どんな「人」が「選手」であるのか

【12月20日付編集日記】悲願の世界制覇 13歳でスペインに渡った少年の身長はわずか140センチ。俊敏な動きでボールが足に吸い付くように自在に操る技術は、既に子どものレベルを超越していたが、成長ホルモンの影響で背が伸びない病に悩まされていた▼毎日、注射を打ち続ける日々。母国を離れたのは名門チームの下部組織にスカウトされたことに加え、高額な治療費を賄うのが難しかったことが理由だ。のちに「神の子」などと評される希代のスターも決して順風満帆ではなかった▼サッカーのW杯カタール大会決勝はアルゼンチンがフランスをPK戦の末に下し、36年ぶり3度目の優勝を遂げた。35歳になり、5度目のW杯で世界一という悲願に挑んだメッシ選手が、延長後半にみせたゴールは執念そのものに見えた▼病と闘ってきた経験を踏まえ、15年前に財団を設立し、世界中の子どものため小児がんなど難病の治療や研究費に資金を提供してきた。169センチの体ながら巧みなドリブルで相手をかわし、ゴールを決めるメッシ選手は、子どもたちに勇気を与えている▼数々の辛苦を乗り越えて、名実ともに「世界最高の選手」として歴史に名を刻んだ。それでも優勝トロフィーを掲げ、歓喜する姿は少年のようだった。(福島民友新聞・2022/12/20)

 くり返しいうように、ぼくはサッカーには関心を示してきませんでした。今回のWCも同様で、現地の時間の関係で深夜早朝などに行われる試合を実況中継していたラジオを通して、つかの間その経過を耳にするだけでした。メッシやエムバペという選手についても何も知らなかったし、知ろうともしなかった。決勝戦が終了した段階で、少なくともこの二選手に関して、少しは知らなければと、いろいろと新聞や雑誌記事をあさりました。まだその途中ですが、一つの記事を見つけました。さいわいにも、二選手を並べて書いていました。一読、驚きを通り越して、大きな尊敬の念を抱くようになったという次第。(もちろん、この記事だけですべてを判断するのは短慮が過ぎると、自分でも思います。しかし、それがまったくの偽りだとも思われなかったので、それを紹介したくなったのです)(左写真は中日スポーツ・2022年12月19日 ) 

 彼らが大変な選手であることは言うまでもないことですが、それを裏付けるような活動にも熱心に取り組んでいることを、ほとんどの人は知っているがゆえに、この二人は「偉大な選手であり、同時に素晴らしい人間である」と評価するのかも知れません。平凡な人間からすれば、目をむくような、桁違いの年俸を得ています。だから「寄付」などをするのは当然だと、いいたくなるのも確かですね。でもすべての「大金持ち」が、彼らのような社会奉仕活動に尽力しているとは限らないし、していないから、いけないという理由にはならない。だからこそ、彼らの行動が素晴らしいと、ぼくには思えてくるのです。もちろん、サッカーに限らず、このような社会活動を展開している「高額所得者」は数えきれないくらいいます。「大金持ち」だからとか「高額所得者」だから、困難に遭遇している人々を救うべきだということは言えません。あくまでも当人の人間性に関わる、あるいは奉仕の精神の問題として捉える必要があるのでしょう。(右の映画「地の塩」は1954年のアメリカ映画です。本日のテーマとは結びつきませんが、どこかで、必ず観たい作品ですね)

 奉仕精神とは、お金の有無に無関係に、助けを必要としている人に手を差し伸べる心持ちのことでしょう。これもどこかで書きましたが、今も続いている山室軍平さんに始まる「社会鍋」にも関わっていた、一人のキリスト教徒が「地の塩」という冊子とともに、なけなしの金額を同封して、「もし必要なら、どうぞお使いください」と書いた箱を千葉県の市川駅(だったと思う)に設置していた。その人は貧困そのものといっていいほどの生活者でした。でも、もっと困っている人がいるからと、文字通りに「地の塩」になろうとしたのでした。ぼくの記憶では、その方は最後は「餓死」された。その後を継いだお嬢さんも、同じように力尽きて斃れられた。まだ大学生だったぼくには、強烈な心の景色となって、その後の生き方(およそ五十年が経過しています)に少なくない影響を与えられてきました。

