「奇跡はロスタイムに起こる」って、あるのかな

 「断末魔」という。「仏教では、末魔に触れて命を断つこと。末魔はサンスクリット語のマルマンmarmanの音写で、『関節、致命的な部分、傷つきやすい場所』を意味し、結局『急所』のこと。特殊な急所に触れて、末魔を断てば死に至ると考えられ、また末魔を打てば精神に異常を生ずるともいう。転じて、『まさにいまわのきわの苦しみ。息を引き取るまぎわの苦しみ』をいい、『断末魔の苦しみ』という」(ニッポニカ)末魔に触れられて、のたうち回るということでしょう。今や、七転八倒の苦悩・苦悶状態にあるというのが、この社会の内閣であり、政府でしょう。「とかげの尻尾切り」よろしく、次々に不祥事が発覚する「大臣(おとど)」の首の挿(す)げ替え音頭や、取替囃子が鳴り渡っています。この大混乱も、ぼくには「断末魔」闌(たけなわ)の図にしか見えないが、諸大臣を任命させられた(任命を強いられた)現総理は、脱毛に苦しみ、恐らく胃潰瘍も併発していそうですが、潔く身を引くということを知らないようです。神経があってのことか、無神経のゆえに「危機感ゼロ」なのか、とにかく延命治療に躍起になっているようです。

 辞任騒ぎが起こるたびに「任命責任は私にある(ほんとか?)」と宣(のたま)い、「その責任は重く受け止める」と、(神妙を装って)じつに軽々しくいう。「鼎の軽重」が問われているんですが。聞く耳はお持ちではないようです。責任を取るというのは、身を引くということでしかありません。「捲土重来を期す」というではありませんか。「失敗は成功の母」とも。潔く、と行きたいですね。しかし、死に体になったら、怖いものなしで、なにを仕出かすか知れないのも「小心者」特有の気味悪さです。入れ替わり立ち替わり、登場人物は同じではないのに、どうしてこうも「そっくりさんたち」が引き上げられるのか、ぼくには不思議でもなんでもありません。天下の永田町色に染め上げられた「御仁」たちですから、似ないほうが不思議というもの。そうこうしている間に、この社会の持ち時間(寿命)は、タップリあるといえばあるし、もはや「ロスタイム」に入っているとも、ぼくには思われます。

 奇しくも三十年前の「ドーハの悲劇」の舞台が回り始めました。ロスタイムの一瞬に「一発逆転」を狙いたいところですが、走れない、守れない、自分のパフォーマンスばかりにかまけるし、肝心のボールを見失っている選手ばかりで、ひょっとして、相手はグラウンドにはいないのかもしれない。つまりはもう試合は終わっている(ゲームセット・タイムアウト)のだ。観客の誰もいない競技場で「下手な(シャドウ)ボール回しをしている」姿が、かすかに見えています。「やっている感」ですね。歓声は絶えて聞かれない。(あっ、キャプテンが「ハンド」を犯したようだ。ここで、ゲームセットのホイッスルが鳴らされました)

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 「徒然日乗」(XXX I~ XXXV)

▼ 今年の二月に冬季北京五輪が開催され、二十日まで続いた。その記憶がすっかり消え失せてしまったのは、高速度で老化現象が進んだせいばかりでもなさそう。閉幕式の四日後に「ウクライナ侵略」があったし、今なお、「停戦」の気配すら見えない、その長期間の関心の意識的持続が、ほぼ同時期の「民族の祭典」の記憶を失わせたのだ。▼ 数日前にウクライナの隣国ポーランドに「ロシア製ミサイル」が着弾、二名の村人が亡くなった。いち早く、ロシアが発射、とウクライナはいい、米国大統領はロシアからのものではない証拠があると声明。真相は不明だそうです。▼ 大方はウクライナの迎撃ミサイルが着弾した(ようだ)というが、さて、と素人は首を捻(ひね)る。長期戦の疲れは当事国にも、支援する側にも激しさを増している。「停戦」「終戦」を促す報道が出てきたり、ロシア側もテーブルに付きたい素振りを見せている。どこかで、誰かが(引導を渡すために)糸を引いているのではないか、これが素人の下衆の勘繰りです。▼ こんなお節介ができる国は(AかBかCかDか)、そんなにあるわけではない。ウクライナの頭越しに、今や「終末」に向かっているように、筋書きは書かれている気もするのです。なにはともあれ、「戦争」が終わるのはいいことだと、諸手を挙げて賛成したいのだが。(「徒然日常」・XXXV)(2022/11/20)

