自分で自分を運転する車、それが人間だ

 若い頃、名前だけでしたが、私立幼稚園(保育園併設)の理事をしていたことがあった。二十年も続いたでしょうか。取り立てて言うほどの仕事は何もない、ときどき園に行って、子どもたちと遊ぶ、運動会の力仕事をする、園庭の草取りなどをするぐらいでした。ごくたまに、保母さんたちの勤務時間が終わっても「お迎え」が来ないからと、園児を自宅まで送ったこともありました。静岡県裾野市の私立保育園で「暴力・虐待」容疑で三人の保母が逮捕されたという事件報道(12月4日)があった。どうにも理解し難いことです。漏れ聞こえてくるのは「躾(しつけ)の一貫」だったというようなこと。理屈はなんとでもつきますが、一、二歳児に対して暴力を振るうという大人の行為、「ごく普通」の人間の仕業だったのか。そんな「保母」たちは、どんな環境で生み出されたのか。事件は内部告発(通報)で判明したそうです。協力しあって「保育」「幼児教育」に精進すべき人たち(保育者)の世界に、防ぎようのない闘いがあったのでしょうか。職を賭して「虐待」する保母あれば、職を賭して「告発」する保母ありとは、何という「阿修羅(asura)の園」だったことでしょう。虐待を受けていた多くの幼児の「心境」(PTSD(Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害))を緩和・解消するために何ができるのでしょうか。

 静岡 裾野 保育園児虐待 当時の保育士3人逮捕 暴行の疑い 警察 静岡県裾野市の保育園で、当時保育士として働いていた3人が、園児たちに足を持って宙づりにするなどの虐待をしたとして、警察は4日、暴行の疑いで逮捕しました。/ 警察は、園内で悪質な行為を繰り返していたとみて、実態解明を進める方針です。/ 逮捕されたのは、裾野市の認可保育園「さくら保育園」で保育士として働いていた三浦沙知容疑者(30)と小松香織容疑者(38)、服部理江容疑者(39)の3人です。/ 警察によりますと、3人はことし6月、1歳児のクラスの園児に対し、それぞれ顔を押したり、足を持って宙づりにしたりしたほか、頭を殴って虐待をしたとして、いずれも暴行の疑いが持たれています。/ 3人の認否は明らかにしていません。/ また、警察は4日に「さくら保育園」を捜索しました。/ この保育園では、3人が、ことし6月から8月にかけて園児の足を持って宙づりにしたり、カッターナイフを見せて脅したりするなど、15の悪質な行為が確認されたため、警察は3人から話を聞くなど調べを進めていました。/ 保育園の調査に対し「一連の行為はしつけや指導のつもりでやっていた。申し訳ないことをした」などと話しているということです。/ 警察は、3人が悪質な行為を繰り返していたとみて、実態解明を進める方針です。(以下略)(NHK:2022年12月4日)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20221204/k10013912591000.html)

 教育という名で呼ばれる仕事の範囲は驚くほど広範です。人間の関係する事柄すべてにおいて、「教育」という名で呼ばれる営みが生じているはずです。意図的教育(↔非意図的教育)、積極的教育(↔消極的教育)などと、面倒な理屈を言えば切がありません。要するに、一人の人間に関る(他からの)営みのすべてが「教育」に当たるでしょう。忌まわしい「虐待事件」の容疑者には、虐待を殊の外好む「愉快犯」の心情があったとは思われません。自分よりも遥かに「脆弱な幼児」に攻撃が向かうだけの理由は、必ずあったはずです。三人の虐待に向かう動機について、ぼくには心当たりがあると言ってもいいのですが、中途半端な予想や当て推量で、この事件に向かうべきではないと思っていますので、今の段階では自重して置きます。

 いい教育・悪い教育などと言われます。そのような「教育の良し悪し」は、どこにでも見られることですが、普遍妥当する、いかなる「教育」もないでしょう。ある教師や子どもにとって「いい教育」だとしても、他の教師や子どもには「我慢できない、いけない教育」であることはいくらもあるからです。教育学者は「これが本当の教育だ」というようなことを言いたがります。でも「本当の教育」は、現に行われている「教育実践」を除いて、他にあるのではないのです。その眼前の「実践」が、いい教育か悪い教育かと言われるのであり、「いい教育」とされるものも、他の人々にはそう思われないし、これは「よくない教育だ」と思われるものでも、それを悪いと判断しない人々も出てくるのです。

 よく「体罰」の是非をいいます。手を出すことは、理由のいかんを問わず認められないという立場がある一方で、体罰を容認する人々もいる。ぼくは単純に徹してきました。形式のいかんを問わず、強制(外から力を加える=暴力)することは「反・非教育」である、と。理屈を言う人はどこにでも、いつでもいる。殴ることで「誤ちを防ぐことができる」、それでも暴力はダメか、と。ダメだね。自分で「自分の過ちを防ぐ」、その力を育てるのが、ぼくが実践することを念じていた教育でした。「失敗」は取り戻せる。ぼくたちは、誤ちを防ぐという理由で、自分を制御できない、不注意な人間(自制する力のない存在)を生み出してきたんじゃないですか。(右は毎日新聞・2019年2月17日)

