器械(機械)や道具は、人間の能力を失わせる

 立冬から十日過ぎました。寒さがようやく本格化してきたように感じます。小さい頃から、暑さ寒さには無鉄砲、エアコンなし世代でしたから、じつに平気でした。それだけ、安上がり(野性的)にできていた。京都に住んでいた頃の「寒暑」が鍛えてくれたのだろうと思っていました。しかし、その鍛錬の蓄積も費消してしまい、今ではすっかり虚弱老人体質・気質になり、ともかく風邪を引かないことに特別に気をつける、そんな生活をするようになりました。「風邪は万病のもと」、あるいは「頭寒足熱」というのは、今日でも有効な教えですね。風邪の予防には睡眠が一番での良薬。寝るときも靴下を履いています。でも、最近は猫たちに熟睡を邪魔されています。一昨日は深夜の1時半、昨日は2時半、本日は4時と、とにかく寝かせてくれません。就寝は、ほぼ10時半前後です。連日の猫襲来で「惰眠を貪れない」日々が続きます。一旦起きると、もう布団には戻らないという習慣がぼくにはあります。

 「冬景色」といっても、この辺りには取り立てて紹介できるものはなにもありません。酉の市もない、冬の花火大会もない、あるのは殺風景な寒空と人通りの絶えた商店街だけです。ぼくの住んでいるところは、とりわけ多くの原住民は「冬眠」に入る時期にあたっています。さらに殺風景は広がっています。稲刈りが終わった田んぼは、手入れされないで放置されていますし、耕作をしていない田も、そのままで荒れ放題のように見えます。どこかで、「麦」を植えていないかなと目を凝らすのですが、見当たらない。小麦などの値上げがこのところ何度も繰り返されている。これだけの田畑があるのですから、麦を栽培しないものかと、ぼくは他人事ながら大いに気をもんできました。田んぼで農作業をする人は「老人と農機具」ばかりです。「国防費の倍増にかまけていていいんですか、政治家やお役人さんたち」といいたくなりますね.。いまでは「田植え」も「稲刈り」も学校教育の授業の一環になっているようです。つまりそれらは「文化=教養」でもあることを示しているんですね。

 大きな衝撃を受けたので、いまでも、ぼくはよく記憶しています。日本歴史研究者の網野善彦さんが勤務先の短大の授業で「田植え」について質問したところ、多くの学生がそれを知らなかった(見聞がなかった)ので、仰天したと書いておられた。「田植え」に関する「教養」がかけていたというのです。パンを食べている、そのパンの原料は「小麦」だと気にもしない。今食べている魚はなんですか、と聞いても答えられない時代に、多くの人々は、厚かましくも「生存」している。こんなことは今に始まったことではなさそうで、正岡子規が友人の漱石と早稲田あたりを散歩していた(明治の半ば頃か)。辺りは田んぼだらけで、今を盛りに早苗が伸び伸び育っていたという。その時、漱石は子規に「この緑の草は何だ」と尋ねたというのです。驚いてもいいのか、嘆き悲しむべきか。百聞がなければ、一見したところで、意味をなさない例証として、ぼくは肝に銘じて、「百聞も経験」、「一見も経験」と身に溶かし込んできました。それにしても、漱石先生、「ご飯はどういう植物から」できていると思っていたんでしょうか。これを「文豪」という。(今日の学生並みに、漱石は「稲」について、まったくの無教養だったという逸話です)

 それにしても、この島の田園風景はすっかり変わりました。上段にある二枚の写真の右左は「麦踏み」の情景です。田植えも含めて、すべてが器械化されている時代、これを「文明」というのでしょうか。科学や技術が「徒党を組んで」、人間の生活を一新し、ついには「人間性」まで一変してしまう勢いです。機械や道具がする分が増えるということは、それだけ人間の能力が奪われていることにもなるのですが。「文明の進歩」というものは、月へも火星へも人間を連れていくでしょう。でも、奈落の底にだって突き落とすことにもなるのですね。ぼくは車には乗りますが、カーナビは使わない。カーナビの指示通りになって堪るかという意固地さを貫いています。物事を「経験によって覚える(Learning by doing)」機会をみすみす失うとは、そんな気持ちがぼくの中で息づいている。

 「ウクライナの春」を、ひたすら待つ者です。来る春を待つ前に命を奪われた人々の「無念」を忘れないで。(左上の図表にある通り、米以外の穀類は、殆どが輸入に依存しています。農水省・2020年)

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「徒然日乗」(XXVI~XXX)

▼ 日一日と冬に近づいているというか、いや冬が近づいてくるというか。昼夜の寒暖差がかなりある日が続きます。子猫の多くが風邪気味。数日前に遅くまで林の中にいて、夜は駐車場(別棟)で寝ていました。そこにも親子(全員)で寝られるだけのベッドを作ってある。親猫の長年の習性か、なかなか家の中で休むということがない。子どもを必ず連れ出し、日中は林の中で遊ぶ。▼ 本日の朝から、子猫のいくつかは調子が悪そうで、食欲もなく、食べても吐く。一、二匹ならまだしも、大勢ですから、なかなか気を使いますね。森の中で生まれ、いずれ家の中にいる時間が長くなるように仕向けていますが、親は根っからの野良育ちですから、子猫も親の言う通りに、林のなかに入っていくのに抵抗がない。▼ 氏より育ちといいます。猫もいっしょ。人間の社会だけの話ではないんですね。どこでどのように育つか、その生育環境を「超越」して生きる、突き破って生きるというのはなかなか困難です。いいも悪いも「(人と環境による)教育」のはたらきによるということでしょう。(一月前に避妊手術をした親猫は、すっかり回復、「童心に帰った」ように、子猫とともに木登りや追っかけっこをしています。推定は十歳超です)(「徒然日乗」・XXX)(2022/11/15)

