
【斜面】国防色の近未来 緑がかった茶褐色を旧陸軍は「国防色」と定め、軍服に用いた。日中戦争のさなかの1940(昭和15)年には政府が勅令によって「国民服令」を制定。この色を使った詰め襟や折り襟の上衣やズボンなど「国民服」の普及を推進した◆日常着を統制し、国民の心を戦争に総動員する体制づくりである。当初は普及しなかったが、政府の指示や宣伝によって着用する人が増えた。敗戦間際の社会は国防色に染まっていたのだろう。出征する家族の服の国防色が忘れられない人も多いはずだ◆軍事が最優先されれば他の政策は二の次になり、従属せざるをえない。やがて予算や政策や国柄も国防色に塗り変わっていく。その道に踏み込んだのではないか。防衛費の大幅増に続く安保3文書の改定だ。他国領土を攻撃できる武器を持てば、戦争をかえって招き寄せかねない◆フランスの寓話(ぐうわ)「茶色の朝」は、心理学者フランク・パブロフ氏が極右勢力が台頭し始めた1998年、世に出した。茶はナチス初期の制服の色だ。舞台は政府が茶色以外の犬や猫を飼うことを禁じたファシズムの国。次第に新聞や本も茶色一色になる◆主人公は違和感を覚えつつ面倒に巻き込まれないよう流れに身を任せる。ある朝、家のドアを激しくたたく音が…。懸念を感じた時に声を上げなければ手遅れになるとの警鐘を発している。日本はファシズム国と違うと安穏に構えていられるのか。「国防色の朝」はいつだって戻ってくる。

■あとがき帳■ 集団的自衛権の行使を認める安保法制の際には、学生、学者、市民ら多様な人々が反対の声を上げ行動を起こしました。今回はあの時ほど市民運動が盛り上がりをみせていません。敵基地攻撃能力を持てば、米国の「矛」の一翼を担わされ、集団的自衛権を行使して戦争当事国になるリスクがあるにもかかわらず。ウクライナ戦争を機に周辺国の「脅威」を強調する政治家自身が浮足立っているように思います。彼らの手に委ねているだけでは、際限のない軍拡競争に突き進んでしまいます。私たちも不安にあおられるまま軍拡を追認すれば、後悔する日が来るような気がしてなりません。一度立ち止まって考えるべきです。政治家も、私たちも。「茶色の朝」(フランク・パブロフ著、大月書店刊)はそんな気付きを与えてくれる本です。戦時中の国民服については井上雅人著「洋服と日本人」などが参考になりました。(論説主幹 丸山貢一)(信濃毎日新聞デジタル・2022/12/17)
● 国民服【こくみんふく】=日中戦争中の1940年から敗戦時まで,日本の男性の日常着・礼服として着用された服。政府の提唱した〈国民精神総動員〉の一環として1940年11月1日の勅令で制定された。色は国防色(カーキ),衿の形の違い,ポケットやベルトの有無などで甲号と乙号があり,いずれもチョッキ,ネクタイ,ワイシャツがなく,上衣,中衣,袴(ズボン),外套,帽子,靴で構成される。女性には1942年〈婦人標準服〉が定められた。洋服型の甲号と和服型の乙号のそれぞれに一部式・二部式があり,上衣にスラックスまたはもんぺの下衣という活動衣もあった。国民服・標準服とも材料難からあらゆる層に浸透するには至らなかったが,戦後に女性の洋装化が進むきっかけとなった。(マイペディア)


少年時、しばしば「国防色」とか「カーキー色+」などという言葉を耳にしました。もちろん、それがどういうものかはよく知っていました。戦後しばらくは、その色の生地で作られた「国民服」として着用していた人もいた。カーキー色とは黄褐色を言うそうです。由来は、砂漠地帯での「保護色」になるからとか。今日では「迷彩色(服)」ということも多く、まるでカメレオンの生態に似せているようでもあります。しかし、やがては軍人(兵隊)もいらない時代が来る(あるいは、すでに来ているともいえます)。ミサイルにしろ、敵を攻撃する場面はなくなりませんが、わざわざ戦場に出かける必要もなく、AIですべて管理し、目標を外さないで射当てる時代が来ています。ドローンがいかなる目的で開発されてきたか、今となれば明らかでしょう。核弾頭を積んで、目標物に一直線です。(+カーキー色=《カーキはkhaki (土ぼこりの意で、もとウルドゥー語)から》黄色に茶色の混じったくすんだ色。軍服などに用いられる。枯れ草色》(右上の色)(デジタル大辞泉)
二十世紀初頭に生まれた人は、今では存命していないでしょう。つまりは戦争(戦場)体験をした人は、もうほとんど尽きてしまいました。もちろん、幼児に原爆や(各都市の)空襲を経験した人は顕在ですが、まもなくいなくなる運命にあります。言いたいことは唯一つ、「戦場経験」もなければ、「被災経験」すらない国会議員が、それぞれの思惑(呉越同舟)で「軍備増強」を強引に決めました。内容は「増強にかかる費用の確定」のみという、実に驚くべき破天荒な決定でした。「軍事が最優先されれば他の政策は二の次になり、従属せざるをえない。やがて予算や政策や国柄も国防色に塗り変わっていく。その道に踏み込んだのではないか。防衛費の大幅増に続く安保3文書の改定だ。他国領土を攻撃できる武器を持てば、戦争をかえって招き寄せかねない」というコラム氏の指摘は肯綮に当たるものです。誰に、どこに向けて「攻撃」をするつもりでしょうか。
しかし、この国が「戦争主導」をしたいとか、しているとかいうのではなく、むしろ「集団的自衛権」という無理筋の「戦争参加」によって、今回の一連の国防関係の宿題を決めたのでした。それはまた、とっくの昔に敷かれた既定路線であることは周知の事実です。政府与党が「防衛費倍増」の概要を決め、あわせて「安保関連3文書」改定を決めた、その「報告」を日本側から受けて、どういうわけだか、米国の政府・軍関係者から、「よくやった」「歓迎する」などという「お褒めのことば」がだされているのです。どういうことでしょうか。日本が独自に「国防費を倍増」したのを「同盟国」が喜ぶのとはわけが違って、「よくぞ、当方の指示を受け入れた」という塩梅です。以下はその報道。建前上ではあっても「専守防衛」を国防の中核としてきたのに、今回の3文書改定では、一歩も二歩も前に進んだことになります。「専守防衛」の思想から「攻撃能力」をどうすれば引き出せるのか。あるいは言葉の綾と取られかねませんが、やられる前にやってしまえ、そんな姿勢がありありと見えています。