 ● ちょうじゃ【長者】 の 万灯(まんとう)より=貧者(ひんじゃ)[=貧女(ひんじょ・ひんにょ)]の一灯(いっとう)=(「阿闍世王授決経」「賢愚経」から) たとえわずかでも、貧しい人の真心のこもった寄進は、金持の寄進よりもまさっていることをいう。物の多少より誠意が大切だというたとえ。長者の千灯より貧女の一灯。長者の万貫貧者の一文。※平仮名古活字三巻本宝物集(1179頃)「あるひん女、れうそく二銭もちたるを、あぶらにかへてあかしければ、のこりの火みなきえて、これのみ仏の御ために明なり〈略〉是を長者の万とうよりひん女が一とうとは申也」(精選版日本国語大辞典)

 メッシ選手に関しては福島民友新聞の「コラム」にある通りで、自分自身の辛い経験を、同じ思いをしている子どもに重ね、社会奉仕においても地道で広範な活動を展開していることを知りました。これだけの選手だから、それは当たり前ということもできますが、これだけの選手だからこそ、この活動が尊いということもできます。「世界的なサッカー選手になるまでに、言葉では表現できないほどの困難を乗り越えてきました。その努力と成果から得られたものを、支援が必要な子どもたちへと還元したい。なぜなら、子どもたちの笑顔に私は心を動かされ、彼らの瞳には希望があり、喜びに満ち溢れているからです。それこそが、サッカー選手としての原動力にもなっています」「サッカー界における歴史的な活躍だけでなく、世界各地で起きている危機に目を向け、人々を啓蒙する影響力と確かな実行力は、メッシを『歴代の史上最高選手』と称する確たる所以のひとつだろう」(VOGUE:BY MINA OBA・2022年12月19日)(https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/lionel-messi-charity

 一方のエムバペ選手。「2020年1月には自身の財団「Inspired by KM」を創設。家庭の経済状況や移民としてのルーツなど、さまざまな背景を持ちながらフランスで暮らす子どもたちが夢を追えるよう、成人になるまで支援することを目的としている」「子どもたちにはたくさんの夢があります。その夢を追うための手伝いをしたいのです。子どもたちは多くのポテンシャルを秘めているのに、経済的な理由などから、その機会が得られないことが多々あります。私が子どもだった頃、スターは遠い存在でした。でも、子どもたちにとって、私は遠い存在でありたくない。彼らの人生をより良いものに輝かせたいと真剣に考え、後押ししたいと思っている大人がいることを知ってほしい」「若きカリスマは、高級車やハイブランドにはまったく興味を示さず、夜遊びに行くようなこともあまりないと言われている。その一方で心血を注ぐのが、チャリティ活動だ。2018年には入院生活をおくる子どもや、障がいのある子をスポーツを通して支援する『Premiers de Cordee』に、同年に行われたW杯で得た収益のすべてを寄付したという。 その額は推定で約5700万円。そして、時には医療機関などを訪れ、子どもたちと直接接しながら一緒にスポーツを楽しむ時間もつくっている。『子どもたちの笑顔はプライスレスです』とエムバペは言う」(同上記事)(https://youtu.be/Z02BQIMVHB4

 【アルゼンチン-フランス】アルゼンチンに敗れて、優勝トロフィーの前を通り過ぎるフランスのキリアン・エムバペ=カタール・ルサイルのルサイル競技場で2022年12月18日、宮武祐希撮影(右写真)「サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会は18日(日本時間19日)、決勝があり、アルゼンチンが36年ぶり3回目の優勝を果たした。3―3からもつれ込んだPK戦を4―2で制し、フランスを降した。フランスは2018年ロシア大会に続く連覇を逃した。/ フランスのエムバペは試合後、口を真一文字に結び、ピッチに視線を落とした。/ 3―3からもつれ込んだPK戦に1人目のキッカーとして登場し、ゴールネットを揺らして役目を果たした。後続の選手が立て続けに失敗。手放しかけては何度も引き寄せた「連覇」を目前に、最後は力尽きた」(毎日新聞・2022/12/19)

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 本日の駄文にも、例によって「結論」はありません。サッカーという競技において、優れた運動能力を示すことができれば、それで十分。それだけでも大変なことです。何も欠けてはいないのです。もし付け加えることがあるなら、サッカー選手であると同時に、一人の人間であるということでしょうか。サッカー選手の前に、一人の人間ということもできます。何かをして優れた業績を残すことは大変なこと、だから多くの人はその成し遂げたことで自己評価し、称賛を送るのでしょう。「よくやった」と。でもさらに気がつくと、自分は一人の人間なんだということです。自分一人で生きているのではない。多くの人に支えられていると気がつくなら、時には「支える」側に回ることも大事だと。この二人の選手に関して言えば、おそらく歴史に残る「名選手」なのでしょう。それだけで、十分に称賛され、評価されるべきですね、それだけで。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)