「貧者の一灯」は言葉ではなく、微かな灯り

 【南風録】病気や災害、自殺で親を亡くすなどした学生らを支援する「あしなが学生募金」が先月、鹿児島市であった。ボランティアを含む総勢50人が道行く人に呼びかけた。▼毎年行ってきた活動はコロナ禍で中断せざるを得ず、約3年ぶりの再開である。その間、ウクライナ情勢などに伴う物価高が追い打ちをかけ、ひとり親家庭の困窮は深刻さを増す。▼あしなが育英会が今春、奨学生の保護者を対象にしたアンケートは窮状を訴える声があふれた。「切り詰めるのは食費。親として申し訳ない」。食事に関する記述が以前の調査より増えたという。▼保護者の平均月収はコロナ前の2018年でも手取り12万円に満たないのに、今はさらに減っているとみられる。希望する進路を断念した人もいるだろう。アルバイトが減った学生もいるはずだ。奨学金を得ても、貸与型ならいずれ返済を迫られる。▼米国人作家ジーン・ウェブスターの小説「あしながおじさん」の名にちなんだ活動は来年で30年になる。21年度は高校・大学生ら約8300人に計63億円を貸与・給付した。多くのあしながさんに支えられてきた。▼募金活動は遺児の現状を知ってもらう意味もある。一方で育英会の広報紙には、街頭で心ないことを言われたとの報告もあった。募金箱を手にしなくても、誰でも空腹や学費を心配せずに済む社会であってほしい。そう祈りたくもなる。(南日本新聞・2022/11/24)

 そんなに好きではありませんが、たまに使う言葉がいくつかあります。その一つが「貧者の一灯」です。ぼくは、物心両面において、富者ではないのはもちろん、それほどの困窮者でもないと、やや甘すぎますが、自分では想っています。しかし、ぼくの感覚としては「貧者」であると確信している。事実としても、理念としても、そうありたいと念じて生きているし、事実心身の両面では「貧者」ですね。他に誇るべきものは何一つなく、ふんだんに施しを行うほど余裕もない。でも、ぼくも貧しいけれど、もっと苦しんでいる人がいると思えば、いつでも「なけなしの寄付」を続けてきました。余り言いふらすものではないことは承知しています。文字通り「貧者の一灯」のような、そんな「薄明(feeble light)」にさえなれないかも知れぬが、そう願いつつ、ほのかな「一燈」を絶やさないできた。

 「あしなが育英会」にいつでも関心を持ってきました。この募金活動中の人を見ると、ぼくはきっと「なけなしの一灯」を灯してきたのではなかったか。近年では、ほとんど外出しないので、寄付が途絶えているのが残念という気もします。この活動団体についての詳細は省きますが、発端は「交通事故」犠牲者の遺族の思い・願いから始まりました。(あしなが育英会:https://www.ashinaga.org/)

 この活動を思う時、何人かの方が浮かんできます。その中で、一人の国会議員がいます。その人は、大学時代、ぼくの友人の担当するゼミ(演習)生でしたから、友人から、しばしば話を聞いていた。その後、政治家になられてから、何度か紹介されそうになりましたが、ぼくは会うことを避けてきました。文部大臣経験者として、どんなことをされたか、それを考えると会う気がしなかった。また、何年前でしたか、同じ会合で同席しました。しかし、ぼくは言葉さえもかけなかった。ぼくを紹介しようとした人は不快に想ったでしょう。彼は教育に大きな関心を抱き、その力を教育行政に捧げたいと言っていた。でも、その「教育」の方向や中身が、ぼくには受け入れられなかった。 

 理由は単純、ときの総理大臣と組んで「教育基本法」改正を盛んに主導していたし、それは憲法改正に直結した「美しい日本」を取り戻す政治野望の一環だと、ぼくには見えていたからです。ちょうどそのときに、「旧統一教会」の名称変更を受け入れ、宗教法人として「(再)認証」したのが彼(の大臣のとき)だった。今回、問題が明らかになった段階でも、彼は自らの責任の所在を否定しました。そういうこと(事実を否定し、虚言を吐く)をする人間だった。この人の父親が交通事故で亡くなった。九歳のときだったそうです。元文部大臣は、この事故をきっかけで政治家を志したと言われている。交通事故遺児として「あしなが」にも深く関わってこられたと聞きました。

 「交通遺児に対して奨学金を出すこの制度はちょうど私が高校一年生の時にスタートし、学校の紹介で奨学金を受け取ることになった。交通戦争が社会問題化し、父親を失った子供たちの支援が必要になってきていた頃である。同時に日本育英会の特別奨学金も受け取ることができた。当時は給付制があった。奨学金があったからこそ、苦しい中でも安心して高校時代を送れたのだった。/ その仕組みを作っていくのが、もしかすると政治の仕事なのではないか。私が、自分の中に「政治家になりたい」という目標を持ち、中でも「教育」という環境を整備して行きたいという気持ちを持つようになったのは、こうした苦しい数々の実生活が影響していると思う」(下村博文公式サイト:https://www.hakubun.biz/profile/upbringing/)

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 現内閣の閣僚のうち、法務大臣は辞職された。所管官庁の大臣でありながら、政治資金の使い方に幾多の問題があったという疑いが晴れなかったからです。いろいろな疑惑が出ていましたが、税金の使い道が「政治」ではなく、「政治家」自身の懐に入るような仕組みが放置されているとするなら、許しがたい不法であり不正であると思います。もう一人(もちろん、この人だけではないでしょう)、親族(妻・母)名義になっている建物に対する賃貸料支払いをしていたと、復興大臣が質されています。また義兄の政治団体にも寄付をしていた、その一部が不明だとされている。何れも政治資金の「自分への還流」が疑われている。「あしなが育英会」の「こころざし」を一方に置き、政治家の「還流疑惑」をかざしてみると、この国が、どうしてかくもだめになってしまったのか、火を見るよりも明らかだといいたくなる。公金のネコババ、横領、詐欺、この手の「盗人」「嘘つき」が国会や内閣に勢ぞろい(席捲)しているのですから、さもありなんというばかりです。 

