でこぼこ道や 曲がりくねった道

 【日報抄】車の販売店や電器店からカレンダーが届く。筒のように丸められ、ビニールに包まれて出番を待つ。その姿は師走ならではの一こまである▼〈カレンダーの巻き癖強し応接間の隅に重ねて広辞苑載す〉。ある短歌雑誌に昨年投稿された1首だ。ビニールから取り出したばかりのカレンダーは、すぐにまた丸まってしまう。真っすぐにして壁にかけたいという、きちょうめんな人が作ったのだろうと感心した▼それとともに、分厚い辞書にこんな使い道があったのかと驚いた。手元の広辞苑第七版をはかりに載せたら、2・4キロだった。これならば重しの役目を十分に果たせそうだ▼紙の辞書は便利か不便かと問われれば、不便かもしれない。周囲を見回すと、パソコンで検索している人が多いようだ。しかし、である。目的の単語に行き着くため3千を超えるページを1枚ずつ、はがすようにめくる。すると、見知らぬ単語に出合うことがある。その楽しみは何物にも代えがたい▼京都大学の川上浩司教授は「不便であるからこそ得られる益」を「不便益」と呼び、事例を集めている。川上さんによると、紙の辞書は不便だが「うれしいこと」がある。「目的の単語のページが一発で開いたら、なぜかうれしい」というのだ▼いつでも、どこでも新型ウイルス感染の心配をしなければならない。食品やガソリンの値上げは財布に響いている。何かと不便な暮らしは、年をまたいで続きそうだ。せめて何げない日常の中に小さな益を見いだしたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/12/13)

 便利とか不便の「便」という漢字はなかなかに手強い。およそ結びつけることが困難なものにも使われるし、その意味するところは、実に多彩多用だからです。例えば、音読みでは「べん・びん・へん」があり、訓読みでは「たより・いばり・よすが・へつら(う)・すなわ(ち)」など。その意となると「音信・排泄物・都合よい・よすが(よりどころ)・慣れる・へつらう・すなわち」などなど。音信と排泄物は、便り(通じ)がある、つまりは「便通」といい「通信」ということで、まるで兄弟のよう。便利とよすが(よりどころ)も近いでしょう。こんな遊びをしていると、なかなか終わりそうにありません。

 本日の「日報抄」です。宣伝も兼ねた恒例の贈り物である「カレンダー(暦)」を枕に使い、さてどんな展開になるかと読んでいくと、あまり滑らかではない展開になりました。丸まったカレンダーを伸ばすには「広辞苑」だという。今日、辞書も紙派とパソコン派が併存しているが、この紙の広辞苑の使い勝手は「不便」だけど、カレンダーを伸ばすには「便利」だという。なあんだ、といいたくなる始末です。

 さらに続けて、「紙の辞書は不便だが『うれしいこと』がある。『目的の単語のページが一発で開いたら、なぜかうれしい』というのだ」という大学教授の感想を引いています。再び、なあんだ、といいたくなる。

 「便利は不便だ」と、どうして言わないのでしょうか。その逆に「不便は便利だ」とも。ぼくの勝手な理解です。ある人にとって「便利」であっても、別の人には「不便」であることはいくらもある。あるいは、始めは「便利」だと思って喜んでいたが、やがて「不便」に絶えられなくなる、そんな経験は誰もがしているのではないですか。「ステマ商品」を買って喜んだのもつかの間、すぐに不便で不要になるものが家の中に転がっているということもある。

 コロナ禍や物価高で生活は「便利」ではなく、むしろ「生きにくい」という点では大いに「不便」です。生活するのに「不便」な時代や社会は、どうすれば「便利」に変換できるのかというところが、この「コラム」の「ミソ(味噌)」だったのに、「何かと不便な暮らしは、年をまたいで続きそうだ。せめて何げない日常の中に小さな益を見いだしたい」と、いかにも馴れた書き手が陥りがちの結びです。偉そうなことを言って申し訳ないと頭を下げながら、ぼくなら「どう書くか」を考えるのが、この手の文章を読む喜びというか、効用というか。いやでも、書き手の、いろいろな「寸法」がよく分かるように思われるのです。

 「便」は「へつらう」と読ませます。「諂う/諛う」という字を当てるのが普通です。先ず目にすることがなくなった熟語に「阿諛便佞(あゆべんねい)」というのがあります。相手に媚びを売り諂って、まったく誠意が欠けていること(人)を指します。「佞」はへつらい、取り入るが、誠実さがない人をいう。ぼくの周りにもたくさんいましたね。いまだって、肩で風切るような「先生たち」は「便佞」がほとんどだと言っていいでしょうね。

 「不便益」という言葉は、誰かの発明ではないでしょう。人知れず使われてきた言葉ではないか。それとまったく同じ用法は「不利益」です。「不利」が「益」だというのです。「不便」という「益」、同じですね。不利益は、一方的に否定されるべき状態かといえば、どうもそうではないらしい。「利益にならないこと。損になること。また、そのさま」(デジタル大辞泉)とありますが、「損」とはなにか、そういう問題です。「損して得取れ」というではないですか。

 「初めは損をしても、それをもとに大きな利益を得るようにせよ」と辞書(同上)はいう。たしかにそういうことでしょう。でも、さらにいいたいのは「損」は、そのままで「儲け」」になる、と。ぼくの好きなことわざに「骨折り損のくたびれ儲け」があります。せっかく努力して頑張ったのに、うまくいかなかったと、多くはがっかりするんでしょうが、ぼくは「骨を折るという損をした」が、「くたびれが儲かった」ではないか、と受け止めてきた。経験はきっと身になるのだということかも知れません。金勘定の「損得」ばかりでは、人生が薄っぺらで、美しくないのではないですか。徒労というのも「無駄骨」「無駄足」というばかりで、そこからは損をしたということしか得られないのは、なぜでしょうか。「楽あれば苦あり」ともいう。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」ともいう。

 なんか変な駄文の進み具合になりました。「便利」ばかりもなければ「利益」ばかりもないということ、それが人生というか、世の中なんでしょう。禍福(かふく)もまた同じ。いつまでも禍は続かないし、幸福だけが続くこともない。そうであったらどんなにいいことかと、ぼくたちは願うのですが、そうは問屋がおろしませんよ。でも、風雨や嵐ばかりでもないのも知っています。「待てば海路の日和あり」、それもまた人生、ああ川の流れのように、です。 

 

*美空ひばり「川の流れのように」:https://www.youtube.com/watch?v=Pb-N5VPy-40&ab_channel=jfiy123451

歌:美空ひばり  作詞:秋元康  作曲:見岳章 (1989年)

知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生 ああ川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ああ川の流れのように とめどなく
空が黄昏に 染まるだけ(
以下略)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)