明治は遠くも近くもあるということ

 高知県内で明治生まれが一人もいなくなったという記事を読んだ。最後の一人が昨年の十二月に死去。百十一歳だった。まさに「明治は遠くなりにけり」となった。中村草田男は明治三十四年生まれ、句作は三十一歳だったとか。彼の詠んだ時からは「遥かに、遥かに遠く」なった明治。防衛費問題の砂埃がまだ巻上がっている。明治生まれ世代が始めた「戦争」に駆り出された大正生まれの人々。まるで「捨て駒」だったという。圧倒的多数が戦争に斃れた。望むべくもない「未来の戦争」に駆り出されるのは、どの「時代」生まれだろうか。大多数の昭和生まれの国会議員が「戦争のできる国」へと突き進み、挙げ句に、その尻拭いをさせられるのは誰だろうか。歴史を学ばないとは、「規矩」のない泥濘(ぬかるみ)を暴走するのと同義だ。困った手合と言いたいな。(下グラフは高知新聞・2022/04/21))

 明治生まれ、尽きる。これは取り立てて言うほどのことではありません。こんなことが話題になるのも「元号」という島社会限定の時代の区切り方があるからでしょう。世代論とか、時代論というのも、根拠があるようで、実はそんなことはないのだということになるのかも知れません。むしろ、ぼくにとって興味があるのは「戦後世代(生まれ)」と戦中派などという分け方には、それなりの説得力があるようにも思われることです。福沢諭吉が一身にして二世を経るといったようなときにも同じような感慨が働いていたように思われます。幕藩体制が壊れ、一気呵成に「明治御一新」を経験した、身分制が崩れ、四民平等という建前が提示された、国会を開き「万機口公論に決すべし」と武ではなく文の時代の到来、まるで封建の世に生きてきた人間の中に、まったく異質な世情の諸々が入り込んだのですから。しかし、それもまた、感じ取り方は人それぞれだという気もするのです。明治の人間と大正の人間の違いは歴然としていると断言できないところに、一個人の人間性の深さや広がりの差というものがあるのでしょう。(高知県の本年十一月現在の人口は675,120 人で、前年度からは8,313人の減少となっています、このまま推移すると、何年後に人口は無くなり、高知は滅亡します。他は推して知るべし)

 明治生まれが存在しない・しなくなるという事実は、とくに意味のあることではありません。いずれ、昭和生まれも平成生まれも、さらには令和生まれも存在しない時代がやがて来ます。それを避けることはできないし、そのことに何かしらの意味が含まれているなどということはない。集まり参じて、人は変わる。これが世の習いですから、いい悪いを受け付けないのです。「明治は遠くなりにけり」という俳人の感慨は、その人独自のものであると同時に、明治という「時代」に重なる自らの生の証とでもいうべき刻印が残されていると感じるのでしょう。草田男さんほどの感受性がないぼくには、昭和も平成も、ましてや「令和」も感慨を催す時代ではないことは確かです。まるで暦の一日、一日と変わらない、時間の一単位としての「元号」であるということです。なければ使わないし、あっても、やむを得ない時以外は使わないことにしています。(元号以外は使えないような公文書もあるのですが、ぼくは二重線で消して、西暦を書き入れます。なんでそんなことまでするの、という自己疑心があるのはたしかですが)

 「元号」はもっと重みを持って使われるべきだという人々に見られる、「一世一元号」という作られた天皇制の外的規制に対する賛意は、ぼくの中からは強く湧いてきません。ここで、その理由を述べることは「天皇制」そのものの評価を下すことですから、この場はそれにふさわしいとは考えませんので、別の機会にでも。あえて言えば、もうそろそろ、「天皇制」は(廃止しても)いいでしょう、そういうことです。政治的制度の問題ですね。この「天皇制」と直接結びつくものではないにも関わらず、明治人気質と言われることがあります。でも、それは他の元号に比べて「明治」という元号が続いた時代相に重ね合わせて、この元号によってこそ生み出されてきた、一つの人間像を表現しているとも受け止められます。これも、しかし、なんとでも言えるような「人間像」だと言いたいですね。それに比べて、昭和人気質とか、大正人気質とはあまり聞かないのは、それなりの時代の天皇制との関わりがあるからでしょう。もちろん、その元号が続いた期間の時代性や歴史問題も大きな役割りを締めているのは言うまでもありません。