▼ 憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。/ ② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。/ ③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。▼ この二十条の規定に照らして、ある宗教法人の認証を取り消し、解散を命じるかどうかの議論が国会でなされているらしい(偽装を疑っているのです、ぼくは)。仮に解散命令を出す根拠として、これまで下された「有罪判決」を持ち出すなら、この間の政治的不作為(民事・刑事両裁判で違法行為が認定された)を、一体どのように解消・整理するのか。すでに違法であると判断されていたにもかかわらず、その脱法行為を見逃した(無視し、放置した)責任はだれが取るのか。▼ 「解散命令」を出すという姿勢(ポーズ)は「目眩まし(儀式)」、悲しいかな、アリバイづくりとしか受け取れないのだ。(「徒然日常」・XXXIV)(2022/11/19)

▼  露の世は露の世ながらさりながら(一茶) ぼくの非常に好む句の一つ。この世の儚(はかな)さは、まるで露のごとくとは知っているけれど、でも(やはり)儚いなあ、なんとも致し方ない儚さだ、それでもなあ…。これは「さと」が幼くして亡くなったときの句です。文政二年(1819年)正月を祝って、その六月に「疱瘡」で身罷る。満二歳。ご難続きの一茶でした。その年には脳溢血だったかで、一茶自身が倒れ、不幸のどん底に沈んでなお、「露の世は露の世ながらさりながら」でした。地獄に行って帰ってきたような、そんな時期の、弱気と強気の糾(あざな)える縄を編んでいたのです。(「徒然日乗」・XXXIII)(2022/11/18)

▼「権利の保障が確保されず,権力の分立が定められていないすべての社会は,憲法を有しない」と書かれた文書(条文)があります。国民各人の権利は蔑ろにされ、三権分立が踏みにじられている国家・社会とは、まるで、今日の何処かの(複数ある)国のようではないか。議会は無視、内閣独裁で、立法も司法も無用にする、憲法のない国家・社会。「国葬」規定は存在しないのに、閣議決定で済ませる。ある島国の、この二十年ほどの「政治状況」は、まさに「憲法のない社会」でした。そんな無法・独裁の社会の出現・実現を、多くの国民は望んでいたのか。▼ 総理大臣が率先して「憲法改正」を言い出すという前代未聞の珍事が罷り通り、その張本人は「憲法違反」をものともしない政治活動の故に凶弾に倒れ、「無憲法国」による「国葬」で弔われたという茶番。(先に掲げた文書は何か。現国会議員の何人が、この「条文」を知っている(読んだことがある)か。怖くて尋ねられないほどの為体(ていたらく)であり、頽廃(たいはい)の極地だな、この東海の一小島の現実は)(「徒然日乗」・XXXII)(2022/11/17)

▼ 今は朝の六時半。日の出は6時16分。昨日来の寒気も緩み、日差しが眩しくなってきました。この時期になると「冬景色」という唱歌を歌いたくなります。「烏啼きて 木に高く 人は畑に 麦を踏む♪」 近所に(乳牛)牧場があり、その飼料を狙うためか、カラスの溜まり場が方々にある。木に止まって鳴くという風情は微塵もない。かなりの悪戯をする。庭仕事の休憩用にと、外のテーブルに置いていた「茶菓子」を盗まれたり、入れ替えた水飲み場はすぐに汚されたり。屋根を歩くときは、人間なみの足音を立てる。その他、なんとも騒々しい鳥ですね。ネズミや蛇を食料にするために捕獲する様子を目にすることもあります。獰猛というか。それにしても、うるさい、野菜や果物を横取りする、追っかけると襲ってくる。一度など、行く先を阻まれて威嚇されたこともあります。▼ 夕方五時に防災無線から「夕焼け小焼け」が流れると、一群となって塒(ねぐら)に帰る。近間の高い松などの樹上にあります。なかなか規則正しい生活を送っているようです。雨にも風にも負けない強さがある、視力は抜群だし、瞬発力も凄い。カラスの近い先祖は何だったのかと、大いに関心を唆(そそ)られます。▼ 今日の「冬景色」ですっかり姿を消してしまったものに「人は畑に 麦を踏む」という情景があります。十年ほど前にはわずかばかり残っていました。当節の「麦」輸入品値上げ問題からも、この島でも「自給」栽培が復活することを大いに願っている。小さい頃の「麦踏み」を、寒風の冷たさといっしょに懐かしく思い出します。(「徒然日乗」・XXXI)(2022/11/16)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)