▼「専守防衛」が聞いて呆れる軍備と増税 ~ 頭に血が上るのは若者の特権ではない。「国力としての防衛力を総合的に考える」有識者会議なるものを捏造・偽装し、わずか数回の出来レースで「数兆円の防衛力増強」策を答申するという。大新聞社の現役社長や顧問も「国防の有識者」だとよ。しかも「慎重に議論」すると、始めたばかり(9月30日)で、もう答えが出そう(11月9日)。話は簡単、国会を無視し、国民の意見に耳を塞いで「防衛力増税」を、財務省が強引に誘導しただけ。(https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/boueiryoku_kaigi/index.html)。▼ 十人の「有識者」、しかも、四十五日ばかりで国の方向を左右する離れ業。国会には一切関与させない。問答無用の「言論封鎖・封殺国」ですな。その背景にある永田町と霞が関、そこの住人だけで流れを作っている。ぼくの持論(正論でもある)は「共産党以外は、すべて与党」と。事実は小説より陳腐なんだね。ここでも米国の言いなりだ(subordinate to America)。(「徒然日乗」・XXIX)(2022/11/14)

▼ 久方ぶりの雨模様。まだ十一月半ばですから、油断はなりません。台風(大雨と暴風の二本立て)にはことのほか驚異を感じています。伊勢湾台風の強烈な猛威の記憶が刻み込まれているからです。だから、当方には被害もなく過ぎたとして、被災地や被災者に対しては言いしれぬ同情を禁じ得ない。本年も、各地に大きな災害をもたらした。時間の経過とともに、ぼくたちは事件や事故の惨状を忘れます。しかし、被災者は忘れようにも忘れられない、そんな経験をされたのです。▼ たまたま、この数日間、アメリカの中間選挙の開票ニュースをみていましたが、フロリダを襲っておりハリケーンの猛威の映像も見せつけられていました。二人の死者が出たと報じられている。また、十一月の上陸は三十七年ぶりで、史上二回目だったという。「温暖化問題」が思うような展開を見せず、その間にも、地球上の各地で温暖化の被害が出ているのです。▼ 一国平和主義が無効・無意味になるような時代、自国のみの繁栄や発展が、他地域に及ぼす、有形無形の影響や、数十年単位で表面化する悪影響をも、ぼくたちは失念しがちです。(「徒然日乗」・XXVIII)(2022/11/13)

▼ 「身から出た錆」という ~ その言うところは「自業自得」に重なります。「失言」と違って、もともと、そのような素質(錆)をもっていて、いつかきっと表出するはずだったという「お粗末」でした。身とは「刀身」で、刀の錆は内側から出る。この御仁も大臣になって舞い上がっていた。誰彼なしに「錆(ワサビ)」を出し(利かせ)たくて、ウズウズしていたに違いありません「大ウケ狙い」ではなく「安受け」そのものでしたな。錆(ワサビ)が出(利き)すぎたのか、身を滅ぼす(ところまではいかなかったのは、ぼくにはやや不満)一歩手前まで追い込まれたのは、まさに自業自得。幸か不幸か、この大臣の「はんこ」で刑を執行された死刑囚はいなかったよう。大臣もボロだけれど、死刑制度という、国家による「他人の敵討ちを盗む」類の「人権蹂躙」の見本みたいな制度は即刻廃止すべきだと、ここに揚言(失言ではない)しておきます。(「徒然日乗」・XXVII)(2022/11/12)

多数決という原理について ~ これまでにいろいろな機会に「投票」してきました。もっとも頻繁だったのは、当然のように、国・地方議会議員選挙でした。ぼくは「投票」に関しては相当に真面目だったと思う。棄権した記憶がまったくない。(記憶がないといって、「棄権」しなかったと断言しているのではありません)「選挙」は好きではないし、まして投票したいと思う候補者がいない、国・地方議員選挙にはうんざりしていると、正直に言います。でも、選挙には棄権しない。理由は、民主主義への参加意識(と責任意識)から、といっておく。▼アメリカの中間選挙には昨日も触れました。日本の「選挙管理委員会」に当たる(と思われる)「州務長官」選挙には、前回の「大統領選挙は盗まれた」と主張するグループが候補を重要州で立てて、運動を展開していました。その結果は、まだすべてが明らかではありません。しかし、「選挙は不正」と公然と訴える候補者たち(国会議員候補者・知事候補者・州務長官候補者)が、あわよくば選挙を「盗もう」としているのです。アメリカだけの話ではないようです。▼ 民主主義がいつでも危機に晒されているのは、「勝てば官軍」というような、「正邪」の決定権は勝者が握っているという、一種の「暴力主義」の横行によります。「勝てば正義があった、負ければ(投票は)盗まれた」という感情剥き出し「議員」や、それを支配する「大統領」が統治する国(や社会)には、「正義」も「道徳」も権力掌握者に委ねられているのだという「弱肉強食」原理が駆動しているのですか?恣意的に「選挙結果を否定する」人間が「立候補」するという顛倒した反民主主義者たちの悪意。(「徒然日乗」・XXVI)(2022/11/11)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。