「法令に違反し公共の福祉を害する行為」って政府のこと?

 憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/ ② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。/ ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

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 再び、この問題に触れます。文科大臣の「質問権の行使」は英断などでは断じてないでしょう。以下の記事にもある通り、この宗教法人は過去には、裁判で違法行為と認定されたものが二十九件ある。何れも民事裁判の判決です。この他には刑事事件の確定判決も出されています。仮に、この民事事件の判例が「解散命令」の根拠となるなら(この先、そこに至るまでにいくつものハードルがあり、単純には見通すことはできない)、一体どういうことになるのか。違法行為を繰り返し、実際に被害を訴える人々が存在していたにもかかわらず、国はその問題を放置してきた(政治的不作為)、みずからの責任をどう取るのでしょうか。この法人が「名称変更」を申請し、それを受け入れ「認証」していたのも国です。この名称変更を認めた責任はどこにあるのか。犯罪行為を見逃していたと言わざるをえないし、当該法人を摘発する準備段階にあったとされるが、検察はそれを中断してしまったのはなぜか。

 仮に「解散命令」が出されたとしても、宗教団体の活動は制限されるものではありません。税制上の優遇措置が受けられないという、一定の不利益は生じますが、それ以外に特段の「宗教活動・行為」に支障があるものではないのです。この法人格の「認証」の意味はどこにあるのか。国家公認の宗教法人であるがゆえに、違法行為を重ねても、その権利は守られてきたというなら、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という憲法に抵触するのではないでしょうか。その疑いはおおきにあると、素人は考えます。

 政治と宗教と、一応は別物として扱われていますが、根っこは「権力行使」という点では同根です。だから「祭政一致」という表現は古式蒼然とはしていても、目指す方向は同じところにあるとも言えるのです。まるで双子のように、「独裁」「専断」「覇権」「統一・支配」がその中核にあると言ったらどうか。(左上と右の図は、何れも読売新聞・2022/11/11)

 ここに及んで、じつに奇妙でもあり、じつに不愉快でもある地点に至る。もし、本年七月八日に「元総理」が銃弾で倒れなかったら、今あるような事態は起こらなかっただろう、それが第一です。加えて、当該教団の信者の息子が、手製の銃で元総理を「殺害」したから、この教団が抱えていた看過できない問題群(犯罪か、犯罪に等しい行為)が顕在化したとするなら、「殺人行為」はどのような意味合いを持つのでしょうか。もちろん、理由の如何を問わず、「殺人」は認められない。しかし、認められない「犯罪行為」によって多くの被害者が「救済」されるとしたら、その「行為」の意味合いは変わるのではないでしょうか。「犯罪行為」を繰り返していた団体と深く交際し、癒着の域にまで達していたのが「最高権力者」だったという、この時代には、よほど乗っことでもない限り、まず他国では見られない現象(事実)を否定できるのかどうか。

 「外形的、客観的に違法行為や反社会的行為をすれば、それは当然取り締まりや制裁の対象になります。『信教の自由』を錦の御旗(みはた)や隠れみのにして反社会的活動が許されることがあってはなりません」(南野森、九大教授:毎日新聞・ 2022/8/30)

 また、不幸にして「凶弾に倒れた」人物が、結果的に「反社会的集団」と深い関わりを持ち、そのことで、当該団体に「利益(便宜)供与」をしていたとするなら、その「責任」はどう問われるのでしょうか。名称変更の承認(認証)は、その最たるものだとも言えるでしょう。政治行政の当事者「責任」が問われないなら、まったく「憲法二十条」を踏み躙(にじ)ることになります。

 現総理が「質問権の行使」を決断し、「解散命令」を、というところまで導いた大きな理由は、自らの評判、つまりは「内閣支持率」の急激な下落の回復(挽回)にあると巷間では、広言(公言)されている。自らの延命策の一環として、この宗教を騙る「カルト団体」の行為を政治的に利用したという疑いは濃厚です。二重・三重に、憲法に違背する行為であり、被害者の人権を蹂躙する、権力の不当・不実な行為だと言わなければならないでしょう。

