
<あのころ>進駐軍兵士と遊ぶ ギブミーチョコレート 1945(昭和20)年11月30日、進駐軍兵士の車に群がる子どもたち。マッカーサー連合国軍最高司令官が米軍機から厚木飛行場に降り立ったのは8月末、以来続々と各地に兵士が進駐してきた。「ギブミー」と、チューインガムやチョコレートをねだるなど、子どもは大人と違ってなじむのも早かった。(共同通信・2022/11/30、写真も)(この写真の拡大版には(キャプションが付けられていて、共同通信の「記事そのもの」になっているのはどうしてか、まだ調べはついていません。左下の写真です)(この写真の構図にはどこか違和感を感じます。この手の写真には同じような作為(演出)がありそうですね)
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ぼくもいくつかの「占領時代写真集」を所有していますが、大なり小なり、占領軍に関する写真には作為を感じるのは、日本人による「抵抗」を受けることなく、思うままに占領統治を展開することを考えた上でのことだったと思う。天皇制を先ず「存置」することを宣言し、ついで「柔らかな占領の展開」を狙うのは当然のことでした。「ギブミーチョコレート」は、最もわかりやすい「イメージ作り」だった。「鬼畜米英」と狼煙を上げ、勇猛果敢に戦ったつもりが「無条件降伏」の止むなきに到った。それまでの「敵愾心」はどこに消えたか、親米に早変わりしたのは、お得意の「異質との共存」だったでしょうか。自分がないから、すべて「他を受け入れる」という、この島の他文化受容の歴史(場面)がここにも現れたのでした。

戦時中の報道写真は言うまでもなく、戦後(占領統治時代)もまた、報道管制(検閲)が敷かれていました。右の写真はどこで撮られたかは不詳ですが、いかにも「演出」が施されているのが感じられます。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」というとおりです。子どもを手懐けるには、チョコに限るね。多くは「ハーシー」だったようです。

占領軍は「子どもたちにチョコレートを配る」という贈り物作戦を展開し、これを各新聞に載せた。占領を思い通りに進めるための方法として、おそらく占領したところでは、どこでも占領軍は「贈り物作戦」を展開します。現に、ウクライナに侵略を試みていくつかの地域を「占領」したロシア軍の取った作戦の一つもこれでした。「親切な露軍」「やさしいロシア」というわけです。すでに帝国陸軍は「支那事変」の際に、この贈り物作戦を展開し、「ヤラセ写真」を配った。獣性を隠すための優しい「日本軍」というイメージの安売りです。(「ギブミーチョコレート」の写真というと、これ(左右のもの)が出てきます。恐らく同じ写真ではないかと思います)

「親切」「優しい」という米軍に対する印象操作は、戦後一貫して続く「アメリカの属国」という、この社会の行く末を決定するのに大きな力を持ったといえます。もちろん、1960年の「安保条約改定」に際して「反米」「抗米」の嵐が吹き荒れたのは、米軍の本性を直感した人々の止むに止まれぬ態度であったのでしょう。それを知っていたがゆえに、さらに米国一辺倒という政治選択を選び取ってきたのが日本の政治世界の役割りでした。
戦後七十七年以上が経過した現在、日本の国是がなんであったか、端的に言うなら、可能な限り長期にわたる「米国占領」を望むことだったといえます。もちろん、さまざまな制約や禁止事項を施すような「強引な占領」ではなく、かなりの幅を持った「柔軟な占領」であることは間違いありません。しかし、現実には、日本劣島の至るところに「アメリカ軍」が駐留するという現実を見れば、徹底した属国視があったことは明白です。日本は「共産主義の防波堤」というのが占領国アメリカの「日本の定義」でした。それから外れることはあってはいけないことだったし、その範囲を越えようとする日本の(独立を目指す)政府は、必ず大きな阻害を受けたのです。ここでは、詳細は言いませんが。

