まず困窮者を救う、政治はここからだ

「いくら施策は良くても」…暴言癖が絶った政治生命 在職12年、議会との確執に怒りにじませ 明石・泉市長  市議への暴言に対する責任を取る形で、兵庫県の泉房穂明石市長が12日、来年4月の任期満了での退任と政治家引退を表明した。会見では引退の理由に質問が集中し、度重なる議会とのあつれきを挙げた。一方で「全国に心ある政治家、首長を育てたい」と、引退後への意欲も見せた。/ 暴言問題で辞職した3年半前の再来を思わせた。市内の小学校の式典で8日、自らに対する問責決議案を巡り、自民、公明会派の市議2人に「選挙で落としてやる」などとすごんだ。会見で泉市長は「深い意味はなく『ええかげんにせえ』というぐらいだった」と釈明した。引退表明については「(暴言を)もうしませんと言っても信用されない。自分も自信がない」と説明した。/ 2011年の初当選以来、子育て支援策などを充実させてファミリー層の支持を獲得した。9年連続の人口増で明石の知名度を全国的に高めたが、議会、職員との確執は絶えなかった。/ 昨夏には、新型コロナウイルス禍の緊急支援策と位置付けた全市民への5千円利用券配布が議会で継続審査となったのに対し、専決処分で決定した。以後、議会との対立が顕著になっていった。泉市長は「初当選から12年間、(確執の構図が)何も変わらず感情的対立が政策に飛び火した」と怒りをにじませた。(後略)(神戸新聞NEXT・2022/12/06)

 つい昨日、ぼくはネットで泉市長のインタビュー番組を見ました。腐るほどいる全国の地方自治体の首長の中でも、もっとも果敢に行政に挑戦し、具体的な成果や目標を達成してきた人でしょう。果敢で果断とくれば、現状維持派から「総スカン」を食うのは火を見るより明らかです。彼の「暴言」がこれまでに何度も批判され、あるいは非難されてきました。そのどれ一つをとっても「泉さんだから、仕方ない」と言われて、見逃されていいものではない。あるときは、「道路拡張」のための土地買収問題が進展しないことに業を煮やし、担当職員に「何してんねん。地権者の家に火付けて、話を進めんかい」といった発言が録音され、それが拡散して大問題、彼は辞任し、選挙で復活当選した。二度と「こんな暴言はしません」と市民に約束したにもかかわらず、今回の「議員への暴言(次の選挙で落としたる)」で、みずから市長職を辞任すると宣言したのでした。(「泉房穂 明石市長に訊け!!」【山岡淳一郎のニッポンの崖っぷち】:デモクラシータイムス)(lhttps://www.youtube.com/watch?v=-Sj6d4FB0qQ&ab_channel)(左下画像)

 市長十ニ年間の任期中に、彼が実施した行政の内容には、他の自治体に見られない輝きがあります。この点は、彼に反対するものでも認めざるをえないでしょう。「毀誉褒貶(きよほうへん)」という言葉があります。泉さんに当てはめるのは穏当ではないかも知れません。「毀誉(きよ)」は「けなすこととほめること。悪口と称賛」、「褒貶(ほうへん)」は「[名](スル)ほめることとけなすこと。事のよしあしを言うこと。「毀誉 (きよ) ―」(デジタル大辞泉)圧倒的な支持者を得る反面で、脅迫そのものの暴力を受けたり、議会ではいつでも多くの会派・議員から市長に対して大いなる異議が出されていました。絶大な賛成を得る一方で、強い反対を隠さない人々がいたことも事実ですが、これは泉さんに限ったことだったでしょうか。

 詳細は省きますが、公共事業費を削って、福祉や医療に回すと、削られた者は、時には恨みを育てることもあるでしょう。つまり、明石市(に限りません)における、弱者と強者を考えると、泉さんは、行政の怠慢によっても、「弱者」であることを余儀なくされている人々に焦点を当て、そのための施策に必要な税金を投入する、前例通りに、毎年機械的に積み上げているいくつもの事業の中で優先順位を付け、不要不急のものは削減するという、当たり前の姿勢を展開しただけだともいえます。しかし、ほとんどの自治体では、旧慣墨守を旨とし、その結果、市長の地位を保持する、そんな行政が百年一日のように続いていたし、いまもそうです。泉さんは「前例主義は廃する」「トップが決断する」、この二点で明石市を元気の出る自治体にし、人口増を実現してきたのです。出る杭は打たれるというのも、出なければ仕事にならないのが政治・行政だという自覚、現実認識の欠如こそが、この社会を途方もない闇の底に落とし込みつつあるのでしょう。

明石生まれ、明石育ち
弁護士・社会福祉士・手話検定2級・柔道三段
元衆議院議員・東京大学教育学部卒
2011年より明石市長 (いずみふさほ オフィシャルサイト)(https://izumi-fusaho.com/profile.html

 泉さんの「提灯持ち」ではないつもりです。国であれ、地方であれ、政治や行政がどういうものか、どういうものであってほしいかを、彼はまっすぐに貫こうとして奮闘してきた、その姿勢をぼくは尊いと、敬意を表したくなったのです。文字通りに「毀誉褒貶、相半ばする」存在かもしれないし、強者に向かった、弱者の代弁者だったということかもしれない。旧慣を頑なに守ることが政治であると確信(誤認)している数多の政治家の中に、泉さんの型破りの「弱者の側に立つ姿勢」は著しく光るのは、それだけ、現実の「政治」や「行政」に目を覆いたくなるほどの貧困が蔓延しているからでしょう。

 どんな人間にも「二面性」があります。そのどちらを重く観るかで、その人の評価は大きく異なるでしょう。赫々たるといってもいいような、市長の仕事ぶりを見て、ぼくは遠くから一端の感想を述べたに過ぎません。「政治は結果責任」と言われていますが、それはどういう意味なのか、ぼくにはよくわからないことです。なしたことについて責任を問われるのは、なにも政治・政治家に限らないからです。限られた「歳費(収入)」の中で、もっとも必要とされている仕事(課題)は何か、それを見つけ、その課題解決に努める、それhが当たり前の政治であり、それができていれば、住民は余計な苦しみをしないで住むのです。逆に言えば、余計な苦しみを住民(国民)にさせるためにこそ、政治や行政が執行されているとしか思えないことばかりですね。「(出る杭ではなく)出ない杭」を打ちたいねえ。

___________________________

投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)