 言いたいことは端的明白です。もう少し「美しい人」であっても損はないじゃないか、政治家諸君。やっていることを見ると、泥棒が聞いて呆れるような「悪業・悪行」ではないか。政治家は、まず「嘘つき」、それが特質だと、ぼくは考えてきました。ぼくも嘘をつきます。でも彼や彼女たちほどの大胆さはないから、政治家にはなれなかった。(なれなくて、良かった)ぼくらがつく嘘と、嘘の程度(レベル)が違うようです。嘘で固まっているのが政治家だと言われて、それは違うと反撃されますか。「あしなが」で育てられたら、そのお返しをするというのが「育英会」の趣旨だという。元文科大臣、どうでしょうか。

 復興大臣は、還流疑惑を指摘されて、「いやしくも他人名義の物件です。借りたら家賃を払うのが当たり前じゃないですか」と反応された(嘯(うそぶ)いた)、よくも、こんな悪手が出てきますな。仰せのとおりです。でもその他人が「妻」や「母」だったらどうですか、世間に通りますか。元法務大臣もそうだった、同じ敷地内の、妻名義の「事務所」の家賃を、妻に払っていたとか。「まだ疑惑が出てくるかもしれないから、確かなことは言えない」と、厚顔にも、言っていた元大臣も、名義の事務所への支払いを政治資金からしていた。借りたら払うのは当たり前。でも、そんなに紛らわしいことをどうして、わざわざするのか。疑われたら、嘘をついてで逃げる、こんな連中が「国政」を担っているというから、おへそもお茶を沸かさなくなった。ぼくのへそは「へそを曲げた」のだ。こんな八つ当たりみたいな駄文は、もう書きたくないと、以前に言っていたのに、元の木阿弥です。挙げ句に、総理大臣まで。何をしているんですか。法の網目に引っかからないような、抜け駆けの「功名」争いなんでしょうな。

 言えた義理ではありませんけれど、「人間の美しさ」について考えていたのです。汚い輩ばかりが横行しているから尚更、「美しい人間」について、です。「美醜」は好みがかなり働きますから、一概には言えません。ぼくのいう「美醜」とは、人間の精神の美しさ、です。「貧者の一灯」という言葉を出したのも、その「美しさ」を言いたいためでした。仮粧も何も要らない、素の美しさ、言ってみれば、良い教育も悪い教育も経験していない、素のママの人間性です。さらに言うなら、猫のもつ美しさ、ですね。猫は、(人間にとっていい)ことも悪いこともする。しかし税金を懐に入れようという知恵(才能)はない。猫になくて、人間にあるのは、家庭や学校に関わる「教育」の結果(成果)であり、おかげですね。ぼくには(他人に言うほどの)学歴もないし、もちろん才能は干からびたままです。でも、他人さまの「金」を自分のものにしようと、ない知恵を絞ろうという根性はないんですね、幸か不幸か。

 セコすぎるね。自分が所有している土地や建物をかみさんや母親の名義にする。その土地や建物を借りたことにすれば、賃料が発生する。それを税金が原資である政治資金から払うのが、どうしていけないというのだ。そのセコさが、卑しさが汚いし、美しくないんだといたい。人間の「矜持」ということを考える(無駄かもしれないが)。簡単にいえば、「プライド(自負心)」のことです。何において「プライド」をお持ちですかと尋ねたら、どうでしょう。「自分の能力を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド」(デジタル大辞泉)ぼく流に翻訳すれば、「自己評価」です。「私はこの点で偉いのだ」という、その自己評価が甘すぎるというか、間違っているんだと思います。「何において」自分を評価するか。もう、素の自分しかないんじゃないですか。「バッジ」がそれですか。自尊心の元ですか、バッジが。そう言いたくなります。

 貧者の一灯を灯せる「貧者」にこそ、ぼくは「美しい人」を見るのです。それはどこにもいないかもしれないし、すぐとなりにいるのかも知れません。あるいは、若い頃に強烈は影響を受けた「地の塩」の主宰者、千葉県市川に住んでおられた方の凄絶な生き方を、今も探し続けている。貧者の「生命の灯火」をかざされていたキリスト者(お名前を忘れています。山室軍平氏(左写真)に繋がる人だったと思う)、この方の面影にこそ「貧者の一灯」の輝きを見る。貧窮のどん底に生きていながら、なおその地の底を素手で掘り起こし、「地の塩」を探ろうといしていたのです。

● ち‐の‐しお〔‐しほ〕【地の塩】=イエスキリストの教え。神を信じる者は、腐敗を防ぐ塩のように、社会・人心の純化の模範であれとの意。模範や手本ののたとえ。(デジタル大辞泉)

 政治家は「地の塩」であれ、などと天地がひっくり返るようなことを言うのではありません。当たり前に、いい悪いの判断力を失わない生き方をしてほしい、それだけです。先ず「自分の頭に止まったハエを追うのがいいでしょう」、それだけです。そのために、政治資金を懐に入れる必要はないし、偽の領収書を書く(書かせる)小細工もいらない。真っ当と言うのは、素のままで生きることですよ。そこから「自負」が生まれるのかどうか、ぼくにはわからない。と言うより、そもそも、「自負心」がどうして必要なんですか、という問題ですね。

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