期によって、聴く出し物が違いました。この師走には、主に「富久」とか「芝浜」、あるいは「文七元結」などですね。他にもありますが、このような演目は、年中聴きますが、やはり暮にはとくに聴く機会が多かったように思います。ぼくは何でもそうで、落語は志ん生や圓生止まり。それ以降はめったに耳にしません。その名人上手たちの噺は、記録されているものは殆ど聴いてきました。同じ話を何度聴いたかわからない。ぼくは授業の改善というか、少しでも学生に伝わるように、何かと工夫はしましたが、もっとも効果があると、一人決めしていたのが「落語の話芸(語り口)」の受容でした。志ん生は、ことのほか、聴かせる話しぶりでした。本日のコラム氏が取り上げている「文七元結」には残された音源が多数ありますから、どれを聴くかで微妙に伝わり方が、当然ですが、異なります。参考例に出しておいたものはどうでしょう。(とても長い噺で、通常は一時間以上は要します。この慌ただしい時代、とても間尺が(に)合わないでしょうね)(▶)(志ん生「文七元結]:http://rakugo-channel.tsuvasa.com/bun7mottoi-shinsho-5

 「富久」も好きですね。「太鼓持ちの久さん」が主役。ついで「富くじ(宝くじ)」が準主役です。そこはかとない「哀感」が漂っているような話です。聴かれるといい。こんな類の話は、先ず学校では教えないですね。そこが学校の限界だと思うな。

 この「文七元結」は三遊亭円朝が作ったとされます。いわゆる「人情噺」とされますね。実際にありそうで、まずありえない噺を、寄席で聞いて、民衆は「溜飲を上げたり」「義憤を晴らしたり」だったのでしょう。明治の初期まで、江戸の各町内にはいくつも「寄席」「小屋」(落語や歌舞伎の定席)があったことが記録されている。今では考えられないくらいに、寂しく慎ましい「夜の楽しみ」に、寄席は不可欠だった。もちろん電気はありませんでしたから、灯りは「ろうそく」。「トリ」という、その日の最後に舞台に上がる芸人(落語家)を「真打ち」と言いました。今でもそのように言っていますね。その意味するところは、話芸に長じていて、観客の「心を打つ」からだというのは、まるでダジャレですね。もしそれが本当なら、こんにち「真打ち」に値する落語家は皆無ではないですか。そうではなく、今では通説ともなっている方をぼくは押します。舞台も客席も暗い中で演じられ、舞台(板)上には「ろうそく」が灯されていた。最後の最後になると、真打ち(演者)はろうそくの芯を打って消した、そこから「芯打ち」、転じて「真打ち」となったとされます。

● 文七元結(ぶんしちもっとい)=落語。以前からあった噺(はなし)に三遊亭圓朝(えんちょう)が手を入れて完成した人情噺。左官長兵衛は腕はよいが博打(ばくち)に凝り、家のなかは火の車であった。孝行娘のお久が吉原の佐野槌(さのづち)へ行き、身売りして親を救いたいという。佐野槌では感心して長兵衛を呼び、いろいろ意見をしてお久を担保に50両貸す。改心した長兵衛が帰りに吾妻(あづま)橋までくると、若い男が身投げしようとしているので事情を聞くと、この男はべっこう問屋の奉公人で文士七といい、50両を集金の帰りになくしたという。長兵衛は同情して借りてきた50両を文七にやってしまう。長兵衛が家へ帰ると女房と大げんかになる。そこへ文七とべっこう問屋の主人がきて、金は得意先に忘れてあったと粗忽(そこつ)をわびて50両を返し、お久を身請けしたことを告げる。のち文七とお久は夫婦となり、麹町(こうじまち)貝坂で元結屋を開いたという。6代目三遊亭円生(えんしょう)、8代目林家正蔵(はやしやしょうぞう)(彦六(ひころく))が得意とした。1902年(明治35)に歌舞伎(かぶき)座で5世尾上(おのえ)菊五郎らによって初演されたのをはじめ、映画化などもされてよく知られた。(ニッポニカ)

● 三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)[生]天保10(1839).4.1. 江戸[没]1900.8.11. 東京=落語家。本名出淵 (いずぶち) 次郎吉。2世三遊亭円生の門下で,7歳のとき小円太と名のって初高座。のち奉公に出たり,浮世絵師一勇斎国芳の弟子になったりしたが,再び芸界に戻り,円朝と改名。若いとき道具入りの芝居噺で人気をとり,また河竹黙阿弥や仮名垣魯文と交わって三題噺を流行させた。明治に入り自作自演の素噺に転向し,『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵 (かさねがふち) 』などの怪談噺や人情噺のほか,新聞種や実地調査に基づく『安中草三』や『塩原多助』,また G.モーパッサンなどの翻案物も口演した。明治新政府の要人や各界の名士と交わり,落語家の地位を向上させ,江戸落語を集大成するとともに後進を養成,また速記本の出版で,文学の言文一致運動に影響を与えるなど,功績は大きい。(ブリタニカ国債大百科事典)

 骰子賭博で負け続きで、何年も稼業を放り出し、尾羽うち枯らした左官屋が、娘の体を張った機転で五十両を得る、それをそっくり見ず知らずの店者の若衆にくれてやる、こんな「浮世離れした話」だからこそ、客は安心して聴くことができたのでしょう。自分の貧乏や明日をも知れぬ生活の苦労から、ほんの一瞬であれ、解放されたのではなかったか。ぼくは「左官の長兵衛さん」は永遠の「男気」だと思っている。これをこそ「江戸っ子」といったのかも知れません。江戸っ子とは、どこにもいない存在であり、だからこそ、「これぞ江戸っ子」という人物像(作り話)を、落語作家であった圓朝は生み出してきたのでしょう。この圓朝という人は「共通語「標準語」とされる、明治期の書き言葉と話し言葉の一致(言文一致体)がなんとか成り立つためにも大きな働きをしたとされます。この島には「共通言語」「標準語としての話し言葉」は明治初期には存在していませんでした。このことについては稿を改めて考えてみたい。夏目漱石は落語好きとして知られていましたが、彼の小説の「話言葉」は落語家(圓朝など)から大きな影響を受けていたのでした。子規も同様だったでしょう。

 これは余談です。長兵衛さんの娘のお久さんは、長兵衛と先妻との間にできた子でした。継母(ままはは)と継子(ままこ)の、この「つながり」をどう受け止めればいいのでしょうか。言うまでもなく、江戸期にも再婚や離婚はありました。もちろん、今では「分かれるために結婚する」のではという時代ではなかったから、再婚は男にも女にも気安くはなかったと思われます。長兵衛さんの先妻がどうしたのか、ぼくにはわかりません。継母と継子の、噺の上での親子の情愛の深さを、作者の圓朝は、この落語の、もう一つの核として描いたようにぼくは考えている。「なさぬ仲」、今の時代、このような「義理の親子」(子どもが辛いのは当然だし、母親であっても苦しいのだ)が、どれだけ苦悩し煩悶しつつ生きているかを思う時、この「文七元結」にはさまざまな「人間模様」が織り込まれていることがわかるのです。(考えてみれば、夫婦だって「なさぬ仲」じゃないかと、ぼくはずっと思いこんでいました。血の繋がりがないのが人間関係の、もう一つのあり方なんですね)

____________________________

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)