
<あのころ>こども郵便局にぎわう 貯金の大切さ学ぶ 1955(昭和30)年12月8日、「こども郵便局」に殺到する大阪・柏里小学校の児童。小中学生自らで集金の役割を決め、お金を地元郵便局に預けるシステムは、貯金の大切さを教えるために戦後の48年から運営され、2007年まで続いた。250万人以上が加入し、残高250億円に達した時代もあった。(共同通信・2022/12/08)
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この「こども郵便局」の授業風景は、なぜだかよく覚えています。写真の昭和三十年、ぼくは十一歳でしたから、この風景の中の登場人物として、たしかに授業を経験した。よく見ると、左の写真にぼくが写っているかもしれない、そんなことはありえないのですが、京都の嵯峨小学校では、もっと大掛かりに「こども郵便局」は開局された。学校全体で、この授業を展開したように、おぼろげながら記憶しています。戦前と戦後では「教科目」に大きな変動があり、中でも「社会」科は大きく変えられました。中学校や高校では「地理」「歴史」「公民」などが解体された。この教科において、戦時中の「国威発揚」「軍国主義」に大きな役割りを果たしたとされたから、GHQの占領政策の導入で、社会科は停止されたのです。
その後に、新たに登場してきたのが「社会科(social studies)」でした。アメリカの一州で行われていた「教科」がその手本だと言われました。

●社会科(しゃかいか)(social studies)=社会の制度,社会的諸機能,環境,生活などについて学習する教科。 20世紀に入り,アメリカでは,生活経験重視の見地から社会の総合的認識へ導く内容の統合や相関が考えられ,1916年全米教育協会NEAが社会科計画を提唱。第1次世界大戦後,新教育革新派は社会再建にこれを結びつけ,全米各地のカリキュラム改造で定着した。日本も大正期に生活教育,郷土教育の主張と試行があったが,教科としての社会科の成立は第2次世界大戦後である。社会科は,ときに価値観の問題にかかわる困難を伴い,またその経験主義的性質に対しては,伝統的教科主義や系統学習尊重の立場からの根強い批判もあるが,高度かつ複雑に発展しつつある現代社会に必要な教養を培う教科として重要である。(ブリタニカ国際大百科事典)
● しゃかい‐か〔シヤクワイクワ〕【社会科】=小学校・中学校・高等学校の教科の一。社会生活に関する基本的な知識・理解を与え、また、社会の成員として必要な資質を養成することを目的とする。昭和22年(1947)新学制の施行とともに新設。平成4年(1992)から小学校1、2年生では理科と合わせた生活科、小学校6年生から高等学校では地理t歴史科と公民科に再編された。社会。(デジタル大辞泉)

学校のカリキュラムに関しては複雑な歴史があります。明治初期の学校制度開始以来、「臣民」「皇国民」「国民」などと、教育が目指すべき目的がその都度、時勢・国策に応じて唱道されてきました。中でも「社会」科はその目的に関わって、重用な科目として位置づけられてきたのです。戦後、新教科として導入された教科としての「社会」は、ある意味では、民主主義の担い手を育てるという新たな目的もあって、鳴り物入りでもてはやされた。その典型的なカリキュラムが「体験学習」としての「こども郵便局」でした。ぼくも、この授業に参加したはずです。でも肝心の成果というか、学習効果は、ことぼくに関しては皆無だったといえます。当時も、多くの批判がありましたが、その代表は「ごっこ遊び」というものでした。「郵便屋さんごっこ」と言われた。一種の郷土研究に属していたのかも知れません。いまでも、しばしば見受けられますが、地域の商店街などに出かけて学習する「見学」(見て学ぶ)でした。地域の商店は、さぞかし迷惑だったろうと思う。ぼくが、この手の授業に愛想をつかしたのは、日常生活の経験から学んでいるものを、わざわざ「調べ学習」とか「お店見学」などと称して、無駄な(とぼくには思われた)時間を使っていたからです。「総合的な学習」なども、この類(子どもの中心カリキュラム編成)だったという気もします。

「ごっこ」とは「いっしょに、ある動作をすること。特に、児童の遊戯で、あることをまねていっしょに遊ぶことについていう」(精選版日本国語大辞典)とあります。もちろん、「こども郵便局」は遊戯ではなかったし、真面目に考案された学習形態だったとされますが、「郵便の仕組み」の表面をなぞるだけに終わったきらいがあります。とくに、長い期間を通して、この島の学校教育は「座学」というのか、教師から教え(与え)られ、その「内容」を記憶(暗記)することが「学習」だとされてきましたから、誰かの教育内容を受け入れるだけでは不十分で、自らが学ぶ(経験する)ことが求められ、その一貫としての「体験学習」だったのでしょう。でも、やはり、「ごっこ」という側面は拭い去れなかった。いわば「詰め込み」教育からの脱皮を図ったのですが、結果的には、一種の「徒花」で、いつしか元の木阿弥に戻ってしまいました。(ここでは、もっと言うべきことがありますが、面倒なので止めておきます)
明治以降の日本の学校教育の問題点は「生活から遊離した学習」というものでした。児童生徒の生活に即した経験が学習の支えにならないがゆえに、教えられる教育内容は、ひたすら「覚える」ことを強いられるものにならざるを得なかったのです。教育内容に関しては「国定」教科書があって、教師はその内容を過不足なく「教授」することだけが求められた。戦前教育の「一斉教授」の埒から離れて、子どもの経験を豊かにするという目標を掲げて、大騒ぎされて始められた「こども郵便局」(体験学習)の授業実践でしたが、一瞬の煌きも見せないままで、立ち消えになりました。かくして、「学習は暗記すること」だという、この社会の抜き難い伝統は、百五十年、一貫して続いているのです。言い換えれば、学校教育はどこまで行っても「ごっこ学習」の粋を出ない、「勉強遊び」ではなかったか、自らの拙い学校経験からして、そんな印象を強く持つています。
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