「男 VS 女」ではなく、「人間」として美しくありたい

 【北斗星】県内の高校に今春入学した女子生徒4人がそれぞれ軟式野球部に入った。男子と共に白球を追い、練習試合では主力としてプレーする選手もいる。しかし公式戦で選手としてベンチ入りすることはない。日本高野連の大会参加資格が「男子生徒」と定められているからだ▼4人は公式戦出場を熱望。うち1人が所属する秋田工軟式野球部の猪股力監督(44)も「男女一緒に練習していて大きなけがもない。競争ではなく、性別が理由で公式戦に出られないのはいかがなものか」と話す▼他県では指導者らが女子の公式戦出場を日本高野連に要望する動きもあるが、具体化はしていない。猪股監督も本年度、県大会でのベンチ入りを県高野連に打診した。だが東北大会や全国大会につながる試合のため、県単独では判断が難しく、実現しなかった▼県内の高校軟式野球部は部員確保が課題だ。今秋の県大会、東北大会では部員不足の学校同士の連合チームがあった。女子がベンチ入りできれば単独で出場できる学校もある▼昨夏の東京五輪は国際オリンピック委員会が重視する男女平等が推進された。選手の男女比を同等に近づけたり、男女混合種目を増やしたりした。スポーツ界では男女平等が世界的な潮流だ▼県内全6校が出場する毎年春の軟式野球リーグ戦は東北大会や全国大会につながらない。指導者の間では、来春のリーグ戦で女子を出場させる話が持ち上がっている。第一歩として、ぜひとも実現してもらいたい。(秋田魁新聞・2022/11/17)

 

【有明抄】ハルウララ、その後 テレビで懐かしい姿を見た。高知競馬で1勝もできずに負け続けた競走馬「ハルウララ」。現在は千葉県の牧場で飼育され、スマホ向けゲーム「ウマ娘」の影響で若い見学者が増えているという◆ハルウララの初出走は1998年11月17日で、きょうはデビューした日でもある。そこから2004年8月の最後のレースまで連戦連敗。トップ騎手の武豊さんが騎乗しても勝てず、最終成績は113戦0勝だった。負け続けて人気を集めた競走馬である◆話題になったのは03年夏ごろから。日本経済はバブル崩壊後、厳しい状況が続いていた。負けても負けても走る姿に「リストラ時代の対抗馬」「負け組の星」と注目された。勝ってこその競走馬だろうが、社会の空気が重なって希望の象徴になった◆ウマ娘の公式サイトを見ると、ハルウララは「才能はないが、決してくじけないウマ娘」とある。ゲームの知識は全くないが、実在の競走馬を擬人化しているそうで、勝てなくても元気を与える設定なのだろう。優秀な人は必要だが、才能がなくても頑張る人は大切だと思えば、わが身を慰め、言い聞かせているようでもある◆ハルウララは人間でいえば80歳ぐらいになったという。現役時代は愚直に走った。それで十分。あとは穏やかに過ごせる。これも、わが身に言い聞かせているような…。(知)(佐賀新聞・2022/11/17)

 ぼくは競馬(馬券)はやりません。まだ中学生のころ、シンザンやコダマが走っていた時代、ほんの少しは覗いたことがあります。でもそれ以外にほとんど興味を持たなかった。時代を経て、ハイセイコー(右写真)が走っていた時代にも、その力走ぶりを見たことがありました。「地方競馬の星」とかなんとか言われて、中央競馬の強敵をぶっち切って勝っていたからでした。やがて、騎乗していた騎手(増沢末夫さん)による「さらばハイセイコー」というレコードまで出ました。一種のブームでしたね。

