
【日報抄】おでんに入れる具といえば? 大根それから卵だろうか。人気者である卵の値段が上がった。長らく「物価の優等生」と言われてきたが、1年前に比べると3割ぐらい高いとの相場データがある▼鳥インフルエンザの影響がある。さらに鶏の餌となる飼料の高騰も痛手になっている。多くを輸入に頼る飼料は価格が2倍になったとの話もある。段ボールなどの資材費や運送費も上がったそうで、優等生を取り巻く厳しさが伝わってくる▼日本政策金融公庫がまとめた冊子には、そうした生産現場の悲嘆が載っている。牧場も困っているという。飼料代だけでなく、高い電気代も重荷。畜舎に多く設置した扇風機を止めるわけにはいかないのに。60万円だった1カ月の電気代が85万円を超えたとの例が紹介されている▼牛乳メーカーも仕入れ値が上がって苦しい。容器となる紙パックの値段も、工場のタンクを洗う洗剤の価格も上がってしまった。ハウス栽培をする農家も苦境にある。ハウスを暖めるための重油が急騰。キュウリを育てる生産者によると、年300万円だった燃料費が550万になりそうだ▼どこも手をこまねいているわけではない。鶏ふんを堆肥にして韓国に輸出してみたり、暖房費のかからない夏だけの生産を試みてみたり。ピンチの中でひと筋の光をたぐる▼値上げなどしたくない。優等生でいられるなら、いたいはず。でも限界がある。卵や牛乳、野菜を手に取るとき、高騰の波をかぶる生産者の苦しみに目を向けたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/12/25)

愚問です。「おでん」と聞けば、何を思い浮かべるでしょうか。ほぼ全員が「「煮込みおでん」でしょう。醤油味でいろいろな具材を煮込んだものです。時代的に言えば、それは極めて新しい調理法で、一種の「ごった煮」ですね。元来はそうではなかった。この食べ物の由来は「田楽(でんがく)」にあった。「田楽」は一種の習俗とも言えるもので、「田の神」を祀るための踊りや囃子などが繰り広げられ、恐らく【五穀豊穣」を祈ったのでしょう。一説には、平安時代あたりから見られるそうです。その後、田の神や田植えなどとは独立した、民俗芸能として広く民間で受け入れられた。ある種の大衆芸能であり、その流れは、ごく最近まで受け継がれてきたのです。その「田楽」「田楽舞」は他の風習と混在し、独自性が見えなくなりました。その履歴がかろうじて「味噌田楽」などという食べ物としてその痕跡をしのぶことができるのです。なぜ、食べ物の名前になったのか、無責任な当て推量をいうと、おそらく田植えなどの集団労働の際の「共同食」だったのかも知れません。豆腐や蒟蒻(こんにゃく)などに味噌を塗り、それを串に挿して食用に供したのでした。詳細は以下の辞書に譲っておきます。
今で言う「おでん」は鍋物の典型として、多くの人が好んできました。かくいうぼくも大好きで、その昔は、一つ一つの具材を揃え、自分で作るのを楽しみとしていました。もちろん、お酒の友として、です。何軒か、よく通った店もありました。勤務先のそばにもよく流行るお店があり、しばしば酔いつぶれるほど(その店は白鶴の升酒でした)飲んでは、おでんに舌鼓を打った。今も、そのお店は健在かどうか。新宿や銀座にも名物おでん屋(ぼくが通ったのは「お多幸」)がありました。ここにも、何十年もいかなくなりました。健在かどうか。その店も、いつ行っても混んでいるような繁盛ぶりでしたね。
● おでん=鍋(なべ)料理の一種。おでんの名称は「おでんがく」の略語で、その語源は田楽(でんがく)である。田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた。/ 古いころの田楽は焼き豆腐にみそをつけるものもあった。こんにゃくが豆腐のかわりに使われる場合はゆでて用いていた。江戸中期から、野外宴会などに豆腐田楽が用いられたが、これに適するため滋賀県栗東(りっとう)市目川(めがわ)の崩れにくい田楽が導入された。当時の田楽串(くし)は先が3本に分かれていた。いまは全国的に2本串になっているが、名古屋、岐阜の一部に3本串が残っている。おでんの呼称は、田楽におの字をつけて「お田楽」となり、楽がとれて「おでん」となったものである。みそを用いての煮込みおでんは江戸後期にみられるが、しょうゆ味のだし汁で煮込んだおでんは明治の産物である。/ おでん種(だね)は、豆腐、がんもどき、こんにゃく、はんぺん、イモ、ダイコンなどであったのが、いまは動物性材料が多くなっている。大正の中ごろ、関西で「関東煮(だき)」の名で紹介されたものは、鶏のだし汁に下煮をした種を加えるのできれいな料理になって、関東に逆移入され、全国的にこの形態になった。郷土色のあるものでは、徳島の「でこまわすで」とよばれる、串刺しのサトイモにみそをつけて焼く田楽がある。熱いので息をかけながら串を回して食べるようすが、阿波(あわ)人形を操るのに似ているのでこの名がある。(ニッポニカ)