● 一世一元の制(いっせいいちげんのせい)=天皇一代に一つだけ年号を定めること。元号(年号)制はもともと、皇帝が時間と空間を支配するという古代中国の政治観念に基づいたものであるが、吉凶による改元を廃して改元を皇帝の即位改元に限る一世一元の制は、皇帝権の強化された明(みん)・清(しん)朝においてみられたものである。日本では1868年(明治1)明治維新に際し岩倉具視(ともみ)の主張に基づき、行政官布告第1号によって一世一元の制が導入されたが、元号はこのときから天皇の統治年を示すものとなった。一世一元の制をとることは皇室典範や登極令(とうきょくれい)においても法的に確認されたが、1947年(昭和22)日本国憲法制定に伴う皇室典範などの改廃により、国民主権の理念にふさわしくないものとして明文法上の根拠を喪失した。しかし1979年に元号法が成立し、明文法上も一世一元の制は復活している。(ニッポニカ)

● 元号法【げんごうほう】=明治憲法下の一世一元の制は第2次大戦後その法的根拠を失ったと解釈されてきたが,昭和天皇存命中に法制化したいとの考えから制定された法律(1979年)。1.元号は,政令で定める,2.元号は,皇位の継承があった場合に限り改める,の2点が定められている。(マイペディア)

 ある人にとって、「明治は遠くなりにけり」だったかもしれないが、別の人には「明治は遠くにはいかなかった」ということだったでしょう。しばしば「逆コース」ということが言われてきました。有り体に言うなら「先祖帰り」です。その「先祖」にも人それぞれの好みがあり、まさか縄文の世に戻りたいという人はいないでしょう(ぼくなどは、もっと先の時代に帰りたいですね。石器時代とか)が、明治の世になんとしても戻したいという人もいるでしょう。それは人の好き好きですし、これを政治の問題として、明治節復活などと、真面目に言われると、ぼくは赤面してしまう。もっというなら「天皇親政」(「天子がみずから政治を行うこと。また、その政治」)(デジタル大辞泉)を寿ぐ人がいないとも限りません。つまりは、権力によって選択の余地を奪うような事柄は、可能な限りないほうがいいと考えるぼくには、この「天皇制」を作り出す人々の、党派的恣意によること(政治的行為)を認めたくないのです。

 明治は遠くなりにけり、それは高知県だけの「自然現象」ではない。生まれて死ぬという人間の「一生」をどのような視点で捉えるかによって、いろいろなものの存在が見えてくるということでしょうね。繰り返しますが、それは殊更に意味のあることではないのであって、「明治」という元号に肩入れすればほど、ある種の感慨が郷愁となり、できるなら、「明治よ、もう一度」となるのではないか、ぼくはゴメンですが。時間も歴史も、淡々と刻まれていってほしいのだ。

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 余談です 拙宅に「子猫」を見たいという、奇特な方が都内からやってこられた。当方としては「渡りに船」でした。しかし生後四ヶ月過ぎ、加えて、この猫たちは大食漢(猫)で、標準よりもかなりヘビーです、ベビーなのにヘビーなんですね。まるで半歳(六ヶ月)も過ぎているような育ちぶり。それになかなか人見知りして、影に隠れてしまう。大人になった証拠かも。うまく行くならば、二つほども育ててもらえればと考えていましたが、またの機会ということでした。一種の「内覧会」のようなもので、興味が続けば、再度来ていただければ、当方は大歓迎しますと、先程最寄りのJR駅までお送りしたところでした。(午後四時半ころ)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)