無限無責任こそ、「親方日の丸」の国是なんだ

 森友改ざん訴訟 代理人弁護士語る2年8か月の舞台裏「裁判所が佐川氏らへの尋問の日程決めようとした直後に国が認諾」「公務員の個人責任に向き合うべき」 森友学園をめぐる公文書改ざん問題で自殺した近畿財務局元職員・赤木俊夫さんの妻・雅子さんが、当時の財務省理財局長・佐川宣寿氏に賠償を求めた裁判で、大阪地裁は雅子さんの訴えを退けました。今回の判決について雅子さんの代理人・生越照幸弁護士は向き合ってきた2年8か月を振り返ると共に「国が責任を認め、公務員に個人責任を負わせないのなら今後、真相解明ができない」と話します。(以下略)(MBSNEWS:11/26(土) 17:54配信)(https://news.yahoo.co.jp/articles/8d8f9cdd3a9350bac7e9ae65c020402c58bbf273?page=1

 裁判や法律にいささかの知識も知見も持たない素人が、何をごちゃごちゃ言ってるんだと批判されたり、非難の礫(つぶて)を投げられそうですが、素人だからこそ言わねばならぬ、そんな思いが募ってきて、抑えようがないのです。これまでも「国賠訴訟」裁判がいくつもありましたが、原告勝訴判決においての「国側の言い分」の殆どは、「金を払えば文句ないだろ」という、じつに低劣な、国民の権利を蔑ろにするものでしかありませんでした。裁判にならなかったケースも嫌になるほど多くある。今回の「森友文書改竄」事件でも、国は「金がほしいんだろ」「金を出せばお仕舞い」という不埒な態度で一貫していた(「認諾」という法廷拒否)。ならば、公務員個人の責任を問おうと訴えると、公務員個人に責任はない、国家や公共団体が賠償責任を負う、それでいいではないか、と。ついに、「真相究明」」「事実の解明」は果たされませんでした。「国民の知る権利」はどこに捨てられてしまったのか。(「金」の出どころはどこだと思ってるんだろうか)

 「親方日の丸」とは、親方の庇護を受けて、親方に忠義を尽くせば、なにをしても(とは言わないが)、子分は、原則的には罪を問われない。その肩代わりは国がするからというものだった。道理で「しゃかりきになって、国家公務員になろうと、多くが人生をかける」というのでしょうか。「釈迦に説法」ならぬ「馬の耳に念仏」のたぐいで、人民がどんなに苦しみ藻掻(もが)いていても、左団扇の国家・特別公務員には「馬耳東風」でしかない。つまりは「どこ吹く風」です。手に負えない連中が「国政」を牛耳っているのをなんとしますか。

 国民(人民)の権利を守るために「国」という形(かたち)を作り、その形に機能を与えるために制度・組織を整える、かつ納税によって、それを根底から支える、その制度・組織の根幹を歪めないために、権力の悪用・乱用を阻止するために「憲法」があるのです。その制度や組織を恣(ほしいまま)にし、あろうことか、自らが義務として擁護しなければならぬ「憲法」を葬るようなな行為しかしない、「国」に付着したにすぎない権力の横暴、そんなものはもはやいらないのではないですか。百害あって一利なし。憲法は権力の邪魔だから、変えてしまえという、それこど天に唾する愚策愚行を政治権力は、恥ずかしげもなく吐き続けている。そのためには「売国」もいとわないというに到っては言葉を失います。

 「人の権利に対する無知、忘却、または軽視が、公の不幸と政府の腐敗の唯一の原因である」(「フランス人権宣言 前文」)

 

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 「徒然日乗」(XXXVI~XL)

▼ 十一月二十五日、今から五十二年前のこの日、作家の三島由紀夫さんが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂行した。ぼくはこの事件を鮮明に覚えている。三島さんの「介錯」をした森田必勝君は大学時代の後輩。ある時、白い制服(軍隊を気取っていたのか)を着て学校に来たことがある。何のために大学に来たのか分からない風を装っていた。空手を嗜んでいたし、じつに喧嘩早い男だった。▼ 「楯の会」を組織した三島さんは、自衛隊隊員に蹶起を促し、クーデターを起こそうとしたという。夢を見ていたか、小説の主人公を気取っていたか。狂気の沙汰だと今でも想う。自らの「死に場所」を求めた結果の乱入だった。仕事に行き詰まったからというわけでもないだろうが、世間を騒がせたかった三島氏の蛮行の道連れになった森田君をはじめ、幾人もの「若者組」は、何を願っていたのか。まさか「革命(昭和維新)」など、と愚にもつかぬことを図っていたとは、ぼくには想像もつかない狂信行為だっただろう。▼ 事件当時、落ち着いたら、三重県にある森田のお墓(所在はわかりません)に線香を手向けに行きたいと望んだ。それからもう五十二年も経った。(「徒然日乗」・XL)(2022/11/15)

