「NIMBY」はいつでも起こる

【談話室】▼▽春に生命の息吹を感じさせ、盛夏に緑陰の癒やしを与えてくれた木々もすっかり葉を落とした。天気予報によれば、県内は週明けから雪の季節に入りそう。晩秋から今頃にかけてはどうしても寂寥(せきりょう)感に駆られてしまう。▼▽先月下旬、西川町に住む92歳の女性の投稿が本紙「やましんサロン」に載った。概要はこうだ。久しぶりに訪れた近くの公園。枯れ葉を踏み歩き、椅子に座って辺りを眺めると孫を連れて来て地域の皆と一緒に遊んだ昔が思い浮かぶ。だが、目の前の公園は何とも寂しいと。▼▽彼女は地元の小学校が他に統合されたことにも触れ「グラウンドも公園も人の姿が見られない、本当に寂しい時代となりました」と書いていた。長野市で現在、子どもの声がうるさいとの近隣住民1世帯の苦情をきっかけに公園の廃止を決めた市の判断が物議を醸している。▼▽市は対策を重ねてきたが、それでも受忍できないほどの騒音ということなのか。廃止反対の意見が全国から寄せられている一方、苦情元の住民への誹謗(ひぼう)中傷が懸念される事態に。国を挙げた子育て支援が求められる中、誰も笑顔になれない結末を想像すると物悲しさが増す。(山形新聞・2022/12/11)

 一人の意見を大事にしすぎる ~ 近年にない「朗報」というべきでしょうか。あるいは「凶報」というべきなのか。長野県内のある地域で、自宅そばの公園で遊ぶ子どもの声がうるさいという「一住民(国立大学名誉教授)」の苦情で、長野市は「公園廃止」を決定したという。公園は多くの住民の希望に沿ったもので、2004年に開設された。「地域住民のエゴ」という受け止め方が大勢を占めていますが、行政も譲っていない。ごく一部とはいえ、住民の犠牲を慮(おもんぱか)る必要があったという。永野市長は冬季五輪の金メダリストだった元アスリート。長年の「ご迷惑」を、これ以上は放置できないというのでしょう。果たして、地域のそれぞれの方は、どちらに「軍配」を上げるのでしょうか。投票をしてみたらどうでしょう。

 さまざまな「公共施設」に対して、いろいろな意見や批判があります。「ごみ焼却場」「葬儀場」「し尿処理場」その他の施設に対して、その一つ一つは住民の生活には不可欠のものです。たしかに大事なものですが、よりによって「自分の家のそば」には来てほしくない。これを「住民エゴ」というか、「正当な権利の主張」というか。

 今はどうか知りませんが、英米諸国では、ある時期から「NIMBY(ニンビイ)施設」といって、大いに物議を醸したことがありました。もちろん、今でも続いています、この劣島でも。ぼくがこの長野市の公園問題で注目したのは、「青木島遊園地」という公園そのものが「NINBY案件」となったということでした。

● ニンビー   【英】Not In My Back-Yard  [略]NIMBY  解説 公共のために必要な事業であることは理解しているが、自分の居住地域内で行なわれることは反対という住民の姿勢を揶揄していわれる概念。/ 正確には、NIMBY症候群。「(必要なのはわかるけど)自分の裏庭(=In My Back-Yard)ではやらないで(=Not)」という意味の英語からきている。/ いわゆる迷惑施設の建設等に際していわれることが多く、具体的には、ごみ焼却場、し尿処理施設、産業廃棄物処理施設、リサイクル施設、埋立処分場、精神病院、葬儀・火葬場などがあげられる。これらの施設が嫌われる背景には、環境負荷の発生や地価下落のおそれや、感情的な嫌悪や不安などがある。/ 一見、住民エゴ、地域エゴにも見えるが、施設の受益者と被害者との乖離という問題が存在している。例えば、ごみ焼却場は、施設建設計画の持ち上がった地域住民のごみを処理するためであるよりも、都市で発生する大量のごみを処理することが目的となる。これは、公共性を問い直すものであり、問題解決には、施設そのものの安全性や環境保全対策に万全を期すると同時に、施設が快適な環境の維持・増進に役立ち、熱供給や福祉施設の提供など地元の地域社会への便益還元など、実施計画者や受益者と近隣住民とのコミュニケーションを図り、理解を得ることが必要となる。(一般財団法人環境イノベーション情報機構)(https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2070)