びっくりするほどの大きな馬で、どっしりとした姿で、加速がつくと圧倒的な走りを見せていました。都会と田舎(中央と地方)などという上下(優劣)を明らかにしたような物言いには、ぼくは大いに反旗を翻してきましたが、競馬の世界においても「中央競馬」「地方競馬」などという、まるで「一軍」と「二軍」の差を思わせる表現がまかり通っています、今も。だから、地方からやってきて、中央のサラブレッドをなぎ倒したハイセイコウは大成功(ダイセイコー)だったのでしょう、大いに元気づけられたおじさんたちがいたのでした。無類の競馬好きだった寺山修司さんに「さらばハイセイコー」という詩があります。(レコードとは別物)寺山さんは、「人生の学校」は競馬場だったいうほどの馬好きでした。彼の表情をしげしげ見ていると、だんだんに「馬顔」(馬面ではない)なってくるんですね。

ふりむくな
ふりむくな
後ろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
全てのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる(寺山修司「さらばハイセイコー」から抜粋)

 ハルウララ(左写真)の走っているところを見たことはない。いつもニュースで「また負けた」「百連敗」などという残酷な場面を、顔をしかめて見ていた記憶がある。競馬界の人間たちとは、なんという「えげつない人種」「いじり派」だろうとしみじみ思ったことでした。引退後は、流転馬生(バショウは落語家)で、終の棲家かなのか、なんと房総の御宿(「月の砂漠」の海岸)にある「マーサファーム」で「余生」を送っているという。いちど会いに行ってこようと思っていたところでした。(「ハルウララ 再脚光 「ウマ娘」ブームが一役」東京新聞・2022年5月12日)「二十年ほど前、負けても負けてもひたむきに走り続けて一大ブームを巻き起こした元競走馬、ハルウララの人気が再燃している。余生を過ごす千葉県御宿町の牧場に、当時を知らないにもかかわらず遠方から見学に訪れる若者が増加。背景を探ると、名馬を萌(も)えキャラに擬人化したスマートフォンゲームの流行が魅力の再発掘に一役買っていた。」「ハルウララは高知競馬で一九九八年デビューの牝馬(ひんば)。負ければ負けるほど人気が高まり「負け組の星」と話題を呼んだ。百十三連敗を数え、二〇〇六年に生涯未勝利で引退。牧場を転々とした後、一二年十二月から房総半島東部にある御宿町の「マーサファーム」に預けられた。今年二月で二十六歳となり、人間なら八十歳近くに相当するが、今でも元気いっぱいだ」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/176800

 競馬は「男女混合レース」(同じ馬場に立つ)が基本です。男女別の競争もないわけではありません。しかし、男女の別を超えた「競走」が醍醐味なのでしょう。並みいる牡馬(ぼば)を切り捨てる牝馬(ひんば)がいつでもいます。この駄文録集でも、牝馬の強さを見せつけた何頭かの競走馬について触れたことがあります。常負のハルウララが多くのファンを得たのはどうしてか。八年間走り続けて、113 負 0 勝。もちろん、ウマ自身が走り続けたいと願ったわけではない。また、いつか勝ちたいと密かに想っていたのではないでしょう。人間の仕打ちは美しくない、いや汚いと言いたい。それはともかく、ひたすら走って、負けつづける、そんな牝馬の、拙劣な馬生(ばせい)に、己の人生を重ねてみた多くの人(男女を含む)がいたのは事実でしょう。よく言ったでしょ、「負けるが勝ち」と。「つまらない争いは避け、その場の勝ちは相手に譲るのが賢明で、最終的な勝利につながる」(諺を知る辞典)反対に、「勝ち馬に乗る」とも言います。「有利な方につく。勝った方に味方して便乗する」(同前)さしずめ、永田町の「総裁レース」のような右往左往、虎視眈々、岡目八目か。要するに、「節操のなさ」ですね。自分がないのもはなはだしいということ。

ハルウララ(ウマ娘) とはCygamesによるメディアミックスプロジェクト『ウマ娘プリティダービー』の登場キャラクター)