▼ 朝からゴミ処分、九時頃から始め、昼前までかかった。その多くは焼却します。引っ越し当座に、大谷石で焼却炉を、自作で設置した。大概のものはここで処分できる。訪ねてきた友人が、「何でも燃やすんだ」とぼくがいうと、「人間も、ね」と嫌なことをいう。まだ、生き物は燃やしたことはない。しばらく車庫に寝ていた猫たちの「塒(ねぐら)」を掃除し、いよいよ、車庫本来の使用目的にとの算段、冬支度ですね。それまで車は野天駐車です。▼ このところ犬や猫の「多頭飼育」失敗・崩壊状況が、いやに目につきます。ぼくのところも、決して少なくはない。失敗の共通問題は「避妊」「去勢」手術をしない(できない)ことが第一の理由だそう。ここに越して以来、すでに十数頭は手術を済ませた。八月生まれ軍団も、年明けには「予定」している(八頭)。さらに、敷地に入ってくる「野良」を捕まえ、手術台へ送ろうなどと、と余計なことまで考えている。(「徒然日乗」・XXXIX)(2022/11/24)

▼ 終日雨模様で、晩秋の深まりを感じています。低地ではあっても多くの樹木の緑が紅葉(黄葉)し、それなりの季節の移りゆきを覚える。庭の南側に、一本の銀杏(公孫樹・いちょう)の老木があり、大きくなると鬱陶しい(人間の勝手)のでと、毎年のように思い切り選定している。それでも旺盛な伸び盛りを思わせる育ちぶりです。銀杏(ぎんなん)はつけないようですが、そこまで育つ前に切るので、はっきりしたことはわかりません。居間の前には「侘助」という冬椿が一本、大人しそうに一輪一輪と咲いては散っています。▼ ぼくは、天気には文句は言わない人間で、雨もいい、雪もいいと、最初から諦めているような心持ちになります。家も古くなり、あちこちに綻(ほころ)びが来る頃。まるで居住人のようです。そのうちにやろうと放ったらかしていた雨樋の落ち葉掃除など、冬になる前にしなければならないことがたくさんあります。▼ このところ、子猫たちが成長して一人前にふるまうので、その世話で大童(おおわらわ)、いや反対に、猫たちに相手をしてもらっているのかもしれない。お互いに、一種の介護の「仕合」のようなものですね。今日は、「勤労感謝(旧新嘗祭)の日」だってさ。(「徒然日乗」・XXXVIII)(2022/11/23)(⬅ 赤木俊夫さんの遺書)

▼ 先日、役場から「地域振興券」なるものが送付されてきました。夫婦二人分で一万二千円分(追加で四千円分も)。財政逼迫の町が「お金」を配るはずはなく、いずれ国の「ばらまき」政策の一環であろう。節分の「豆撒き」でもあるまいに。政治・行政が「金配り」に堕してしまったというべきか。▼ 大本の政策を立案・実施するのではなく、金さえ配っておけば、文句はあるまい、内閣の支持率も騰がるだろうと。まさに、人気(支持)を金で買うということだ。国民も舐められきったものですね。気前よくばらまいた総額は、一体どれくらいになるのか。そのほとんどが「国債」という名の借金です。目配りが行き届き、民の声に耳を傾ける政治と、馬鹿の一つ覚えの呪文のように唱えているが、それでいいのですか。上(国)がこうだから、下々の行政単位も「上に倣え」と風になびく葦のようだ。▼ この「金券」をどうしたものか。ぼくも楽ではないが、ぼく以上に困難な日常に迫られている人の役に立ててもらいたいと思案している。政治の世界で、金を配るのは「馬鹿でもできる」というか、いや「馬鹿しかやらない」といった方がいい。国家の税金を活計(かっけい・たずき)にし、身命を賭していると嘯(うそぶ)く議員さんたちの捻り出した知恵が、これだけか、他にないのか。ウンザリするのも阿呆くさいな。(「徒然日常」・XXXVII)(2022/11/22)

▼ 高齢者運転の自動車事故が目に付きます。それも決して軽度のものではなく、死傷者が伴う重大事故が続く。一人の高齢者として、我が身に照らして、無関心ではいられない。アクセルとブレーキの踏み間違えが事故のほとんどの原因だとされる。たしかにそうかも知れないが、この踏み間違いは、世評にある「認知機能」の劣化に起因すると言えるかどうか。▼ ぼくは半世紀以上も前から車に乗っていたから、マニュアル車に慣れていた。アクセルとクラッチとブレーキの三枚のペダルがあり、アクセルとブレーキを間違えるということは、構造上からも考えられなかった。車の性能が向上し(機械任せになり)、誰もが気軽に運転できるようになった点はいいが、逆にそれが重大事故につながっていることも事実だと思う。▼ 事故をなくすためには、現行三年に一回の「認知機能検査」を毎年やるべしという意見もあるようだが、それで事故が減るなら毎月、いや毎週だって実施してもいい。しかし、なんだか本末顛倒した理屈のようにも思える。厳罰化すれば、飲酒運転が減るというのと同じで、現実には飲酒運転による重大事故はなくならない。もっと構造上の問題について考える必要がありそうではないか。▼ 車のエンジンやブレーキ、あるいはアクセルなどの操作上の問題(オートマといいながら、この部分はマニュアルのままなのだから)が指摘されているし、すべてではないにしても、特定の車種に事故が偏っているとも。どうして、この観点から、事故の頻発防止策を講じようとしないのだろうか。一方法として、十キロ以上の速度が出せない車があるといいね。(「徒然日常」・XXXVI)(2022/11/21)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。