 「一人ひとりの意見を聞く」という民主主義の建前から言えば、長野市当局は「一人の意見を」聞いたのですから、民主主義のお手本のような話、といえないところが、なかなか難しいですね。今住んでいる拙宅の地目は「宅地と山林」となっています。もともとは山林だった一部を地目変更して宅地に変えた。だからその周囲はほとんどが「山林」です。このような地域に「産業廃棄物処理場」や「解体屋(自動車置き場)(名目上は)」などの、都会地にはまったくふさわしくない施設が多く見られます。行政には、山林よりも「固定資産税」収入が見込まれるなら、少々の目的外使用も見ぬふりをするという風潮はあるでしょう。家の隣に「ゴミ処理場」ができるとして、「君はどうする?」と問われたら、「構わないよ。即移転するから」と言って済む話でしょうか。

 苦情を寄せた住民をネット上で中傷する動き 長野市の公園廃止巡り 市議会でも懸念の声  長野市の青木島遊園地の廃止方針を巡って、インターネット上で、市に苦情を寄せた住民を特定し、誹謗(ひぼう)中傷する動きが見られる。遊園地周辺の様子を動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿する目的で撮影に訪れる人もいる。8日の市議会一般質問でも、こうした動きを懸念する声があった。/ 誹謗中傷はネット上の掲示板サイトで目立ち、「迷惑クレーマー」「心の狭い、悲しい人」「民衆の敵」といった書き込みが見られる。住民の経歴などを調べ上げようとするサイトもある。/ の一般質問では「さまざまな関心が集まっている。周辺住民の生活への悪影響はないか」と市議の質問があった。地域・市民生活部の宮岡靖部長は「地区外の人が遊園地周辺に興味本位で入ってくることで、普段通りの生活が送れなくなることへの不安を訴える意見が寄せられている」と答弁。「必要に応じ関係機関と連携して対応する」と述べた。(信毎新聞・2022/12/09)

 おそらく、今日でも「原発」はもっとも大きな「ニンビー施設」ではないでしょうか。あまりにも大きすぎるのは、施設だけではなく、一旦事故が発生したら、それがもたらす被害も想像を超えるものがあります。だから「原発立地」地域には莫大な保証料が、いろいろな名目で落とされてきたのです。なんだかんだと文句は言うけれど、「結局は、金じゃないか」と、誰がいうのでしょうか。とするなら、長野市は「騒音迷惑料」を払わなかったのですね。児童公園が、あるいは「サーキット場」や「射撃場」並になっているのかも知れません。この両施設とも、近所(茂原市と市原市)に存在しています。なかなかの騒音ですよ。気にすれば、文句も言いたくなる。でも年中無休のコンビニではないのですから、ぼくはそのように考えているし、騒音がひどくて心臓が止まりそうだとは思わないのです。(左は日本經濟新聞・2019年4月8日)人によれば、コンビニだってニンビーでしょうが。そんな「自己中心君たち」が寄り集まって社会・集団を作っているのですよ。

 今ではあらゆる施設・建物が「迷惑施設」になっている感があります。行政の「腕のふるいどころ」だと思うのですが、大きい声の方や固定資産税の額によって「右顧左眄」していないかと、ぼくはいぶかるのです。

 子どもの声に苦情、公園廃止へ 長野市、市長「苦しい決断」 利用する子どもの声がうるさいと近隣住民1世帯の苦情をきっかけに、長野市が公園を来年3月に廃止すると決め、長野市議会で9日、この判断を巡る論戦が繰り広げられた。存続を訴える市議は「1世帯の機嫌取りを優先させた」と批判。荻原健司市長は「非常に苦しい判断だが、手続きを進める」と説明し、理解を求めた。  廃止が決まったのは、青木島遊園地。近隣には小学校や保育所などがあり、市が民有地を借り上げて04年4月に開設した。  苦情元の住民は、共同通信の取材に「普通に遊ぶ分には文句はない。大勢が家の前で一斉に遊ぶ状況は経験しないと分からない。その点は理解してほしい」と話した。(共同通信・2022/12/09)

 同じ一つの騒音を「うるさい」と聞く人と、「仕方がない」と受け入れる人がいます。どちらが正しいという問題ではないでしょうが、それを決めるには多くのな視点が必要だということです。この長野市の「公園」に関して、ぼくはじゅうぶんな判断材料を持っていないので、こうであると、断言することはできません。「君が公園のそばに住んでいたら」という仮定の話なら、いいですよ!となるでしょう。でも、それでどうなるものでもない。どこまで行っても「不満」「不平」がのこるもので、それを、それぞれの立場の人間がどのように受けとめるかという問題でもあるでしょう。エゴだけでもなければ、子どもたちのため(公共)という理由だけを取り上げることもできない。これは、本当に「ニンビー」だったのか。

 少し問題が広がりすぎますが、「飛行場」のために追い出された三里塚農民の戦いの軌跡を考えれば、「公共施設」どいうゴリ押しも、ぼくには無条件では受け入れられないのです。(ぼくは、いまだに成田空港から飛行機に乗ったことはない、個人の「義理」「義憤」みたいなものですね)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)