この議員を非難したりする気はいささかもありません。頭蓋の「タガ」が外れているのですから、その処方はふさわしい場で行われるべきです。これだけ「女性」を侮蔑し、差別し、なお「自らは女性」だと自認している感覚、驚異的な狂気ではないでしょうか。「狂気の人」だからいけないというのではなく、それなりの対応の仕方があるでしょうという意味です。自民党所属議員(候補)として、この「女性」を強烈に支持したのは故元総理でした。いろいろな人間が国会にいていいし、いなければならないとさえ思います。しかし、他人を根拠なしに「差別」して、恬として恥じないどころか、その差別する「当人」を応援する輩が決して少なくないという現実に、ぼくは「肝をつぶす」のです。これは「右翼」というのでしょうか。ぼくにはよくわかりません。時代とともに「右翼」「左翼」の定義が揺れ動いていますから、昔日の「右翼」は今日の「左翼」ということもありえます。しかし、だれそれが「右」だ「左」だというレッテルを貼ることが大事なのではなく、レッテルの下に隠れている「感情」(差別感情も含めて)を射抜くことだと、ぼくは考えてきました。

アメリカ社会の黒人差別は「米国の文化だ」と堂々と公言する人は、今も昔も絶えません。黒人を差別することに「アメリカンスピリット」があるのだということを、未だに言う人が腐るほどいます。若い頃に学んだ米国の社会学者・マートンは「偏見と差別」を四層に分けたのはよく知られています。①偏見も差別も持たない人 ②偏見はあるけれど差別をしない人 ③偏見はない(と思っている)が差別をする人 ④偏見を持ち、当然のように差別をする人 この4分類をよく見ると、①は最も望ましい人ですが、先ず存在しないに等しい。もっとも多いのは(私見では)、②ではないでしょうか。ぼく個人を例に出しても、ぼくにはたくさんの「偏見」があります。隠すことができない多くの「偏見」で、ぼくは作られていると言ってもいいほどです。でも、これは「偏見である」という自覚を保つ努力のようなものはしてきました。言ってはいけない、やってはいけない、そんな「意見(それを思想といってもいい)」を内に含んで生きていると、ぼく自身は認識しているから、そのようなを言動は表に出さないように生きてきたのです。(いうまでもなく、いつでもうまく行ったとはいえません。何度も「偏見思想」が表出し、行動になってしまったという苦い経験は数知れずありました。いまだって、もちろん皆無ではない。ぼくは偏見の塊(かたまり)だという自己意識は失いたくない。決して「開き直り」でいうのではないのです)
特に問題になるのは③だと、ぼくは経験からも学んできました。この駄文収録の何処かで、この点に関して、手短に綴っていますので、ここでは無駄話は止めておきます。一言だけいうと、「自分は偏見なんか持っていない。だれもが言っていること、やっていることを、同じようにしているに過ぎませんから」とあっさりと告白してしまう人は驚くほど多い。ぼくは件の女性国会議員は、この③に該当すると以前から見ていましたし、今回の「発言訂正、謝罪」の偽装振りを見ても、ぼくの推論は外れていないと思う。「誰もがしていることだから」「みんな言ってるよ」、そういう言動がどれだけ時代を席巻してきたことか。この島社会では「男尊女卑」はそれこそ、「麗しいほどの伝統・文化」だったといえばどうでしょう。その伝統・文化を死守・墨守するところに、この「国の美しさ」があるというのです。「美しい国」「美しい日本」と統一教会の初代日本本部会長は、自著だったかで表現していました。その文言を「換骨奪胎」ではなく、「剽窃した」のも故元総理だったし、その「秘蔵っ子」がこの女性議員だったというわけです。「言葉」を弄んでいる、政治の道具にしている、腹の底には何も「思想・信条」というほどのものはないという、まるで空き箱のような人体(にんてい)、人品ではないでしょうか。
