人間の賢さには時代による「甲乙」はないんだが

 時代を下るに連れて、人間の住む社会はとめどなく堕落していくのが避けられないようです。若い頃によく読んだ思想家のルッソオの主調(ライトモチーフ)は「人間は、神の手から出るときは善であったが、人間の手の中(社会)で悪くなった」と、文明社会を呪い、その余波で「自然に帰れ」と言ったとされた。彼がそういったのではなく、そういう流れで、人間社会の堕落や頽廃を嘆く人が多かったのです。一人の人間に関しても、同じようなことが指摘されます。生まれでたときは「神の子」(神童)だったが、人間社会の中で生きているうちに、徐々に悪魔に変わっていくようだと。たしかに、その疑いはありそうですけれども、生まれた状態のままに留まることはできず、裸で生活するわけにもいかなかったのが「成長」とか「進歩」というものに突き動かされてきた「生き物」の歩き方だったでしょう。まるで、「一直線の道」を歩くような、あるいは緩やかではあっても、「登り坂」を匍匐前進するように定められているという錯覚がぼくたちの中に生まれていた。

 二十一世紀も五分の一が過ぎた現在、人間社会(国家)にはさまざまな変化が明確に現れてきました。経済的に恵まれた国とより貧しい状態に追い込まれる国、あるいは人間界にあっても著しい「貧富の差」が生じています。しかも、それは避けようがないかもしれないと考えることに慣らされてきました。政治や経済の仕組み、あるいは教育の働きによって、可能な限りで「平等」とか「同等」を目指してきたのも、たしかな事実です。しかし、その結果は目を覆いたくなるような「不平等」の現出・顕現です。

 これまでも、繰り返し、「機会の平等」と「結果の不平等」ということを問題にしてきました。一例として挙げてみます。「教育を受ける機会均等」が憲法で唱われているにもかかわらず、「機会が均等に与えられる教育」によって、生み出されてきたのは埋めようのない「結果の不平等」でした。いや、実際には「結果が不平等になる」、そのために教育は機能しているのだという主張さえ声高に罷り通ってきたのでした。百メートル走を、どんな人にも「ハンデなし」「同一条件」で走らせることが、あたかも「本当の平等」であるように、圧倒的多数が受け入れたからでした。三歳と十五歳がいっしょに走るようなものです。ぼくたちは、そこに大きな矛盾や課題があることを知っています。でも、その課題や矛盾に目を瞑(つむ)って、誰が早いか遅いか、まるで「うさぎとかめ(イソップ)」の駆けっこを正当化しているようです。

 小さいときに、この話を聞かされて、「うさぎになるな(油断してはいけない)」と言う教訓ではなく、「どうして、かめは油断しているうさぎの隙(すき)を得意げにつくのか」「寝ていないで、走ってください」というのではなく、こっそりと追い越していく、そんなかめにはなりたくないと、ぼくは幼心に考えたね。土台、うさぎとかめをいっしょに走らせなければならない理由がわからなかった。そのおとぎ話や童話の根底には「適者生存」「優勝劣敗」という「優生思想」(というイデオロギー)が敷き詰められていたのでした。換言すれば「勧善懲悪」につながるのではないでしょうか。ぼくの好きな表現では「勝てば官軍」です。にもかかわらず、あえて言いたいですね。人間がもう少し賢くなったところで、だれも損はしないじゃないか、ってね。「うさぎとかめ」しかいない社会というのは「騙し合い」が、年柄年中「流行語大賞」になるような、そんな「世知辛い」世の中のようで、ぼくにはなんとも生きにくい。

 いつの世にも、世の光、地の塩のような人は、かならずいるものです。

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 「徒然日乗」(XLVI ~ L) 

▼ 二、三日前、久しぶりに京都の友人から電話がありました。なかなか元気な声で、羨ましい限りでした。開口一番、「今日一日、どう過ごしていいかわからない」と贅沢なことをいう。いろいろな理由(事情)で、日限や時間を刻まれている人が多い世間ですから、ぼくには「贅沢」と聞こえました。それに引き換え、小生などは、毎日同じことの繰り返しで、あっという間に一日が終わっています。なにかをなしたという実感はない。他人に迷惑をかけない、自分の足で歩く、たったそれだけで、ぼくには、とてつもない、貴重な時間のようにも思われてきます。(上首尾ではないが)▼ 極月五日、世情もわが胸中も、いささかのゆとりもない朝晩をやり過ごしつつあります。極月の雨にくつろぎありにけり 山田閏子(「徒然日乗」・L)(2022/12/05)

