スマホは盗撮用には作られていない

 学校教員の「不祥事」が頻発しています。気分が悪いので、細かいことは言いません。どうしてこんな「幼稚」「下劣」な犯罪が起こるのか、ぼくには不思議でも何でもない。起こるべくして起こっているというのです。それぞれの不祥事には個別性がありますから、十把一絡(から)げで「今時の教員は~」とは言わない。かろうじて指摘できそうなのは、「自制心」や「克己力」などと言い換えられる「意思(意志)」の働きが希薄か、あるいは無いに等しいからであり、逆に言うと「自分」といい「己(おのれ)」という「自分」とは「情念(passions)」のかたまりを指しているとみていい。この「情念(という感情)」は、日常的には、しばしば「喜怒哀楽」と称されるものに近いかもしれません。(この4つの情念は、外からの刺激に対する身体の反応 ー そのとき、当人は受け身でしかない。要するに「火のない所に煙は立たぬ」であって、「火」は外部の刺激因であり、「煙」は身体内の現象。宝くじに当って、喜ぶ。悪口を言われて、怒りまくる。好きな人に振られて、哀(悲)しくなる。ゴルフに出かけて、楽しむ。どれもこれも、「因」があって、「果」が生まれるのです)

 大半の人は、雨の日には「気分は不快」でしょう。逆に、晴天であれば「気分は爽快」です。天気具合で気分が変わる人を「お天気屋(気分屋)」といいますよ。同じ天候であっても、人によって反応が異なるのはどうしてですか。気分に打ち勝つには、偏差値や学力は無用であり、ときには有害でさえあります。算数の計算問題で多くの人が間違いを犯すのは、理解できないからではなく、注意力が散漫だからでしょう。学校の教科目に「算数」「数学」があるのは、計算能力を向上させるためといえますが、それ以上に大切なのは「気分を克服」するためのもっとも有力な方法だからだと、ぼくは経験して来ました。「自分で計算する」能力を育てる、それは計算能力以上に大事な力を養うことにもなるのです。

 56+78=▢、この計算につまずくのは、能力の不足というより、集中(注意)力が欠けていたからではないでしょうか。その証拠に、ゆっくりとやり直せば、きっと正解を得ることができる。階段を踏み外して大怪我をする。何かに躓いて転ぶ。あるいは不注意な運転で「交通事故」を起こす。この時、いずれにも欠けているのは偏差値の高さや、家柄などではなく、誰にも備わっている「注意力」です。

 学校教員に求められるもの(「力量」という、嫌な表現が流行りました)は、第一に「学力」であり、第二に「指導力」だとされてきました。ぼくに言わせれば、人一倍の「注意力」だと思う。子どもの間違いに「カッとなる」とか、優劣思想に毒される、学歴や昇進(地位)などに必要以上に拘(こだわ)るとするなら、その「先生」には「注意力」「自制心」が著しく欠けていると、ぼくは言いたい。こういう点から見ていくと、この島の学校教育は「不注意な人間=情念に支配された人間」の育成には存分に成功したでしょうね。反対に、もっとも成功しなかったのは「他者への労り」の心、「他者への敬意」という崇高な感情を育むことではなかったか。「注意深い」という意味は、他者に配慮することをも指しているのですね。不注意人間や厚かましい輩の輩出、どうして、そんなことになったのか、猫や猿にでも教えてもらえばいい。

 ぼくが愛読して止まない、デカルトの「情念論(Traité des passions de l’âme)」(1649年刊)、そのなかで彼は6つの基本情念を上げています。「驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみ」であり、それらは、いずれも身体の受動性から生じるというのです。どれ一つとして、能動的に引き起こされるのではなく、先ず外部の対象の働きかけによって身体内に生じますね。(なにもないのに、怒れない」でしょ。注意深い人間であることは、高い学歴を獲得するより、人間にとっては遥かに大切な能力、いや人間性そのものです。政治の劣化は政治家の劣化ですが、「劣化」とは「注意力」の劣化、育て損ないをいうのです。そこにも「不注意人間」が引きも切らずに押し寄せている、その根本の原因(理由)なんでしょうか。一方的に「養成される人間」は、もっとも大事なものを失っているんですね。気の毒であり、可愛そうでもある。多くの教師は「やればできる」と教えます。間違いではないし、当たり前であって「やらなければできない」のです。やるとやらないの「分かれ目」はどこにあるのか。やる必要があることについて、大切なのは、命令されることではなく、自ら「意欲する」「自分を高めようとする」ところにあります。

● 情念論(じょうねんろん)(Traité des passions de l’âme)=デカルトの最後の著作。1649年刊。人間の情念(感情)を心理学的かつ生理学的に考察し、道徳の問題に説き及んでいる。本書は、ドイツからオランダに亡命していたエリザベート王女の質問をきっかけとして書かれた。王女は、デカルトの精神と物体(=身体)の二元論において、心身合一体としての人間が占める位置が問題となることを鋭く指摘した。そこでデカルトは、心身合一体に特有な意識である感情の考察に向かうことになった。感情は身体によって引き起こされる意識状態、すなわち「精神の受動」passion de l’âmeである。さてデカルトは、情念(=受動)のうち、驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみの六つを基本的なものとし、心理学的に分析する。他の諸情念は、基本的情念の複合として説明される。また、情念は動物精気(血液中の微細物質)が精神の座である松果腺(しょうかせん)に作用した結果生じるものとされ、その機構が生理学的に記述される。このように情念のメカニズムを客観的、機械的に認識することによって、情念を自由意志の手段とすることが可能となる。自由意志を正しく使用し、情念を支配することが、高邁(こうまい)という最高の徳につながると結論される。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)