④は論外です。マートンは、この④に該当する「確信犯」は法律で処罰すべきだと言っていたと記憶しています。それほどに「黒人」は「差別の対象だ」と盲信・確信している白人がアメリカには多くいるということです。おそらく、この④は教育不能でしょう。ぼくは形だけだったかも知れませんが、三十年ほど「人権教育」という授業を担当していましたから、この間の事情はわかるつもりでいました。①は「理念・理想」型です。④は「犯罪者」でしょう。問題となるのは③です。ここにこそ、教育によって自己生成を果たす可能性があると思うからです。この女性議員は「発言を撤回し、謝罪」と報道されましたが、どこまで本当か、他人にはわからないことです。その場しのぎの「虚言」だったかも知れません。その「虚言」による「言い逃れ」に対して「いいね!」とボタンを押す人がいることも事実ですね。

杉田総務政務官、過去の表現撤回 LGBTや民族衣装巡り 杉田水脈総務政務官は2日の参院予算委員会で、過去にLGBTのカップルについて「『生産性』がない」と月刊誌に寄稿したことや、「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさん」などとブログに投稿したことに関し、「傷ついた方々に謝罪し、表現を取り消す」と述べ撤回した。 社民党の福島瑞穂氏への答弁。一連の表現を巡っては、国会で野党側から追及が続いていた。 これに関し、岸田文雄首相は「政務官に着任する前の表現だが、内閣の一員としての意識を改めて持ってもらったと受け止めている。引き続き職責を果たしてもらいたい」と語った。れいわ新選組の天畠大輔氏への答弁。 予算委に先立ち、松本剛明総務相は閣議後記者会見で、杉田氏の一連の表現について「チマ・チョゴリやアイヌ民族衣装は民族の誇りに関わることでもあり、LGBTについても拙い表現だということは間違いない」と指摘。「政務官本人が『拙い表現で人を傷つけたことを重く受け止め、反省している』と話していた。私から傷ついた方々におわびし、表現を取り消すよう申し渡した」と明らかにしていた。(時事通信・2022/12/02)
この人間を「適材適所」と強弁して擁護するのが現総理です。もちろん、話にならない、論外ですね。ことは「人権侵害」「差別問題」という自覚があるとは思われない、ノーテンキです。一刻の代表政治家とは、なんと恥ずかしい限りでしょう。彼女を罷免すれば「自らの首」が飛ぶからと、心底、恐れているからです。これだけでも、御用済みにしたい政治家です。でも、往々にして「神輿として担がれる」のはこの類に限るといいます。「神輿は軽くてパーがいい」と、かなり昔にある政治家は言いました。載せられているうちが「花・華」であり、おのが天下だと勝手に思っていれば満足なんでしょう。大事な政治は、俺達がやると、今「無能総理」を担いでいる有象無象が。好き放題をしています。原発新増設、防衛費の倍増、そのための増税などなど。
この「差別発言議員」に触れようとしたきっかけになったのが「あぶくま抄」でした。シロタさんに関しても書きたいことはありますが、ここはその場ではなさそうです。そうではなく、このコラムが目に入った瞬間に、「差別発言議員」のことをネタにしているに違いなと「早とちり」してしまったのです。〈女性が幸せにならなければ、日本は平和にならない〉というシロタさんの思想は、たしかに憲法の理念にふさわしいものでした。でも、その憲法を誰よりも遵守するように求められている国会議員が「憲法の理念に唾(つば)」を吐いているのです。「女性の敵は女性だ」というのは、確かですね。「憲法に唾を」という政治姿勢を求めたのは、あるいは教えたのは誰だったか。「死人に口なし」とはどういうことでしょうか。
政治党派も、一面ではカルト的であることを免れないようです。この女性議員の履歴を一瞥して、ぼくが抱いた感想は、政治にかかわるまでは、特段に目立った存在(政治的にも思想的にも)ではなかったと思われることでした。「政党・政治に入信」してから、メキメキと本領発揮し、「問題発言」を連発したというのは、十分に「催眠術」が利いたからでしょう。いまでいう「マインドコントロール」です。一旦、コントロール下に置かれると、容易なことでは「自分を取り戻す」のは困難ですね。でも、この人は「大向う受け」を狙って「芝居(演技)」をしていたと思われますから、ぼくは③に入れたのです。はたして、目を開けたふりをするのか、本当に覚醒するのか、必ず、見る人は見ています。
