「注意は他人(ひと)のためならず」ですね

 【編集日記】安全確認の基本に指さし呼称がある。行動の正確さが上がるとされ、鉄道や工場などさまざまな職場で浸透している▼ことわざで表すならば「打たねば鳴らぬ」。何をするにしても、行動しなければ成果や結果が得られないことを意味する。「ことわざ・格言にならう安全衛生訓」(労働新聞社)では、打てば鐘が響くように、指さし呼称を徹底しようと訴えている▼「千慮の一失」は、よく考えたつもりでも、思いがけない失敗があること。人の注意不足を補うために文明の利器を頼っても、作業手順や環境の変化が、新たなミスを生む要因になることがある。万全とはいえない。便利なようで手間が増えれば、手を抜く人が出る▼あのときに確認さえしていればと、後悔は尽きないだろう。大阪・岸和田で女児が自家用車に放置され、熱中症で亡くなった。保育所に預けたという父親の思い込みに、施設側の連絡不足が重なった。岩手と広島では、命に別条はなかったものの、送迎バスに児童が置き去りにされた▼昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない。(福島民友新聞・2022/11/17)

 このところ、立て続けに車内に子どもを放置したままで、何時間か後に気がついて見たら、「熱中症」等で亡くなっていたという事件(事故なのか)が発生しています。問題の発端は、ある保育園の送迎バス内での「降ろし忘れ事件」でした。どうしてこんなことが起こるのか、問題にすること事態が愚かしくなるような、人間の「不注意」です。不注意による事故は日常的に、誰にも起こっています。急いで階段を降りて、躓いて落ちた、信号を見落として事故を起こした、スマホをいじりながら歩いていて、他の歩行者と衝突した。こんな類の事故は誰にもつきもので、さいわいに大事に至らなかったから、問題にならなかっただけです。交通標語は好きではありませんが、「注意一秒、怪我一生」(実際に起こるのは、「注意一秒、落命一秒」なんでしょ)。「ヒヤッとした、あの瞬間を忘れるな」などなど、それこそ「ドキッ」とし、「ヒヤッ」とするような「標語」ばかりです。この手の事件や事故が発生する最大の理由(原因)は、じつに単純です。「不注意(carelessness)」、それだけです。不注意とは、「不用心」ということであり、物事に気を配らないことです。

 (若い頃に、たった一度した、怖い経験を忘れません。青信号で交差点を通りきろうとしたら、信号無視の車(女性が運転)が突然侵入、危うく衝突しかけたが、咄嗟にブレーキを踏んで事なきを得た。信号無視で走り去った女性は、仰天して目を剥き、手を口に当てた片手運転の格好を、その驚愕した表情とともに、今もって忘れない。不注意な人間による間違いに巻き込まれる、そんな「不注意」を自分は犯したくないというのが、ぼくの運転の際の戒めです)

 気を配ることは「注意(attention)」を払うことです、自分のすること、しようとしていることに配慮すること、気を配ることです。ぼくは、繰り返し、人間の道徳問題の「中核」は「注意深くなること」だといい続けてきました。いくつかの本も書きました。なぜか。ぼくたちが犯す「誤ち」「不幸」の十中八九は、大小と問わず「不注意」によるものだと、自ら経験してきたし、今でも経験しているからです。多くの人は「注意する」といいますが、その相手は「他者(自分以外)」です。それはおかしいというか、間違っていると、ぼくは度々、この駄文収録でも言ってきました。「信号を守りなさい」と注意するといいますが、実際に守るかどうかは「当人」です。だから、当人が信号を守る(注意する)ように忠告するのでしょう。注意すると忠告するは、いっしょじゃないかと言われそう。でも、どんなに大事な忠告を受けても、それをやるかやらないかは当人次第です。

 決して言葉の問題ではなく、道徳の核心部の問題なんですよ。なぜ、人間は間違いを犯すか。自分の置かれている状況をよく見ないからです。慌てる、他に気を取られる、物思いに耽る、よそ見をするなどなど。車にいくつかの荷物を載せていたとします。すべてを運び終えたと勘違いして、一つや二つを降ろし忘れることはいくらでもあります。物忘れです。荷物なら、熱中症になっても、取り返しが付きます。生モノだったら腐敗するとか、植物だったら枯れてしまうとか。でも、それは代償が利くでしょう。別のものを購入して、事なきを得るのです。「子どもを降ろし忘れた」不注意と、「ティッシュの箱を忘れる」不注意の出どころ(原因)は同じです。間違いを犯す神経系統の接続・接触ミスです。前方の信号を見落として、歩行者を死なせるという「不注意」もまったく同じところから生じるのです。