さらにこの団体の許されざる行為として「養子縁組」の強要があります。報道されているだけでも、「七百件超」もの違法行為がありました。養子縁組(制度の詳細は省略)は法律(民法)に基づく行為であり、当該団体は、ここでも違法行為を重ねていたことになります。「信者獲得」「確保」のあくどい「人攫(さら)い」というべきでしょう。詐欺商法を繰り返し重ね、家庭や子どもを食い物にし、信者を迷妄に導く、許しがたい兇徒・暴徒集団だといいたくなります。これを宗教集団として「認証」するというのは筋が違う。宗教ではなく詐欺商法集団にほかならないからです。

 数々の違法行為や、人権侵害を繰り返してきた団体ではありますが、これまでまったく放置されてきたのは、政治権力の「庇護」、いや「癒着」「もたれ合い」のもとにあったからだとするなら、もはや取り返しのつかない、宗教団体と政治団体との共謀による「法治国家における犯罪」です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という「勝利至上主義」は、この島社会のあらゆる部面を汚濁し、堕落させ、損壊させてきました。この一連の「宗教法人法」に基づく政治判断が、どこまで進められるか予断は許されません。ぼくは相当に悲観しています。政教癒着が行き着いた結果が、今回の「銃撃事件」であり、不当かつ不法な人権侵害の「暴露」「顕現」でありました。(このような癒着は「信教の自由」に名を借りた政教野合であり、決して「統一教会」と「政権党」だけに限定されない問題です)

 ここでも「他山の石」という俚諺を持ち出しておきたい。

 宗教を騙り、人心を惑乱させ、神仏の存在を疑似餌にする「時代病」「アヘン依存症」の大量生産は、ますます増長の度を深め、空気感染力を強めているのです。この島社会は、どう考えても「偽宗教国家」に成り果てようとしているのです。このまま放置していたら、中東のイスラム諸国のように、驚くべき「禁忌」や「戒律」に支配され、近代社会の「光明」が一気に消されかねない事態を迎えることになっていたかもしれない。「信教の自由」を標榜するものは、別(他者)の「信教の自由」を阻害する傾向にあるのは事実です。まだまだ、この島社会は「宗教国家」とはいえないかもしれないが、自由にものが言えない、自由に話すことができない時代のとば口に入りかけているのは事実です。なにかあれば、「個人の権利」「個人情報の保護」という「決まり文句」を盾に、あらゆる情報が遮断されかかっているではないか。「墨塗り社会」はすでに出来上がっています。「公明」「公正」が風の一吹きでかき消されてしまったのです。(「オウム真理教」の再現のような、極めて憂慮すべき事態が進行していたという驚愕の事実に、ぼくたちは無知・無関心であり続けるんですね、ことここに到っても)

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 旧統一教会の解散命令請求可否を判断へ 初の質問権行使を永岡桂子文科相が表明 永岡桂子文部科学相は22日、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に対して、宗教法人法に基づく質問権を行使した。1995年の法改正に伴う権限創設以来、行使は初めて。文科省は、献金を巡る旧統一教会などの賠償責任を認めた22件の確定判決を把握しており、判決などを基に調査を進め、解散命令請求の可否を判断する。(榎本哲也)/ 文科省によると、権限行使の通知は22日午後5時15分ごろ、書留で旧統一教会に送った。組織運営関連の書類、収支財産を記した帳簿類の提出を求めている。期限は12月9日。/ 宗教法人は役員名簿や財産目録の写しなどを毎年、所轄庁に提出しているが、文科省は、それでは調査に不十分だと判断した。/ 宗教法人法では、法令に違反し著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為などがあれば、裁判所が解散を命令できると定める。/ 文科省の調べでは、旧統一教会や信者の賠償責任を認定した民事訴訟の確定判決が1994〜2021年に少なくとも計22件あり、賠償額が計14億円に上るとしている。/ こうした事実が解散命令の要件に該当するかを立証するため、宗教法人審議会の答申を経て、質問権行使に踏み切った。今後、提出された書類などを分析して、行為の組織性や悪質性、継続性が明らかになれば、解散命令を裁判所に請求する。/ 必要なら、再質問や面談、教団の同意を前提とした立ち入り調査をできるが、事前に宗教審の了承が必要となる。/ 永岡氏はこの日午前の閣議後会見で、質問内容が憲法で定める信教の自由を侵害しないかについて「宗教審で議論しており問題ない」との見解を述べた。(東京新聞・2022年11月22日 20時28分)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)