【あぶくま抄】女性が示す現在地 米国人ベアテ・シロタ・ゴードンさんは父親の仕事の関係で少女時代を東京で過ごした。15歳で米国に留学後、戦争が始まる。連合国軍総司令部(GHQ)のスタッフとして終戦直後、日本に戻った▼22歳で日本国憲法の人権条項をつくるメンバーになる。結婚相手を自分で選べず、お金を自由に使えない戦前の女性の姿を間近で見てきた。時に激しく論争し、注力したのは女性の権利を記すことだった。〈女性が幸せにならなければ、日本は平和にならない〉と信念を自伝につづっている▼政府が主催する国際女性会議2022(WAW!)がきょう3日、東京都内で開かれる。テーマの一つに初めて「女性と防災」が加わる。県内の女性が参加し、震災と原発事故の経験を世界に伝える。公式サイドイベントとして福島版女性会議が17日に福島市で催される▼1947(昭和22)年の憲法施行から75年。万人の平等をうたう理念の下、男女の差をなくす幾多の法律がつくられてはきたが…。災害が起きた時、子どもと一緒に安心して避難できる環境は整っているか。避難所でのプライバシーは守られているか。平和の現在地を示唆する女性の声に耳を澄ましたい。(福島民報・2022/12/03 09:05)

差別発言の主は、誰かに「問題発言」を強いられていると、ぼくは思う。この議員が所属する政党(これまでにいくつか渡り歩いて、いまは自民党だという)が、かかる発言を求めていたのだし、今もそうでしょう。しかも、発言者は女性ならなおいいと考えられているフシがあります。これを「右傾化」などと誤解してはいけないでしょう。右とか左の問題ではなく、「人間性の質」が問われているのですから。他人(多くは弱者とされる人々)を軽蔑し、その人権を踏みにじる、これは間違いなく「犯罪」です。「人権蹂躙の愉快犯」というところか。「犯罪者」を擁護し、その存在を維持擁護しようととする政治・政党に「人権問題」を云々する能力もなければ、意欲もないと言わなければなりません。(右図は東京新聞・2022年12月2日 )
この局面を変えるために、ぼくたちが持っている手段は「選挙」です。「投票する権利」の行使です。しばしば言われることで、誰も疑わないのは「候補者を選ぶ」のが投票者だという受け止め方です。本当にそうでしょうか。長野県議が自分の妻を殺害した「容疑」で逮捕されました。事実関係が明らかではありませんから、滅多なことは言えません。選挙における「候補者」と「投票者」の一例として考えてみたいのです。
たしかに、投票者はこの候補者に数多く投票したから、彼は当選した、それは事実です。その彼が、議員在職中に大きな事件を起こしたとするなら、その「容疑者」を選んだのは投票者ですね。だれを議員として選ぶかという観点に立てば、彼に投票した有権者こそが、この議員を当選させるべく、逆に言えば、議員から選ばれたとも言えないでしょうか。選挙が終われば、誰に投票したかなど、どうでもいいことになるのかどうか。民主主義政治の眼目たる「選挙」に触れて、候補者を選ぶ視点と、候補者によって「選ばれたた投票者」という視点を持つなら、選挙の内実というか、意味合いは違ってくるように、ぼくには考えられるのです。選んだ候補者が「議員にふさわしくない」と判明した段階で、選んだ投票者は、なにもしなくてもいいのでしょうか。責任は感じないのでしょうか。なかなか面倒なことではありますが、そこを考えなければ、投票(選挙)は形骸化し、選挙は儀式になるばかり、選んだ議員が汚職をしようが事件を起こそうが知ったことか、「後は野となれ山となれ」というのは、現に見るごとし、です。選ばれた候補者と選んだ投票者の、願わしい関係についてさらに考えを深めたい。(その意味で言うなら、特定の議員を選ぶことがない「比例代表制」選挙は、即刻廃止すべきでしょう。個人ではなく、党を選ぶというのは、なんですかと言いたいですね)
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