米国は「占領統治」そのままの「日米関係」を望んできたのです。ぼくは戦後占領期を経験はしたのでしょうが、一切記憶に残っていません。後年、いろいろな資料を通して学ぶことになる。その際、「浮浪児」という単語に重い印象を持ってきました。中でも敗戦直後の上野駅周辺の「浮浪児」の写真は、強烈なものでした。これが敗戦国の実際だったと思うのです。やがて、多くの「浮浪児立ち」は狩り出され、都心からは消えていきます。その後に、ラジオドラマでよく知られるようになった「鐘の鳴る丘」は、文字通りの「孤児たち」のホームの生活を描いたものでしたし、さらには澤田美喜さんが始められた「エリザベスサンダースホーム」の存在も知られるようになりました。何十年前にもなりますか、そのホームの出身者だった米軍人と日本人女性との間で生まれた人が経営していたバー(六本木)に出かけて、いろいろと話を伺ったことがありました。屯する孤児たちの写真は、敗戦直後から暫くの間、あちこちで見られた「浮浪児」の風景です。「ギブミーチョコの写真と違いますね)(左は上野駅の地下道で生活する浮浪児たち=昭和23年6月 産経新聞:2022/08/15付)

ある時期を期して「孤児」「浮浪児」がどこかに収容されていきました。右の写真は、「狩り出された孤児たち」の一場面です。(鉄格子の施設に収容された「浮浪児」=東京・お台場で1946年7月・毎日新聞: 2022/3/29)孤児が都心から駆り出され、地方に送られた。その一つをドラマ化したのが「鐘の鳴る丘」でした。このラジオ放送を聞いた記憶はかすかにあります。でもその後の記憶の大半は、「テーマ曲」によるもので、時々思い出しては謳ってみています。いつでしたか、ぼくは信州にあった、この「ホーム」の跡地に立ったことがありました。もちろん「鐘」は鳴り響いてきませんでしたが。

● 鐘の鳴る丘(かねのなるおか)=菊田一夫(かずお)作の少年少女向き連続ラジオドラマ。1947年(昭和22)7月より3年間、NHKラジオで土・日曜を除く夕方15分間放送。「緑の丘の赤い屋根……」と始まる古関裕而(こせきゆうじ)作曲のテーマソングは、敗戦直後期の日本の子供の愛唱歌であった。粗筋は、戦後の混乱のなかにある東京と美しい信州の高原を舞台に、戦災孤児の保護に尽くす加賀美(かがみ)修平と孤児の竜太・黒ちゃん・巌(がん)ちゃんらが、孤児を食い物にする町のボスと戦い、最後に幸福になるというもの。映画化もされ、放送後、少年小説に書き直して出版された。(ニッポニカ)
「鐘の鳴る丘」(https://www.youtube.com/watch?v=zEc5ViEq8XQ&ab_channel=%E6%9D%8E%E5%B9%B3%E9%83%8E)

この「浮浪児」の集団の中に、いつでも「ぼく」はいた、としても不思議ではありませんでした。いまでも、ぼくの心象風景は、浮浪児の中のひとりだった。戦後を生きるということは、誰かの助けを借りなければならないのは、個人も敗戦国家も同じでした。そのことを、これまでもずっと考え続けてきた。ぼくは、けっして一人で歩いてきたのではなく、たくさんの人々の助けにすがって、ようやく歩き続けることができたのでした。もちろん、いつでも目に見えるように、誰かが助けてくれたのではなかった。しかし、一人でいるときこそ、ぼくは誰かの支えを実感してきたのは事実です。この国は、戦後「独立」したと言われます。果たしてそうだったか。サンフランシスコ講和条約を締結したのはいいが、そこからこの社会の米国への従属は始まったと言ってもいい。
● サンフランシスコ講和条約【サンフランシスコこうわじょうやく】=対日平和条約が正称。日本と連合国48との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約。1951年9月8日サンフランシスコで調印。1952年4月28日発効。日本代表は吉田茂。前文のほか27ヵ条よりなり日本の主権・平等を承認したが,外国軍隊の日本駐留継続を認めた。また朝鮮の独立,台湾・澎湖諸島,千島・南樺太の放棄を規定したが,帰属先は不明確のままで紛争の種を残した。沖縄・小笠原は米国を唯一の施政権者とする国際連合の信託統治下に入ることが予定され,それまでは米国の支配下に置かれることになった。中国・インド・ビルマ・ユーゴ・ソ連・ポーランド・チェコとは締結しない片面講話条約であり,同時に締結の日米安全保障条約とともに日本を対米従属下においた。翌1953年中華民国(国民政府)と日華平和条約を結び,インドなど6ヵ国とも1957年までに国交を回復。(マイペディア)
戦後政治を総決算すると、時の首相は事あるごとに言いふらしました。本音は、しかしそれとは異なる次元にあった。米国と疎遠になることは耐えられなかったのです。しかし、あまりにも対米従属が顕著になりすぎると、国民の信を得られないと、時には「お題目」のように「戦後政治の総決算」と嘯(うそぶ)いただけだったともいえます。その結果はどうなったか。米国本体も「日本という打ち出の小槌」を失いたくなかったので、互いがくっつきながら、主従関係を保ってきたのでした。やがてアメリカの要求は途方もないものになり、自国の軍事費は日本が負担ということになってしまいそうです。現に、ウクライナ戦争における米国の「武器供与」にも、実際上は日本の負担が入っているのではないでしょうか。そして、いよいよ「集団的自衛権」の出番がやってきそうで、この国の防衛省は「トマホーク」などという「毒矢」を買わされそうになっているのです。この島国には、どう考えてもそれは不要ですから、米国の肩代わりで「米軍用武器」を買わされる羽目になったのではないか。主従関係の行き着くところです。米国の「戦費調達」を日本がしているというのが「集団的自衛権」の実態だったのです。
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米巡航ミサイル「トマホーク」購入、日本政府が詰めの交渉…抑止力強化に不可欠と判断 日本政府が、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」の購入を米政府に打診していることがわかった。米側は売却に前向きな姿勢を示し、交渉は最終局面に入っている。日本政府は、保有を目指す「反撃能力」の手段として、国産ミサイルの改良計画を進めているが、早期に配備できるトマホークが抑止力強化に不可欠だと判断した。/ 複数の政府関係者が明らかにした。トマホークは米国の主力精密誘導型の巡航ミサイルで、射程は1250キロ・メートル超だ。全地球測位システム(GPS)衛星の位置情報などを使ってピンポイントで目標を破壊する。1991年の湾岸戦争で実戦投入されて以降、数々の実戦で用いられ、高性能ぶりを発揮している。/ 日本政府は、年末までに改定する国家安全保障戦略で、自衛目的で敵のミサイル発射基地などを破壊する反撃能力の保有を明記する方向で調整している。トマホークを反撃能力を担う装備とする考えだ。海上自衛隊のイージス艦の迎撃ミサイル用の垂直発射装置を改修し、搭載することを想定している。発射位置によっては、朝鮮半島などが射程圏内に入る。