▼  サッカーW.C.の興奮状態の外縁で、あいも変わらず、この劣島では何とも言えない「凶事」が連続して発生しています。混沌とした政治状況下では、戦後政治の歴史とその遺産がことごとく破壊され、議会政治は危殆に瀕している。そこに再来したのが「翼賛的政治」です。多数の政党まがいがあるが、煎じ詰めれば、与党と野党、たった一つの野党が、共産党で、残りは自民党に代表される保守派です。多勢に無勢で、国会の機能は壊され、憲法は蔑ろにされている。▼ 至るところで「問答無用」の暴力事件が炎上しています。有無を言わさず、弱者を捻(ひね)り潰す、そんな風潮が渦巻いています。「誠実」とか「信頼」という言葉は「死語」も同然。これはネット時代の当然の通り道なんかではないと思う。経済(金力)が万事に優先され、金をめぐる、陣取り合戦ならぬつかみ取り競走に人生をかけて熾烈とも滑稽とも見える「物情狂乱」末期の醜態が演じられているのです。この狂奔する風波は、限界集落地に住む、ぼくをも直撃している。醜悪な時代相を生んだのは誰(何)か、と問う。(「徒然日乗」・XLIX)(2022/12/04)

▼ できる範囲で節電してください ~ こんな奇っ怪な「要請」が聞かれます。東電管内では、冬場に向かい、ひょっとして「電力不足」に陥るかもしれない、というので「できるかぎり」の節電依頼なのか。なぜ節電目標値がないのか。一日、三時間分は節電してほしいとか、「平均使用量の何%」の節電というのではなく、「できる範囲で」という。わけがわからんことしか言わないのがミソ。この社会には手に負えない会社(企業)がいくつかあり、そこには共通した特徴があります。東電や電通などはその代表例です。第一、商人なのに、顧客を大事にする姿勢は絶えて見られない。あるのは「ものが欲しければ、当方の言うことを聞け」というふてぶてしい態度です。それは「親方日の丸」という体質がにじみ出ているからかも知れません。この場合、親方は「弊社」であって、傘下にあるのが政府や官庁だという、禍々しくも不遜な振る舞いです。「可能な限り大量の節電を」と要請し、10%も20%もの節電が可能になったらどうか。既存の原発は一切不要となるでしょうね。いや、ホントはすでに、そうなっているんじゃないですか。「あくどい」というのは、このことだ。(「徒然日乗」・XLVIII)(2022/12/03)

▼ いつも通りに四時すぎに起きて、猫の世話(食事やり)をしていた、ラジオのイヤホンを耳に挿んで。突然、日本対スペイン戦の中継放送が流れてきた。この時間帯は「明日への言葉」と題して、さまざまな人のエピソードが聞けるはずだが。▼ 「配食」が一段落したので、テレビをつける気になった。サッカーが観たかったのではない。テレビ台の前に猫が五つほど並んでいた。その直後に、とても面白い光景を見ることになった。猫たちは食い入るように観るのではなく、試合に参加しだしたのである。審判を追っかける者、敵味方関係なしに、それぞれが動き回る個々の選手たちを執拗にマークしだし、ついには「手」を出し始めた。選手めがけて、強烈なフックパンチを振るった。完全な反則だ。猫からすると、これは「前足」だから反則ではないというかも知れぬ。▼ 起床する段階では、一点先行されていた。しばらくすると、「このまま行くと、日本は決勝リーグ進出」とアナウンサーが叫ぶ。いつの試合のことかと訝ったが、まだ分からなかった。すぐに、後半開始早々に立て続けに二点を連取したと分かった。猫の攻撃はなお続いていた。もちろんディフェンス専門もいる。MFもいる。テレビモニターは凄いことになっているだろう。そのまま最後まで観てしまった、猫の戦い(参戦)ぶりを。(「徒然日乗」・XLVII)(2022/12/02)

▼ 社会学者の宮台真司さんが、大学構内で「暴漢」に襲われ、重症を負ったという報道が、昨晩あった。救われたのは、命に別状なしということで、一安心しました。昔から知っている人で、近年の発言に、ぼくは大いに啓発されていた。現段階で「誰だか、見当がつかない」と宮台さんは話されているという。滅多なことは言えないが、ぼくも「刺された」ことはなかったが、「脅迫状」をもらった経験があります。一度は「てめえ、殺すぞ」というメールだった。差し出し人は「ゼミ生」で、医者にかかっていたし、診断は「統合失調症」だという。そのことを、親から相談されてもいました。本人と何度かやり取りを交わしたが、結局は「沙汰止み」になり、事なきを得たようなことでした。▼ 誰がどこで、何を考えて生きているか、皆目わからない時代、でも、相手は「目当ての人間」の一挙手一投足を知り得る時代です。密かに「敵愾心」を膨らませて。この問題でもっとも面倒なのは、逢って話すのではなく、「問答無用」という暴力行使に及ぶことです。「言葉が死滅した時代・社会」に、ぼくたちは生きている。(「徒然日乗」・XLVI)(2022/12/01)