「死刑もやむを得ない」と、平然と答えられるのは凄いね

 【日報抄】罪を犯して収監された人に宗教や学問を教える職務がある。教誨(きょうかい)師と呼ばれる。ノンフィクション作家、堀川恵子さんの著書「教誨師」は、東京拘置所で半世紀にわたって死刑囚に寄り添った僧侶に取材した労作である▼世に出すのは自分の死後に、との約束で僧侶が語った死刑の記憶は凄絶(せいぜつ)だ。法が定める刑罰とはいえ、人の命を奪う行為である。死刑囚はもとより、拘置所の担当者ら携わる人々の誰もが懊悩(おうのう)を重ねて執行に臨む▼本の中で僧侶は言う。〈世間を騒がす死刑事件が起こると、マスコミは繰り返し報道する。もう「死刑」という言葉を聞かされても、すっかり耳が慣れてしまって今さら驚くこともない。しかし、実際の執行現場のことになると、人々はまるで自分には無関係とばかりに考えることを放棄してしまう〉▼法相は死刑のはんこを押す地味な役職-。法相辞任に追い込まれた葉梨康弘氏の発言は、執行現場に無関心どころか、究極の刑罰の重みを全く理解していない。死刑に関わる全ての人をおとしめるものだ▼「外務省と法務省は票とお金に縁がない」「法相になってもお金は集まらない」という発言もあった。どこかのポストは票やカネになるらしい。人権や命をつかさどる法よりも、そちらを重視する人物だったようだ▼旧統一教会との接点が相次いで判明し、辞任させられた直後に所属政党の要職に就いた前閣僚がいる。政治とカネの問題が浮上した現職閣僚もいる。岸田内閣の「適材適所」とは何なのか。(新潟日報・2022/11/12)

 この「辞任劇」に触れないつもりでいました。触れるだけ、ぼくの心情が腐るおそれがあると考えていたからです。でも、じっと我慢していても、遂にはこらえきれずに、悪態をつくことになった。放っておけばいいものを。これまで、ぼくは「死刑反対」を公言し、またあちこちでその問題を訴えてきました。その経緯は省略しますが、「人を殺害したものは懲役刑、死刑に処す」という刑法に大いなる異論がある。死刑反対の理由は明快です。これまでに「死刑執行」されたなかに、明らかに「冤罪」であったと確信できるものが何件もあったということ。また下級審で「死刑判決」を受け、最高裁で「差し戻し」、最終判決は「無罪」だったという事案もいくつもある。人(裁判官)が人(被告)を裁く、無謬ではありえないことを、多くの判決事例が教えています。「冤罪」による死刑執行はきわめて低い確率であるから、問題なしとでもいうのでしょうか。生命の尊厳は「確率」「統計】では測れません。(右上図はアムネスティインターナショナルによる、2020年段階)

 この社会以外の多くの事例を見ると、あからさまに「死刑制度」はすでに支持されていないことがわかります。EU加盟の条件には「死刑廃止」があります。「人を殺すのはよくない」という道徳感情がある一方で、「極悪人は死刑にすべき」という直情の反応(復讐心)もあります。「死刑制度」は国家が設けているものであり、殺人を正当化する唯一の制度でもある。国家権力以外は、殺人(死刑を含む)を犯すなというのが、近代国家の建前だったといえますが、それも今日では妥当性を欠く制度と受け取られてきました。「人権」は何人にも認められる基本権だという建前が、国家優位の建前に席を譲ったままで何十年も経過しました。(この問題は、すでに何度か別の駄文録で綴っています)

 今回、法務大臣が「失言」したというので、辞任騒ぎになっていました。ぼくに言わせれば「失言」ではなく、彼の「公言」「広言」したかったことを言ったまでで、そんな人間を「法務行政」のトップに据えた任命者の責任こそ、問われるべきでしょう。なんとこの任命権者はある私立大学の「法学部」出身だそうです。「放言の主」は(どうでもいいことだとぼくは考えていますが、当人たちには「自己尊厳・自尊心」の根拠になるほどの重大事だと思われているようですから、言いたくないのに、言ってしまいます)、筑波大学附属駒場高校から東京(旧帝国)大学法学部卒で、警察庁に入庁と履歴にあります。ここですよ、問題の所在は。偏差値は高そうです、駒場も旧帝大も。劣島で一、二を争うという。滓だとか屑だと、このようなヤクザな連中を罵るのは、鼻だけが高いつもり(見たところは低いのに)を自慢して、それがその人物そのものになっているきらいがあるからです。要するに、「惻隠の情」「思いやり」といった人間のキモみたいなものを育てないままで、偏差値至上人間になっているのです。それが機会を得て、「失言」ではない、「当たり前の発言」になって飛び出してくるのでしょう。