 「日本高野連の大会参加資格が『男子生徒』と定められている」というのですから、諦めるしかないと考える必要はない。ジェンダーギャップを排除したくないのは「男」です。仮にそのギャップをなくしたら、今以上に「男社会」のいい加減さ、でたらめさが明らかになるからでしょう。しかし男女差をなくすれば、おのずからある種の「新人類」に、既存の性は生まれ変わることは確かです。いい表現はできませんが、政治の世界では、ことに日本では「ジェンダー・ノンフリー」が根強く残っています。でも、それを超えて進出した女性政治家は、ものの見方も態度も、ある種の「政治家」像に接近しているようにもうかがえる。もちろん、いい面も悪い面もあります。アスリートの場合はどうでしょう。男性女性の枠を取り払って、条件を平等にすると、必ず男性が勝つとは限りません。すでに男対女の枠を超えて物事は動いているのです。加えて、LGBTQの人々も加わると、ぼくのいう「競馬場状態」です、そのような新たな場面(次元)が生まれるでしょう。

 この島の大学が女性に門戸を開放したのは戦後になってからでした。選挙権や被選挙権も、しかりです。女性に権利を認めたら、男の領分が奪われるという恐怖感、現実感、危機感があったからです。いまでは、部分的には女性が圧倒しているところもあります。生活の次元・仕事の場面でのジェンダーフリーを、と主張すれば、まず騒ぐのは男どもです(「統一教会」も強硬に反対しているね)。でも、競馬界を見てご覧、とてつもないアマゾネスがいたではないですか。人間社会でも同様だといえば、ひんしゅくを買いかねないが、なんといっても事実ですから。大学に女性が入ってきて、もっともだめになったのは男でした。学ぶことが疎かになったんですね。今や、研究者でも女性の活躍は圧倒的です。さらにジェンダーフリーが実現の度を増していくと、いい刺激を受けるのは男どもではあるんですね。既成の領分で、権利にしがみついている姿は、じつに見苦しい限りですよね。

 高校野球界も苦労しているし、苦心のしどころです。「高野連」に女性の理事さんがいるのかどうか。ぼくは野球は好きでしたが、勝ち負けにこだわることが嫌いでしたから、すっかり関心を失いました。大事なのは、何ごとでも楽しむことです。技を競う、腕を磨く、切磋琢磨という。「 (「切」は刻む、「磋」はとぐ、「琢」は打つ、「磨」はみがくの意)」(精選版日本語大辞典)また同じ語には「仲間同士互いに戒めあい、励ましあい、また競いあって向上すること」(同前)とあります。とするなら、ウマは男女差をなくして「競い合っている」のに対して、人間社会では「男は女を仲間として認めていない」ということですね。馬にも劣る男ども、というべきか。

 ぼくの友人だった江戸文学研究者の、大学院時代の恩師だった人が「女子学生亡国論」を吐いたことがあります。今から半世紀以上も前でした。今では女子学生がいなければ、「大学廃業」時代が到来していたでしょう。その教授は「女性好き」だったとも聞いていました。女子学生は嫌いだけれども、女性は好きというのが「男」らしくない男の見本だったと思いました。T 教授の真意は、大卒女性が社会進出をしないで結婚するから、、社会が男ばかりで進歩がないのだ、それを簡略に「女子大生亡国論」といった。いまさら甲子園なんか、というと批判の矢が飛んできます。高校野球を食い物にしているのは新聞社だし、おしなべてマスコミはスポーツを飯の種にしていますね。その甲子園に女性が進出すると、何年か後には「プロ野球」にも女性が押し寄せてくるでしょう。それは困る、女性は淑(しと)やかでなければ、家庭を守ってくれなければなどと、そんな「時代遅れの寝言」を言っているから、この島は沈没するんだね。ハルウララや「ウマ娘」に惹き付けられる男たちがたくさんいるというのは、いい景色(眺め)なんでしょうか。(左上は「最強の牝馬」と言われる「ダイワスカーレット」、牡・牝を超えた「最強の馬」ですね。人間でいうと、「最良の人」ですか)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。