 別のことを考えていた、降ろしたつもりだった、いろいろと弁解や言い訳をします。時すでに遅し、命を落とすということに関しては「後悔」だけしか残らないものです。ぼく自身が「不注意人間」だし、そのことからたくさんの「間違い」「誤ち」を犯してきたからこそ、「注意深くなろう(be careful)」「注意を払おう(pay attenntion)」と、いつだって「自分自身に向かって」言ってきました。「昨年、ことしと園児の置き去り死が起きても、同じようなことが繰り返される。地道な確認とミスが起きることを前提にした幾重の対策なしに、子どもの笑い声は響かない」とコラム氏はいう。その指摘はあたっているのでしょう。でも、とぼくは反省する。どんなに「対策を講じても」ミスは起こる、そのミスをなくすために、あらたな対策を講じる。その対策の積み重ねによって、人間はますます「不注意」になる、「不注意」に慣れるのです。この「対策」こそが、注意しない人間を作っていることに気が付かないのでしょうか。

 自動運転車の開発が進み、実用化の一歩手前まで来ました。これは究極の「不注意人間」、いや「無注意人類」の世界を想定しています。「蟻がクルマに乗る」ようなものではないですか。車の走行に蟻は関心を持っていない。人間の神経系統の動きの重要さを忘れること、その面倒臭さから人間を解放することが「進歩」「革新」だというのかと、ぼくは大いに疑問を持ちます。最新の IT 技術を駆使してコンピュータは機能しています。ミスは起こらないといいいながら、至るところで「間違い・障害」が生じています。(ウクライナの迎撃用ミサイルがロシアのミサイルを撃ち落とし損なって、ポーランド領内に落下(着弾)。二名が亡くなったと報じられている)人間の注意力が及ばないところで、最新の技術に依存した「無思慮」「無注意」がもたらす深刻な事態は、深く静かに、あるいは騒々しく浅く進行(侵攻)しているんじゃないですか。

 登録以来二十年超のクルマに乗っています。昨年の夏前、用事があって横浜まで出かけました。東京湾アクアラインを通って行けば便利だと言われた。その通りに高速道に入ったのはいいが、念のためにとカーナビを見たら、アクアラインが登録されていない。車もマニュアルだし、装備そのものもマニュアル、運転するものも、一級のマニュアル人間でしたから、道に迷い続けた。だから、二度目は、まず間違えないという経験を得たのでした。つまらないことをいっています。しかし、何ごとも、なにか(誰か)に依存するというのは、便利で楽チンです。しかし、やがて自分の足で立てなくなるのは目に見えています。それでもいいのだ!という時代と社会なんですね。

 園児の「積み残し」ー まるで荷物ですね ー 防止のために、車内に警報ブザーをつけるつことを義務付け、その費用について国が補助するという。究極の「愚民政策」です。もし、警報ブザーが故障していたら、どうするん?どこまでいっても、終わりのないゲームみたいな話です。でもことは深刻、人間の命がかかっているのです。たった一人の「我が子を積み残し」という事件は、いつでも、誰にでも起こりうる、「注意深くなければ」ね。子どもにクラクションの鳴らし方を教える、警報ブザーの押し方を教える、それが幼児教育の必須科目になる時代、なんか狂っているよ。「わんづかの こころのゆるみが 大事故に」

 子どもを降ろし忘れるような事故はいつでも起こっているのでしょう。でも大事に至らないで気がついたということだったのかも知れません。大事に至らない前に、というのは「注意力」によるほかないんじゃないでしょうか。二重三重の防止・予防策をいうのもいい。でも根本の重用さに対して、「不注意」であっては困ります。一人ひとりが「注意深くなる」ことです。そのための練習が「学習」なんですから。算数の問題は「注意深い人間のためのもの」と、どうして考えられないんですか。13+59=73、この間違いをもたらすのは、計算能力の高低ではなく、不注意からです。「計算に集中できなかった」、「注意散漫だった」のは、余計なことを考えていたからです。学校の勉強は「頭のいい子を生む」ためではなく「注意深い人間を育てる」ためのものです。計算間違いを犯す「不注意」は、信号を見落として人を轢いてしまう「不注意」と同根・同類です。計算間違いは消しゴムで消せますが、交通(人身)事故を消せる消しゴム、いまのところ売っていない。「自分に注意する、注意は自分にむかってするもの」で、他人に、ではありません。

 注意は他人(ひと)のためならず(Attention is not for others)。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。