 デカルトやド・ラ・メトリでなくとも、人間存在は「一台の機械」です。ただ、この機械はエンジンもアクセルもブレーキも備えており、それを操作する「運転手」も自らのうちにいるのです。どういうことでしょうか。目に見える「車」にはエンジンが付いており、それを制御するのは車ではなく、人間です。アクセルを踏み、ブレーキを踏むのも人間です。人間が支配している車を操作する「制御力」に破綻を来たし、アクセルとブレーキを踏み間違えるという事故が多発し、多くの死傷者が出ているのです。事故を起こした際、問われるのは車ではなく、人間の「操作能力」(認知能力ではない)です。車は、自分で動くことはできません。自動運転といいますが、その運転の原動力は人間の機械操作によるものです。

 あまり適例にはなりませんが、人間というものを「自動運転車」とみる、つまりは「人間の言動のすべて」を人間自身が操作するという意味です。運転ミスで事故が起こる理屈はわかりやすいですね。それと同じように「人間という機械」は自分でする操作を間違えることで、大きな過ちを犯すのです。裾野市の保母の行為はどういうものだったか。一、二歳の幼児を虐待したわけでしょう。言うことを聞かなかった、動作が鈍い、返事が気にいらない、いろいろと、保母の「癇癪」の種は尽きず、その癇癪玉を爆発させた結果、幼児を逆さ吊りにしたり、折檻したり、ということだったかも知れません。「言うことを聞かない」と腹が立つ、怒りが湧く、これを抑えるためにブレーキ(自制)があるのに、あろうことか、アクセル(怒りの爆発)を踏み続けた。このようなことは、日常的に、ぼくたちは嫌になるほど経験済みです。アクセルとブレーキは役割りが違う。ブレーキを踏むべきときに、アクセルを踏み続けると、衝突するところまで行くのではないですか。車の場合は「事故」です。大きな事故を起こして、初めて「目が覚める・気がつく」ことがほとんどでしょう。

 人間は「一台の車」です。軽自動車か普通車か、あるいは国産車か外車かは問いません。当然、本物の車には運転手がついています。運転者がいなければ、単なる鉄の塊(かたまり)に過ぎません。ぼくたちが乗ったり運転したりする車と、人間という車の決定的な違いは、人間という車そのものが自分で自分を動かしたり止めたりする、つまりは「自動運転車」なんです。自分がしたりしなかったりすることは、すべて自分で「判断する」のです。この「判断力」にこそ、人間という車の、もっとも重要な価値(値打ち)が宿されているのであり、それを時間をかけて育て上げるために、いっしょに走ってくれる「自動運転の指導者」が、ある時期まで必要なのです。それをぼくたちは「教育」と称している。でも、この「判断力」を、子ども自身が自分で育てるために使うのでなければ、その教育は「アクセルとブレーキ」の分別のつかない人間を生み出すことになるでしょう。今回の三人の保母さんのように。

 ぼくは、自分でも嫌になるほど、同じことを繰り返してきました。「教育は、自分の足で歩く練習なんだ」、と。自分の頭で考え、自分の言葉で、その考えを発言する力、つまりは発話する能力を育てること、それこそが「教育」だといい続けてきました。自分が言うべきことを言う、それは権利ですね。あるいは人権と言ってもかまわない。その「発言」を封じる力は、自分であれ他者であれ、権利の侵害にあたります。言うべきことを発言するための力は、即栽培はできない。長い時間が必要です。成績とか偏差値などは、これとは無関係、いやむしろこの力を育てるためには「百害あって一利なし」です。(今の総理大臣や閣僚(だけではない)は、自分の言葉で自分の考えを喋っていない・喋れないんですから、話にもならないですね。この連中は「成績優秀者」「優等生」だとするような、箸にも棒にもかからぬ、劣悪「教育」を続けている、まさしく「学校の罪」ではないですか)

 他人より優れていたい、それもまた人間の弱さの現れです。その「弱さ」を強さに変えるためには、人より優れていたいという「情念」(劣等感か)を自制する力を自分の中に育てる他に方法はないのです。この先は、もう言う必要もないでしょう。これまで、このことしか言ってこなかったと思うからです。

 「人間という車」を運転するのにも、「免許証」がきっといるのでしょう。この免許証を、発行したり失効させたりして、管轄しているのは公安委員会などではありません。文科省ですらない。「自己管理」という方法であって、これに失敗すると、一時的に、あるいは相当に長い期間、「免許停止」を余儀なくされるし、場合によっては「免許返納」を強いられるのです。つまりは「人間失格」で、その烙印を押すのは、一見すると社会(世間)と見えますが、実際は「当人」です。自分を運転する(生きる)、その自分が、人間性の範囲を超えて、倫理的、あるいは道徳的な違反をすると、「人間やめますか?」と自らが、自らに問われるのです。(「自責の念」というものは、時間を必要としながらも、どんな人にも、必ずやってくる。これもまた一つの「感情」です。この間違いを犯した「感情」が克服されたときに生じるのが、「再生」したいという願いではないですか)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。