こいも うすいも かずあるなかに

 不穏なことを言い出すと思われそうですが、いまから九十年前、五一五事件が発生した。海軍中心の軍人が決起・蹶起して起こした「クーデター未遂事件」でした。もちろん、今日はそんな状況にあるのではないのはいうまでもありません。しかし、この襲撃事件に遭遇した、時の宰相犬飼毅さんは「話せば分かる」といった。が、いきなり「問答無用」と銃撃されたのでした。言葉はいらない、つべこべ言うな。これでも喰らえと、反乱兵は銃弾を打ち込んだ。「あれこれ言っても始まらない」という風潮はいつの時代でもあったでしょうし、だから、当然、今だってそうです。だれもが、「問答無用」の時代の海で溺れかかっているのです。

 もちろん「クーデター」が起こりそうだというのではありません。とは言え、「話せば分かる」という七面倒臭いことを厭う雰囲気が、社会の至る所で蔓延しているのも明らかです。多勢の暴力を頼んで「時の権力」に反旗を翻す、そんな時代ではないことは事実です。でも、時代の政治状況を見ていると、おどろくほど「戦闘的」「攻撃的」というか「軍事的」になっていることは否定できないのです。武器で相手を威圧し攻撃する、言葉は無用。このネット時代のいくつものアプリは、ものは言わないで、攻撃専用の道具を提供している、それがSNSなどの多用・混雑時代の「攻撃は正義だ」という単純系をのさばらせているのではないでしょうか。ときにより、言葉は「強力な武器」そのものに化す。

 元総理が銃弾に倒れたのはこの七月。個人的な恨みが、回り回って元総理に向かった事件でした。しかし、元総理の言動は、ある種の言論無視、言論無用を促していたようでもあり、「問答無用」の時代相に拍車をかけたともいえます。「数を憑(たの)む」のが政治、選挙に勝つのが政治、そのためには手段を選ばない手法は、いつしか「問答無用」「勝てば官軍」という単細胞な野蛮系を育ててきたのではなかったか。また、それとはまったく趣は異なりますが、大学教員が構内で襲撃されるという事件もまた、「問答無用」という風潮に突き動かされたものだったと、ぼくには思われます。大学から「ことば」が奪われたら、そこはただの「有料遊園地」「烏合の衆の屯所」でしかないのです。

● 五・一五事件【ごいちごじけん】=1932年5月15日に起こった海軍急進派青年将校を中心とするクーデタ事件。井上日召らと関係のあった海軍将校が大川周明から資金援助を受け,陸軍士官学校生徒と協力,首相官邸,内大臣官邸,政友会本部,日本銀行,警視庁などを襲撃,犬飼毅首相を射殺した。一方,愛郷塾生の農民決死隊も東京近郊の変電所を破壊して戒厳令を出させ,その間,大川周明らによる改造政権の樹立を企図したが失敗。日本ファシズム台頭の契機となる。(マイペディア)

その他、幾多の裁判に見られる「ネット社会の(言葉という)武器乱用」もまた、「問答無用」「文句あるか」という一方通行的な攻撃性だけが剥き出しになっています。「いいね!」だけでいいの? そんな疑問が日々大きくなってきます。百の「いいね!」には、百通りの「色合い」があるのを無視して、「いいね!」で一括りにする、それはまるで「選挙」の投票のようなものです。「白か、黒か」「勝つか、負けるか」「善か、悪か」などという二者択一で、ぼくたちは、それなりの人生を生きてゆくことはできるでしょうが、実に味気ないこと夥しいように、ぼくには感じられます。「はい」と「いいえ」は、二つの反応(答え)ですが、その内容は複雑です。「いいえ」に限りなく近い「はい」もあれば、「はい」に限りなく近い「いいえ」もある。しかも、その微妙な差異は、時間とともに変化するものです。(言葉がまるで「はちまき)のようで、紅組と白組で対峙しているだけの貧相な様がすけすけなのが、今日只今です。大変におぞましい時代に生かされているようです)(言葉の一つ一つが、鉄砲玉のようで、敵を傷つけねば止まずという険しさ、下品さ、危うさです)(この駄文収録も、その傾向はなきにしもあらず。自戒の念を)

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 大方の盛りは過ぎましたが、色鮮やかな各地の「紅葉」を想い、唱歌を口遊(ずさ)みたくなります。高野さんの「詩(詞)」そのままに、多彩多用な意見や主張があっていいし、それを丁寧に、時間を省かないで当座の「解」を求める手続きをゆるがせにしないことです。それがデモクラシーの核になるもので、「普遍妥当性」という名の「教条主義」を求めるのは「民主主義」にはそぐわないのです。問題があれば、意見を出し合い、よりいいものに変えてゆく、そのプロセスは「人生」そのものではないでしょうか。繰り返し、やり直す。

 (「紅葉(もみじ)」:作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一。1911(明治44)年「尋常小学校唱歌:第二学年用)(https://www.youtube.com/watch?v=CwsuMUiztF0&ab_channel

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「徒然日乗」(XLI~XLV)