 「言うべきではないことを、うっかり言ってしまうこと」を「失言」と辞書は言います。そういう場合が多いのは確かでしょうが、「言うべきことを、自覚していう」こともあります。これを「ホンネ(確言)」というのでしょうか。この「滓大臣」は、この手の「偏差値おたく」だったというべきだし、それが、大騒ぎになるのはどうしてか、そこを考えてもいいのではないかと、ぼくは指摘したいのです。悪態ばかりつく人間だと、ぼくは自己評価をしています。ぼくも「滓」、偏差値の低い「滓」であることを否定はしない。「滓」であることを自覚している。世の中で「幅を利かせる」のは、大半は「偏差値一点張り人間」です。点取り虫のこと。政治も経済も官僚も学者も、ほとんどの分野で、天下を睥睨するのは、こういう連中です。このような「輩」に対して、別に遺恨があるわけではありません。考えてみれば、この人達も「学校教育の犠牲者」「偏差値・受験教育の被害者」だと言えなくもないからです。自分が偏差値人間にさせられていることに抵抗も苦痛もないはずはありません。でも、他に優るという「優越感」が、その苦痛を忘れさせてくれると信じていたフシがあります。それが、一旦ある地位や要職につくと、はしなくも出るべくして出る、「態度」や「発言」が、ぼくには目障りなんですよ。

 誰に言われるでもなく、ぼくは「劣等生」を自認していましたから、逆に、これらの「偏差値オンリー」の習性がよく分かるのです。友人や知人には、旧帝大出がたくさんいます。実名を上げて「評価」してもいいのですが、大人気ないと自分でも思うし、「お前、羨ましいんだろ?」と言われないとも限らないので(言われても構わないが)、それは止(や)めておきます。半世紀ほど「教師まがい」を稼業にしていましたが、一貫して「偏差値」を呪うというか、否定しきっていました。偏差値が高くて、なお人間性も豊かというのは、どう考えてもありえないことだと、経験上から確信していました。そんな奇特な人物には、一度だって出会わなかった。偏差値を一点あげるたびに、人間性や誠意の「一部」がきっと腐食・剥落していくことを知っていましたから。

 今の内閣に限りませんが、どうしてこんな為体(ていたらく)かというなら、「偏差値教育」の成功・成果というほかありません。他人を押しのけ、他人に勝りたい一念で、嫌な勉強を我慢してやったのでしょ。森鴎外やハムレットのなんたるかは知らなくても、試験勉強の際には必要だから、名前は覚えている、それ以上を求めないのが「偏差値志向教育」です。だから「函だけ」「中身なし」、そんな人間が生まれるんです。多くは、戦後三十年以上経ってから生まれた人だと、ぼくは見てます。もちろん、戦前にも、江戸時代にだって、「偏差値人間」はいました。そういう人間(内容のない)を養成するのが、この劣島の教育の伝統でしたから。

 「失言」「暴言」「食言」「空言」「揚言」「慢言」「漫言」・・・。数限りなく、この種の「言い草」「言辞」がありますから、それだけ、人間は言葉をもちいて、いろいろな表現をする能力を持っている証明にもなるでしょう。葉梨某さんです、彼は「法務大臣は、死刑のはんこを押すだけ云々」といって、自分を高く売ろうとしているにすぎないんです。みんなとはいいませんが、多くの政治家諸君(ばかりではない)の常套論法は、居丈高に自分を見せつけるのではなく(まったくいないわけではありません)、自分を卑下して(へりくだって)、じつは「偉いのだ」ということを、あからさまに相手(聞き手・聴衆)に匂わせるという、じつに嫌味の趣味を磨いている人物なんだね。

