【水と空】新しい景色は 今年の5月に亡くなったサッカーの世界的名将、イビチャ・オシム氏はもつれた試合の決着をつける「PK戦」を「くじ引きみたいなものだ」と嫌った▲だから5人のキッカーを指名すると、自分はそそくさとロッカールームに引っ込んでしまう。〈私は自分の仕事を全てやり終えた。toto(サッカーくじ)は結果を知るだけで十分〉-木村元彦著「オシムの言葉」(文春文庫)から▲日本のサッカーとも縁の深いオシムさん、昨日は結末を見届けていただろうか。延長戦を含めて120分間の激闘の末、非情な“くじ引き”は逆の目が出て、日本代表のカタールW杯は戦いに幕が下りた▲4月に1次リーグの組分けが決まった瞬間、始まってもいないうちから「終わった」と考えたファンは決して少なくなかっただろう。勝負事に「絶対」がないこと、スポーツが統計や算数ではないことを森保一監督と吉田麻也主将ら選手たちは証明してくれた▲「新しい景色」-悲願のベスト8進出は果たせなかった。だが、今大会の戦いぶりは世界に鮮烈な印象を刻んだはずだ。日本サッカー史の「ドーハ」はもう悲劇の場所ではない▲ドイツとスペインを負かした日本の私たちは、少し欲張りになった。だから悔しい。それでも最高に楽しい興奮と熱狂の2週間だった。(智)(長崎新聞・2022/12/07)
これまでもそうでした。ぼくはサッカーや五輪などの世界規模の競技大会を熱心に見る人間ではない。つまりは「燃えない」んですね。今回もほんの数分、ラジオ放送で、試合の様子を耳に挟んだ程度。だから、サッカーのルールにも詳しくありません。「日本」が決勝リーグでクロアチアに「PK戦」で負けたという結果もラジオのニュースで知った。延長線(十五分➕十五分)でも決着がつかなかったので、PK戦となった。野球とはまったく内容が異なるから、確かなことは言えませんが、何れにしても「延長戦」という仕組みは、勝負には不要じゃないですか。「引き分け」という立派な試合結果(勝負がつかなかったという結果)がもっと認められていい。確実に勝負を決めなければならないのだから、いろいろな「方法」が編み出されては変えられてきたのです。じゃんけんやあみだで決めてもいいのかしら。多用な決め方があったようです。「オウム」や「馬」に決めてもらうのも一法でしょうか。

この「PK戦」についてはオシムさんの考えに賛成ですね。与えられた試合時間内に、どんな形にしろ、ケリ(切り)をつけるのが筋でしょうね。その証拠に「予選リーグ」では引き分けがありました。今回のクロアチア戦では、試合時間は合計九十分、さらに、昔の言い方で「ロスタイム」、今はアディショナルタイム(付録・おまけの時間が数分間)総計で何分だったか、ぼくは知らない。試合時間を目一杯、選手たちは「死力を尽くして」戦った。そのうえで、まだ余力があるとしたら、なんだか少し変ですからね。ぼくはPK戦も観ていません。当てずっぽうでいうと、「日本軍」は体力負けをしたんじゃないですか。キック力(速さや強さ)においても、余力がなかったと思う。だから、この方式で「勝ち負け」を決めるのはすっきりしないですね。引き分けがあってもいいし、優勝なしでもかまわないでしょうね。(左は読売新聞オンライン・2022/12/06 05:04)
高校生くらいまでは「オタク」のような野球ファンでした。テレビ観戦していて、スコアブックをつけたりして。でも徐々に興味を失ったのは、第一に、金に飽(あ)かせて一球団が好き放題したこと。次に、それとは無関係ではなさそうで、試合やペナントレースのルールを年中変えたこと。野球は九回勝負(延長もありますが)。その「延長」がでたらめに変えられ続けてきた。九回で決着がつかなければ、勝負は引き分け(ドロー)。それで十分でしょ。引き分けが多い球団があっても構わないと思う。その他いろいろ、野球がつまらなくなった理由に事欠かなかった。サッカーで言うと、それまで、互いにイレブンで戦っていたのに、PK戦になると、途端に一対一、なんか違うゲームのようですね。(延長でも決着がつかない野球で、両チームから5人ずつ選手を選び、二塁から三塁への走力の差で勝ち負けを決めるような、そんな滑稽さがある。あってもいいけどね)

これはぼく個人の好みですから、そうじゃないという人がいるほうが健全かも知れない。競技の醍醐味は、人それぞれのとらえどころが違うからいいのであって、今回のサッカーWCに世界中が痺れたのも頷けます。なんとサッカー好きの多いことかと。日頃愛読している各紙の「コラムニスト」も、殆どがサッカーファンだとお見受けしました。大なり小なり、「日本代表」の敢闘に大層なエールを贈っておられる。健闘を称えるのですから、同じような文章になるのは当然でしょうか。(右は毎日新聞・2022/12/5)
年寄りの偶感を言えば、時代とともに「スポーツ」が「勝ち負け」至上主義になってきて、なんとも奇妙なルールが採用されてきましたね。柔道なんかもそうです。「柔道」ではなく、「亜流レスリング」(試合着を着た相撲?)なんですか。少しばかり柔道をやった人間としては、競技大会の柔道はまず観ません。点数稼ぎが横行しています。「一本勝ち」が汚されています。
というわけで、この先も、どんどん時代の歩調に合わせてというか、(FIFAなどのような)主宰者の恣意によって、どんどん規則が変えられていくんでしょうね。気が付いたら、本来の種目とはおよそ離れてしまっていることに気がつくでしょう。一ミリやニミリの違いを競うのは「スポーツ」じゃないな、そんな気がするのです。

「日本対クロアチア」と、何の疑問もなく言われる、「国と国の対決」。「ドイツとスペインを負かした日本の私たちは、少し欲張りになった。だから悔しい。」と、ぼくの敬愛するコラムニストでさえも「愛国者」になっている。間違いでもおかしいのでもなく、日本人の中から選ばれた選手で構成されているチーム、「日本代表」というまではいいとして、「日本」と「ドイツ」などと、ついいってしまうのも、このような世界大会の落とし穴ですか。冗談でしょうけれども、「国威」は死語というより、はっきり言って死んではいないんですね。「ニッポン頑張れ」と叫んでいるうちに、すっかり国士になるんでしょうかな。(サッカーを否定はしないし、サッカーファンを非難するのではありません。本人も知らないうちに、気がつくと、まったく違った気分(国粋とでも言うのかしら)に襲われるということがあるんでしょうね、それだけをいいたかったのです。言わずもがなのことでした)
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