▼  政党の質と量 ~ こう言えば身も蓋もないけれど、この国には二種類の政党(党派)しかない。いわば、与党と野党です。現下の状況では、野党は共産党で、それ以外は殆どが与党(入りたい組も含めて)。野党に位置しながら与党に通じているのをなんというのか。この手の議員がたくさんいる。第一次大戦時、ムーランルージュの「マタ・ハリ」よろしく、ですね。▼ 高校生ころまでは、社会党という政党に関心を持ったが、今から見れば、与党の分派だったといいたくなる。政治は「妥協」だといいますが、これは腹芸を使う「取引」といったほうがわかりやすい。与党と野党というが、両者は「対米国への姿勢」によって決まる。対米(無条件)従属が与党、この国の独立を掲げるのが野党です。アメリカの腰巾着(卑屈)でいる限り、米国が倒れるまで、おのれの「権力」は無事だというのですかな。そのための「代償」には想像を絶するものがある。人民の苦悩・苦悶は絶えることがありません。(「徒然日乗」・XLV)(2022/11/30)( 画像はNHK ⇨)

▼ 重いものを持ち上げたわけでもないのに、腰痛が出てきました。これまでに何度か「ぎっくり腰」というのを経験しましたが、痛くてたまらないというほどでもなくやり過ごしてきました。若い頃は無鉄砲でしたから、それなりに大きな病気もしました。とんでもない病に襲われたこともあります。でも、五十過ぎてからは慎重居士というか、それなりに健康に気をつけて来たつもりです。とは言え、本人はそうだと思っても、我が身体は、時には別物で、なかなか心身合一とはいかないものです。知行合一はもっと困難の度は高いのでしょうね。人間は異質なものがより合わさって出来上がっていますから(アマルガム)、まるでハンドルの効かない車に載っているようなもの。高齢者の事故が報じられるたびに、速度が出ない(十キロ程度まで)車を作るべきだと心底思います。これは余談ですけれど、半ばは「本気」なんだ。(「徒然日乗」・XLIV)(2022/11/29)

▼ 敵はどこにいる? 防衛費の倍増を政府は決定している。八百長「有識者会議」を隠れ蓑に、増税で軍備増強を図るという時代錯誤。相手国(敵)はどこなのか、あの国とこの国だと、白状したらどうか。早くに、現首相は米国大統領に「軍事費倍増」を報告し、頭を撫でてもらった。こいつはどこの国の首相か。政府与党は、米国のいいなり放題で、かつ彼の国のATMであることに誇りを持っているらしい。「独立国」が泣きますな。▼ 米の「ポチ」とよばれ、「腰巾着」と蔑まれても、我が身(権力)が守られれば、「宗主国様」と、属国根性丸出しの、卑屈な「お礼参り」を欠かさない。米国に楯突いて踏み潰されたり、疑獄事件に嵌められたりした「権力者」は、この島の「盛者」を含めて数知れず、です。「彼(米)は昔の彼ならず」なんだがなあ。(「徒然日乗」・XLIII)(2022/11/28)

▼ 震災や台風などの自然災害、あるいはいつ何時起こるかわからない「戦争(内乱)」など、そんなことはめったに起こらないという一種の気休めを持って、ぼくたちは生きている。さして変わらない「日常」の積み重ね(繰り返し)を生活と呼ぶ。時には家族に病人が出たり、あるいは本人が風邪を引いたりと、寄せては還す「波」が乱れる(波乱)ということはある。現下、この社会ではコロナ禍は収束せず、インフルエンザも流行しだしている。これもまた、一種の年中行事なのかと思われるくらい、ぼくたちは感染症などの疾病と共存(共栄とはいかないですね)している。環境問題、ことに「温暖化」への諸国の取り組みも、一進一退というべきか。▼ かくして人類は大きな時間で測れば、ミクロン以下の微小・微細な単位でしか動いていないかも知れず、個人や集団に限定すれば、そのミクロン単位の変化は驚天動地の「錯乱」を生む源でもあるのです。事々に「一喜一憂せず」、「和而不同(和して同じず)」、つまりは「付和雷同」を自らに許さぬ態度、それができれば、人生も、もう少しは励み甲斐もあるのですが。(「徒然日乗」・XLII)(2022/11/27)(⬅ 画像はテレビ朝日)

▼ 親亀の背中に子亀を乗せて子亀の背中に孫亀乗せて ~ 俗言では「親方日の丸」という。雇い主は「日の丸」、要するに、国。「子方」である国家公務員の親方は「国」です。職務上の罪を犯しても、公務員個人は罪を問われないとすると、どういうことになるのか。この具体例を、ぼくたちはこの数年、何度も見せつけられてきた。総理大臣の「危難を救う」ために「公文書」の改竄を思いつた高級官僚はそれを部下に言いつけ、そのまた部下に命じ、さらにその部下に実行役を担わせた。「改竄」に手を染めた最下端の部下は、自責の念に駆られて「自殺」した。直属の上司も、その上司の上司も、さらに上司の上司の上司も、一切責任は問われないという判決が、昨日大阪地裁で出た。▼ これをまともに受け取るなら、凶弾に倒れた元総理がそうであったように、「下級公務員」を使嗾して犯罪行為を命じても、司直の手にかかることは「上級(特別)公務員」である限り、金輪際ないということです。無責任の万世一系が暴走する「永田町朝廷」とでも言い捨てるか。「お前、これに手心を加えろ」と命じた人間(上級公務員)は、何が起ころうが、手を汚さずに安穏と暮らせるのだ。命じなくても「魚心に水心」、「忖度(そんたく)」という語が乱れ飛んだ。▼ これを「法治国家」というなら、ぼくは、そんな「国」の一員であることを激しく恥じ入りながら生きる他ありません。(親亀が転(こ)けると子も孫も転けるのは当然。けれど、背中に乗っていない「その他の亀たち」まで転けるんだって、許せないね)(「徒然日乗」・XLI)(2022/11/26)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。