政府は反撃能力の手段として、陸上自衛隊の「12式地対艦誘導弾」を射程1000キロ・メートルに改良し、活用する計画を進めている。ただ、量産化を経た実戦配備は2026年度とされている。政府内では、まず国外からミサイルを導入して反撃能力を速やかに確保した後、国産ミサイルも含めた装備を整える方向で調整が進められていた。/ 8月に就任した浜田防衛相がトマホークの導入を決断し、米側との交渉を本格的に進めた。日米関係筋によると、同盟国との協力などで抑止力を高める「統合抑止」を重視する米国防総省はおおむね了承し、米政府内での最終調整が行われている段階だという。/ トマホークは1発1億~2億円が相場とされる。日本政府は、米政府を通じて装備品を購入する「対外有償軍事援助(FMS)」を通じた導入を行うことを検討している。(以下略)(読売新聞・2022/10/28)

戦後七十七年が経過しました。四分の三世紀を経て、今なお「ギブミーチョコレート」と、この島社会の権力者(もどき)は米国に向かって手を出し続けているのです。昔のチョコはチョコならず、いまやそれは、「オスプレイ」であり、「イージス・アショア」であり「トマホーク」であり、ついには、アメリカの代わりに原発新増設まで命じられている。現総理が会長を努めている「宏池会」という派閥集団を創設したのは池田勇人です。一方で「清和会」を名乗る集団があります。言わずと知れた「米国追随」一辺倒です。(ここで戦後政治史を話すのは面倒ですからやめておきます)しかし池田氏の意図は経済的に自立し、米国からも距離を取っていかなければ、この国の将来は危険だというものでした。案の定、表ではなんとか言っていますが、本音のところでは「アメリカの属国」で終始(一貫)する政治路線が定まってしまった感があります。米国から離れられなくなったし、米国はいまのところ、この「金蔓(づる)」を手放すはずもない。島国の小さな政治権力を維持するために国を売るような振る舞いを続けてきた結果、もはや踵を返せない地点まで来たのです。現総理は、恥も外聞もなく、つまりは無節操に、アメリの尻尾にすがりつく道を選んだのであり、やがては意に反して、米国からも自国の政治家からも見捨てられることは確実です。そこにいきつくまで、この国が保つかどうか、じつに危ない袋小路(レッドゾーン)に嵌まり込んでしまいましたね。
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