人生はゲームじゃないぞ

 【雷鳴抄】ああPK戦 今年5月に死去したサッカーの元日本代表監督イビチャ・オシムさんは、試合が延長戦でも決着せずPK戦に入ると、ベンチを離れロッカールームに姿を消した▼「あんなものはくじ引きみたいなもの。私は自分の仕事をすべてやり終えた。TOTO(サッカーくじ)は当たりを知るだけで十分だ」というのが理由だ▼サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本代表はクロアチアと対戦した決勝トーナメント1回戦でPK戦により敗退した。アルゼンチンとフランスによる壮絶な試合となった決勝も、PK戦でアルゼンチンの優勝が決まった▼よく指摘されることだが、PKはどんな名手でもミスすることがある。W杯史上初の2度目の大会最優秀選手となったアルゼンチンのメッシ選手も、1次リーグのポーランド戦では失敗した▼そもそもPK戦はトーナメントで上位進出チームを決めるために行うもので、公式記録上は引き分けとなる。日本対クロアチアもそうで、日本の今大会の成績は2勝1敗1引き分けだ▼頂点を逃したフランスのデシャン監督は「非情な結末だ」とうなだれた。死力を尽くした両チームへなお決着を迫るPK戦に、なぜ私たちは見入ってしまうのだろう。歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬に、人生にも通じる何かを感じるからかもしれない。(下野新聞SOON・2022/12/24)

 サッカーのPK戦については数日前にも書きました。個人の感想を言えば、無理に決着をつけなければならない事情があるから、「PK戦」などという、それまでの試合の流れを寸断するような「付録」は、ぼくには詰まらないし、どこまでも延長戦を続ける方がいい。二つの「異質なゲーム」が同一の試合の中で混在するのは、サッカーの試合のあり方(筋道)としてどうでしょうか、それがサッカーに熱心にならなかった岡目八目の愚感です。今でもそれが行われているのか、野球などでも延長戦(回数制限内)で決着がつかない時、「タイブレーク」方式を採用しているらしい。野球に限らず、制限時間のない競技で「決着」をつけるための「窮余の一策」に思われるし、なんか嘘くさい勝負の決め事であるという気もする。しかし、「規則(ルール)」なのだから、といえば、そのとおり。これが通用すると、ぼくなどは直ちに興味や関心を失ってしまうことになるでしょう。(左はサッカーダイジェストWEB編集部・2022/12/19)

● タイ‐ブレーク(tie break) テニスで、ゲームカウントが一般的に6対6になったときに、決着を早くつけるために行うゲーム方法。2ポイント以上の差をつけて7ポイントを先取したほうをそのセットの勝者とするもの。/ 野球やソフトボールで、延長戦になった際に、決着を早くつけるために行うゲーム方法。最初から走者を塁に置いて、点の入りやすい状況から試合を再開する。ソフトボールではタイブレーカーという。/ [補説]野球のワールドベースボールクラシックでは第2回大会から適用。延長11回以降は無死1・2塁からプレーを開始する。都市対抗野球では、延長12回以降は1死満塁からプレーを開始する。(デジタル大辞泉)

 「試合」だから、どうしても勝ち負けを決めなければ、というものなのですかね。「勝負」がつかない勝負(引き分け)もあるのです。無理に決着をつけるというのは、ぼくには「不自然」そのものに感じられてしまう。オシムさんのようなサッカーのプロだった人がいう意見に、ぼくは賛成したいですね。「本番」で全力を尽くしたのだから、後は余技とは言わないにしても、じゃんけんやトスのようなもので、試合の結果は、あくまでも「引き分け」でであって、それ以外のなにものでもないというのです。くじ引きやアミダ方式で、勝ち負けを決めると、「それはサッカーじゃない」という意見が出るでしょう。PK戦も似たようなものだと思いますが。

 「頂点を逃したフランスのデシャン監督は『非情な結末だ』とうなだれた。死力を尽くした両チームへなお決着を迫るPK戦に、なぜ私たちは見入ってしまうのだろう。歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬に、人生にも通じる何かを感じるからかもしれない」このように書くコラム氏の評価に反対はしません。しかし、「非情な結末」というのは、もう少し含蓄のある、監督だけが持つであろう、いい知れぬ苦悩の吐露ではなかったでしょうか。PK合戦で決める位なら、延長線で最後まで(決着がつくまで)やりたかった、と。でも、ルールはいつでも変えられるし、変えられてきた。あくまでも、これは「ゲーム」なのだと割り切れれば、ルールが示すがままに結末も付けられる、それが人生とは違うところではありませんか。「歓喜と落胆に分かれる無慈悲な一瞬」という表現で何を言いたいのかわかりますけれど、人生には「無慈悲な一瞬」があるようでいて、その「勝ち負け」の一瞬で人生は終わらないんですから、勝ちも一瞬、負けも一瞬、それで終わるのは「ゲーム」であって、人生終了のホイッスルを吹く人はいないし、ボールを蹴り合って決着がつくような、わかりやすいものではない、それが人生、生涯というものですね、「勝ち負け」を超えてなお続く、それだけです。

 サッカーには「ルールブック」があります。人生にはそれがあるのか。また試合には相手チームがあり、審判員がいます。人生はどうか。相手もあり、審判もいるといいたくなるでしょうが、残念ながら、どちらもいない。時に、相手が現れるかも知れぬが、人生を賭けて、勝ち負けを争うようなことは先ずありえない。審判は「自分自身」だともいえますが、この怪しい審判は「えこひいき」「身びいき」をしがちですから、当てにならない。審判がいないからこそ、ぼくたちは何事も自ら「判断」するのではないですか。その「判断」を誰かに任せてしまえば楽であるかもわからないが、人生を生きているという実感は湧かないでしょう。動かされているという「依存状態」に自らを置きたがる人もいるには違いないが、そんなところから「自分は生きている」という感覚が生まれないのはたしかです。

 サッカーを始めとするいろいろな「ゲーム(競技)」と、実人生の決定的な違いは「ゲームセット」が決められていないこと。人生において、失敗は何度でも取り返しができる。「七転び八起き」というように、失敗や間違いという経験が己を鍛えてくれるのが人生だと言いたいですね。サッカーや野球にも失敗はつきものですが、それは往々にして、勝負にとっては致命傷になるでしょう。人生とは「楽あれば苦あり」だし、「苦あれば楽あり」だとも言えるし、そうではないこともある。苦しいことだけが人生だと、なんとも過酷な人生を経験する人もいるはずです。ゲームはゲーム、人生は人生です。その二つの異物・異種同士を重ね合わせることは面白いでしょうが、そこからなにか人生に必須の条件が生まれ出るとは思えないですね、ぼくには。

 (コラム氏に異論をはさむのではなく、コラム氏が言うようなものとは違うのが、人生ではないかということを考えさせてもらっているのです。丁寧にお礼が言いたい気持ちです)

 人生に「勝ち負け」はないし、まして「引き分け」なんてないと、ぼくは考えている。なぜなら、人生は「ゲーム」なんかではないからだ。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)