Just an election, but still an election.

 妄言多謝 。言葉が軽い、軽い言葉とさかんに言われる。「重く受け止める」という、まるで軽石のような、あるいは腐葉のような言葉の羅列が「名演説」だと囃し立てられる。わざわざ人前で話すレベルじゃないのがほとんどだ。そんな「内容浅薄」「中身空虚」の言葉の束を「放言」とか「妄言」というのではないか。(まるで、ぼくの「駄文集録」のように)ある「滓大臣」が「死刑のはんこ云々」といって、その「失言」に批判を浴びせ、「生命を弄んでいる」と、批判の大合唱だ。あえて言えば、「失言」などではなく、暴言であり、徒言(とげん)だと言いたい。(失言のレベルには達していない)、大勢の前で、無礼な、中身のない「嘘」を吐いたまで。わざわざ解説に及ばないが、「失言」とは「言うべからざる発言」をさす。このH大臣は「これを言ってはいけない」とわかってはいなかった、ことの「理非曲直」をわきまえていたとは思われない。あるいは自分が「大臣」であることは承知していたろうが、「法務大臣」がなにを所管する職位か関心がなかった。だから、繰り返し「同一ネタ」を使いまわしていた。それを聞いた多くの人も同類・同病だったから、致命的な「非」は悟られなかった。大臣も後援者も不幸であり、不明(ふめい)だったのは、どうしたものか。「先生、面白いお話ありがとうございました」という程度の付き合いであり、その馴れ合いにおいて「票」を得て「選良(エリート)」の誕生となる。至るところで「馴れ合い」「馴れ合い議員」が見られる、この劣島の選挙・政治状況である。 自ら判断して投票に参加する、並の「選挙民」からすれば、「投票を盗まれた」と言いたくなるぜ。

(右写真は東京新聞・2022年11月12日)(加藤智大元死刑囚に対する7月22日付の死刑執行命令書)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/213480

 「口は災いの元」という。あるいは「禍の門」とも。口からでまかせを言っていると、次々に「禍」が生まれるというのでしょう。この二十年ほどの間に、「でまかせ」放言で辞めた(させられた)大臣の数は驚くほど多い。だから、任命権者も危機感を感じて、少々のことでは「首が切れない」「切ろうとはしない」から、ますます「禍大臣」が後を絶たない、後に続くのでしょう。これはやっかみでもなんでもなく、事実として言うのですが、辞職したりさせられたりした「大臣」の多くは旧帝国大学出身者が多いのはなぜでしょうか。こんなことはどうでもいいことで、たちどころに切って捨てればいいのでしょう。でも、どこか「放言居士」「暴言大臣」に共通しているところがあるのは、気にかかる。つまり「偉そうにしている」「上から目線」「自己尊大病に罹患」など、どういうわけか、「同病患者の会」のごとくに思えてきます。そういう「症状」をもたらしたのは「大学教育」を始めとする学校教育ではなかったかと、胸を痛めながら言うのです。

 他人の気持ちを忖度できない、推し量れないという症状。こう言えば、相手はどう思うか、そんな余計な慮(おもんぱか)りがないのは政治家の必須条件なのかもしれません。ぼくにも何人かの「政治家」の友人・知人がいましたから、この指摘はあまり外れていないと思う。配慮する気がないか、配慮が足りないのと同じことのようですが、他者を見下す、ゾンザイに扱うという合併症も見られます。もっとも大きな症状は「平気で嘘をつく」「慢性虚言癖」「習慣性嘘依存症」で、この三つの条件がそろうと、国会議員でもかなり上位の「選良」でしょう。大臣候補者です。でも、それはまた「大臣失格候補者」でもあるのですが。(政治家が罹患する、「習慣病」「慢性病」のようなものを治療する医者はいない。選挙民が時間をかけて治療に当たるしかないようです) 

 二、三年もすると、この劣島でも、落選した候補者は「選挙が盗まれた」と、徒党を組んで、「M J G A」と触れ回るにちがいない。(すでに、どこかで始まっているのかもしれない)なにしろアメリカはいろいろな面において、この島国のボス(支配者)であり、親玉ですから。かならず、陰謀論とともに「日本を再び偉大に」と、「勝共連合」とも肩を組んで、選挙のシーンのあちこちで、赤い帽子が眩しく輝くのかもしれないね。

 たかが選挙、それでも選挙。選挙のたびに、もう少しまともな候補者がいないものかと、自分(の足元)を忘れて思ってしまいます。己が生きている社会、この世間で、おどろくほど「誠実な候補者」がいるはずがないではないかと思うし、いくら選挙をしても「いい社会」なんかできっこないと諦めたくなります。そうであるからこそ、「たかが選挙、でもやはり選挙」なんですね。家柄や、学歴(偏差値)、資産、旧身分など、いくつかの「資格」「特権」によって選挙権や被選挙権を「付与」するという、「戦前への回帰」を願う人たちがいるとは思われません。だから、あくまで選挙で、なんですね。大事なのは、候補者を選ぶのではなく、候補者に選ばれる、それが選挙民の義務であり責任なんだといいたい。選挙民が候補者を選ぶという従来型(既存)の選挙は終わり、選挙民が候補者から選ばれる「選挙」、その意味を十分に考える段階に来ているんじゃないですか。

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