
<速報>日本近代史家の渡辺京二さん死去、92歳 熊本市在住の日本近代史家で、作家の故石牟礼道子さんを編集者として支えた渡辺京二さんが25日、死去した。92歳。京都市出身。代表作「逝きし世の面影」や「黒船前夜」、「バテレンの世紀」など近代を問う著作で知られる。石牟礼さんと共に水俣病患者の支援組織「水俣病を告発する会」の結成にも関わり、「熊本風土記」や「暗河[くらごう]」、「炎の眼」などさまざまな雑誌を刊行してきた。本紙で昨年4月から週1回、大型評論「小さきものの近代」を連載している。(熊本日日新聞 | 2022年12月25日 13:06)(右写真は石牟礼道子さんと。文春オンライン)

近代史の研究者で評論家でもあった、渡辺京二さんが亡くなられた。昨夜(二十五日)のニュースで知って、相当な高齢に達していたことが分かっていながら、いかにも「突然な」という感じがしました。緻密な論考というには当たらないが、かなり執拗な推敲を重ねて、一つの人物にしろ、時代にしろ、大きな、しかも深い「歴史の絵」を描かれた人でした。いつの頃だったか、「娘のために」と言って、イヴァン・イリイチの翻訳をされているのに出会って、驚いたことがあった。大きな意味では、世界史的な時代の中での「文明論」にイリイチと共鳴するところがあったのかも知れません。渡辺京二・梨沙共訳「コンヴィヴィアリティのための道具」です。
まだ勤め人をしていた頃、教室で、一人の学生(女性)が、渡辺さんの「逝きし世の面影」を持っていた(読んでいた)のに出会い、本当に驚愕したことがあります。こんなところで、渡辺ファンがいるのかと、驚くと同時に嬉しく思った。その後、彼女は、ぼくが担当していたゼミに参加された。(ぼくが、別の授業で、渡辺さんを紹介したのだったかもしれない)その後、学生は「渡辺さんに手紙を書きました。返事がとどきましたよ」といっていたので、ここにも渡辺さんの一面を見る思いがしたことでした。熊本に限定されない「勁い存在」という感想(印象)をぼくは持っていました。数年前には、熊本市内にできた「橙(だいだい)書店」によく来られて、ここの店主を物書きに仕立てるようなところもあった、と聞いて、渡辺さんの別の面を教えられた。ぼくは、ある時期までは熱心は渡辺贔屓(びいき)でした。何よりも、渡辺さんは「無所属」という立場に居続けた人として、ぼくには尊敬おく能わざる人でした。石牟礼さんとの関係は、ぼくが言うまでもないことです。

数々の著作の感想をいう気にはなれません。繰り返し渡辺史学・史論を学んできて、まず抱くのは、どこまでも「敗者の側」に立つ人という趣(印象)でした。中央と地方という、「中央」からの差別主義に、彼は徹底して抗うために、静かではあっても、けっして妥協しない強さを持っていた。今でも奇妙な錯覚だったと思いながら、あの人は誰だったろうという、しばしの邂逅に耳をつままれたような気がするのです。なにかの要件で福岡に出向いた。ぼくを呼んでくれた方が一席を設けて、しばしの会合の時間があった。そこにおられた方が、ぼくの友人の知り合いで、どうも大学の先輩だったと思う。その人が渡辺さんを呼ぼうか、と言われたのだった。その「渡辺さん」が京二さんだとわかったときには、その場はお開きなっていた。在野の思想家・歴史家として、その存在を知るだけでも、ぼくには十分だったし、まして、残された作品がまとめられて出版されてもいたので、語るに落ちた話ながら、渡辺京二という人の「名前」を聴くだけで胸が高鳴ったのでした。

今でも、時にページを開くのは「日本近代の逆説」(「渡辺京二評論集成Ⅰ」・葦書房)です。ここに詳細は書けません。ある時代には「正説」が幅を利かすのは当然ですが、そこには、その裏のページに「逆説」が渦巻いているのです。歴史は表から観るのではなく、その表面にヒビやシワを付けた感のある「逆説」(稗史)がつきまとっている。それを無視して、一連の流れを「歴史」と呼ぶのは正しくないでしょう。正史と稗史(はいし)というだけでは捉えきれないものが、どんな「歴史事実」にも存在しているということです。「逆説」を透過して初めて、歴史の姿が立ち現れることがいくらでもある。渡辺さんの仕事を云々することはぼくにはできない。時間の許す限り、彼が書かれた作品を読み続けるばかりです。(合掌)

【新生面】荒野の泉 編集者の福元満治さんが熊本大の学生だった時のこと。自分たちの「全存在」をかけて水俣病患者の闘争を支援するという運動方針に、「全存在なんてかけられるはずがない」と口を挟んだ▼途端に「小賢[こざか]しいことを言うな! これは浪花節だ!」と渡辺京二さんから一喝されたという。水俣病問題で最初に訴訟に踏み切った患者らを支えた「水俣病を告発する会」で、中心的存在だった評論家の渡辺さんが92歳で亡くなった▼中国・大連などで小中学時代を過ごし、中2で文学との「革命的な」出合いをした。敗戦で内地に引き揚げ、旧制五高に入ったが結核のため1学期ほどしか通わなかった。会社員の「肩書」を持ったのは日本読書新聞の編集者だった2年間だけ。在野の編集者として多くの文学雑誌などを手がけ、熊本の文化をリードする存在でもあった▼在熊の作家石牟礼道子さんを「天才」と呼び、その創作活動を公私両面で支えた。「あの人の才能は異能。一種のシャーマンだもんね」。石牟礼さんをそう評し「僕は編集者だから才能に嫉妬しない。そこが取りえ」と語っていた▼自身も近代史の研究家として、名著の誉れ高い『逝きし世の面影』など数々の著作を生み出した▼明治維新で形づくられた近代国家を語る際にも、庶民ら「小さきもの」たちに目を向けた。よりよい人生を送るためには、身近なよき仲間をどうつくるかが何より大事だと呼びかけた。本人の言葉を借りれば、その発言は「荒野に湧く泉」のように私たちを潤した。(熊本日日新聞 | 2022年12月26日 07:00)
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