 ある人が「偉い」と思われるのは、着ている服装や持ち物(学歴や履歴)によるのではなく、内面の「誠実さ」、あるいは「他者への思い遣りの深さ」によるのですよ。どこかで触れましたが、多くの学生たちに「どんな人が偉いと思われるか」「偉い人とはどんな人でしょう」と、何年にもわたっても尋ね続けてきました。ぼくにとっては驚くべきことでしたね、ほとんどの人は即座に答えられなかった。「教育の成果」、じつは「教育の敗北」なんですが、そのことを痛感しました。「どんな人が偉いと、あなたは思いますか」と聞かれて、熟考というか、考えあぐねている学生諸君を見ていて、ぼくは腹の底から悲しみが湧いてきましたよ。「高学歴」は、じつは「低人間力」に重なるんだと言いたくなることがしばしばだったし、それを隠さないで言い続けてきました。他者とのつながりにおいて「優越感」を持つ、それは「無恥」「無知」なんですが、それで平気でいられるとは、その人自身の内面に、いいようのない淋しさ悲しさを生み出しているのです。それに気がつくかどうか、それが問題ですが。

 現内閣の閣僚たちの多くは「立派な学歴の所有者」でしょう。不幸なことに、お気の毒さま、とは言わない。でも心配はしています。偏差値を高める、受験競争に勝つ、そのために失ったものは、場合によっては取り戻せないものかもしれないのです。だから「可愛そう」と同情を禁じ得なくなる。「地味」を売り込もうとした「滓大臣」は「統一教会に抱きつかれて、テレビに云々」といった。どこまで言っても「可愛そうな馬鹿」というほかありません。このような大臣を「選ぶしかなかった」「任命するよう強いられた」総理大臣は、何倍も「可愛そうな✖✖」という。

 最後に一言(失言ではない)、死刑制度には断じて反対です、これは、ぼくの「人権問題」に関わる際の背骨ですから。

 (内閣府の五年ごとの「死刑制度」等に関する調査について、このアンケートは「誘導尋問」というほかない代物)(それでも、簡単に国家権力に対して「殺人(死刑)」を容認するという、圧倒的多数の、この姿勢に、ぼくは暗澹(あんたん)たる思いを抱くのです。「知らぬが仏」というのは、ここでは場違いか?)

 以下の図は、「内閣府基本的法制度に関する世論調査」(令和元年のものからの抜粋)。

Q2で「(イ)死刑もやむを得ない」と答えた方に)

Q2SQb1〔回答票4〕 「死刑もやむを得ない」という意見に賛成の理由はどのようなことですか。この中から、あなたの考えに近いものをいくつでもあげてください。(M.A.)
(n=1,270)

(53.6)(ア)凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ
(56.6)(イ)死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない
(46.3)(ウ)死刑を廃止すれば、凶悪な犯罪が増える
(47.4)(エ)凶悪な犯罪を犯す人は生かしておくと、また同じような犯罪を犯す危険がある
(1.6)(オ)その他
(https://survey.gov-online.go.jp/r01/r01-houseido/3_chosahyo.html)

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 失言の葉梨康弘法相が辞任「一から出直す」 後任は斎藤健元農水相 「死刑はんこ」発言 自民党の葉梨康弘法相は11日、首相官邸で岸田文雄首相に辞表を提出した後、記者団に対し「国民の皆さまに不快な思いをさせてしまった」と陳謝し、「この上はしっかり一から出直して、一兵卒として日本国のために働くということで、これからの私の政治生命を国民のために尽くしていきたい」と語った。/ 葉梨氏は一連の発言について、「死刑に関する判断についての発言でないとは言え、例示として死刑という文言を軽率にも使ってしまった」と話した。10日夜から進退について首相と相談していたと明らかにした。/ 首相は同日夜、葉梨氏の辞任を認め、後任に自民党の斎藤健元農林水産相を起用すると記者団に説明。自らの任命責任について「重く受けとめている。今後、山積する課題に取り組みを進めていくことによって職責を果たしていきたい」と語った。首相は同日、東南アジア歴訪に向かう予定だったが、閣僚の交代のため、出発を延期した。これに関し首相は「一連の日程に予定通り出席するべく、この後午前1時出発する予定で調整をしている」とした。/ 葉梨氏は、死刑をめぐる発言の責任を問われての事実上の更迭。9日夜に出席した会合で「法相は死刑(執行)のはんこを押す。ニュースのトップになるのはそういうときだけという地味な役職だ」などと話し、10日の参院法務委員会で発言を撤回、陳謝していた。(デジタル編集部)(東京新聞。2022/11/11)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/213429)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)