これもどこかで書いています。おでんというのは種々の具材を煮込むもので、一品では絶対に出せない、混合の味が売りになっているのでしょう。ダイコンだけ、蒟蒻だけ、竹輪(ちくわ)だけでも食べられなくないし、それを好む人がいるのも事実です。しかし、それぞれの味を持ったものが時間をかけて煮込まれると、雑多のより合わせの味が滲みてくるのです。異種混合、あるいはハイブリット、それこそがおでんの風味だというと大げさですが、いかにも雑種のたくましさがあると、ぼくなどは思ってしまいます。今では沢山の具材(種)に出汁(だし)までがパックになったものが売られています。時々それを食べますが、なにかおでんを食べているという感じがしませんね。「練り物鍋」という気味が強く、あまり口には合いません。簡単というか、何もしないで鍋に移して温めるだけ、これを料理とは言わないのでしょう。面倒ですが、ダイコンもじゃがいもも、家で下ごしらえし、時間差をもってそれぞれの材料を煮るという手間暇が、雑多煮の良さを醸し出すのではないでしょうか。

おでんには焼き豆腐が入っているかどうか。豆腐といえば、ぼくは何十年も「湯豆腐」を作り、食べ続けてきました。家で酒を飲むときは必ず「湯豆腐」(夏は「冷奴」)でした。それだけで、他になにもいらないほどに、湯豆腐を堪能していた時期が長く続きました。それだけ口にあった豆腐が手に入ったということで、この地に引っ越してからは、ぼくにとっていい豆腐というものが見当たらなくなり、それも一因で、ぼくは酒を飲まなくなった。もう十年近くになります。湯豆腐はめったに口にしなくなりました。でも、その食感の記憶は残り続けている。そして湯豆腐というと、きっと思い出すのが表題の句です。これは久保田万太郎さんの、いわば遺言ならぬ「遺句」となったものでした。晩年に、彼は長く独り身で生活されていたそうで、奥方にもお子さんにも先立たれた。この句は、死の一ヶ月余り前の作だったそうです。
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
まさか「行燈」ではなかったでしょう、湯豆腐の間は。それであっても不思議ではないような陰影が刻されています。今時のLEDでは、先ず生まれない雰囲気ですね。そして、この「うすあかり」とは、万太郎さんを襲って止まなかった「寂寥感」というものだったろうか。
● 久保田万太郎【くぼたまんたろう】=小説家,劇作家,俳人。俳号暮雨,のち傘雨。東京浅草生れ。慶大文科卒。1911年小説《朝顔》,戯曲《プロロオグ》で認められ,三田派の代表作家となる。下町の生活と情緒を愛し,好んで市井人の生活を描いた。小説に《春泥》《花冷え》《市井人》,戯曲に《大寺学校》などがある。また江戸趣味の俳句をよみ,句集《道芝》がある。演出家としても一家をなし,放送演劇にも尽力した。1957年文化勲章。(1889-1963)
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