「日本政府が防衛力の抜本的な強化に向け、安全保障関連の3つの文書を閣議決定したことについて、アメリカのバイデン政権は歓迎する意向を表明し、軍事力を増強する中国などを念頭に、日米の連携を強化しながら抑止力を高めたい考えです。/ アメリカ・ホワイトハウスで安全保障政策を担当するサリバン大統領補佐官は、日本政府の決定について「日本は自由で開かれたインド太平洋を守るため、歴史的な一歩を踏み出した」と歓迎する声明を発表しました。/ また、オースティン国防長官は声明で、日本が敵のミサイル発射基地などをたたく「反撃能力」を保有することを支持するとした上で「両国の国防戦略の目標を支援するため、日本と協力することに全力を尽くす」と強調しました。/ 日米の安全保障問題に詳しいアメリカのランド研究所のジェフリー・ホーナン上級政治研究員は「アメリカは20年前に持っていたような支配力や優位性を失っており、日本が地域に積極的に関与し能力の高い防衛力を持つことは 大きな助けとなる。アメリカの資源を特定の役割や任務に使えるようになる」と述べ、日本の防衛力の強化はアメリカにとっても利益が大きいという認識を示しました。/ バイデン政権は、急速に軍事力を増強する中国などを念頭に日米の連携を強化しながら抑止力を高めたい考えです。(NHK・2022年12月17日)
鬼畜米英と拳を上げて対峙した米国に、如何ともしがたく「無条件降伏」を強いられた、それは結果的には受け入れるべきだったことは間違いない。しかし、その後のこの国の外交戦略は「あってなきが如し」でした。とにかくアメリカ一辺倒、アメリカがクシャミをすれば日本は風邪をひくといわれたのは、まだしものこと、何が何でもくっついていくという「アメリカ追随・追従」でした。アメリカの影、そうでもいいたいような足取りでした。この方針は過去二十年、頓(とみ)に強化されてきま。誰かと仲良くなるのはいいことですが、必要以上に親密の度を深めると、周りから切り離されることにもなりかねません。まして一国の場合、ある国が覇権を狙う国家であるなら、尚更、その国と敵対関係にある国とは友好的ではなくなるのは避けられません。「坊主憎けりゃ、袈裟まで悪い」ということは、いつの世にも、どこにでもある感情ですね。「虎の威をかる狐か、狸か」(率直にいうなら、大枚が動くのだから、いわば「公共事業」です。この島社会で、公共事業は政治家にとっては、道に落ちている「宝物」ですな。宝物が手に入るなら、理由はなんだって付けられるというわけ)
個人の場合とは異なり、国際関係では単純明快な交際術は存在しないかもしれない。しかし、一定の姿勢(距離)を保ちつつ、平和に徹する思想をなくさなければ、殆どの国とはうまくやれるのではないでしょうか。明治の初頭、「脱亜入欧」などという、現実には存在し得ないような「お題目」を大声で唱えていました。ある時期までは欧米の尻馬に乗って「大国」意識を強めて来たのは歴史の示すところ、その結果もまた、ぼくたちの忘れ得ない大きな誤ちとして刻印されてきたのです。にもかかわらず、またぞろ、「アジアの盟主」といいたいのか、それとも、究極の「脱亜入米(欧)」ともいえるだろう、アメリカと共同歩調(腰巾着)を取りたいのか、いずれにしても「善隣友好」とは逆の方針と方向を取ろうとしているのは一層明らかになりました。ぼくのような素人でさえも、いかにも拙い手法だといいたくなるのです。しかも、そんな大事なことを勝手に、「身内」だけで決めていいはずもないでしょう。いずれ、この島国は足蹴(除け者)(爪弾き)にされる時が必ず来ます。
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