
<卓上四季>カルトの子 一枚の絵がある。高いビルの間の一本道を母親に手を連れられて歩く少女。足には鉄鎖と鉄球。後ろを振り返る少女の腕は折れ、その表情は苦痛にゆがんでいる▼教団の教義に反したとして熱心な入信者の親に自由な恋を押しつぶされ、言葉を失った少女が描いた。成人後には自殺を図ったことも。ルポライターの米本和広さんが、カルト集団の病理が子供をむしばむ危険性を告発した「カルトの子」(文春文庫)の一例である▼20年以上前に読んだ話を思い出したのは、親による信仰の押しつけが虐待であるとして、旧統一教会などの信者を親に持つ子供たちが法整備や支援を求める会見を開いたからだ。見捨てられた子供たちを救ってほしいという訴えは胸に迫る▼心理学で言う「チャイルド・アビューズ(児童濫用(らんよう))」である。身体的・心理的虐待のほかネグレクトや貧困、そして結婚などの選択権の喪失とその被害は実に幅広い。虐待ばかりに目を向けると大事な意味を見落とすという精神科医斎藤学(さとる)さんの分析は重く受け止める必要がある▼親が自分の価値観を子供に教えるのは自由だが、自分の生き方に子供を巻き込む自由はない。米本さんの指摘だ。子供に対する度を超えた支配権の行使と言わざるを得ない▼冒頭の少女の母親は脱会後、後悔を口にした。「娘は誰も自分のことを守ってくれないという想いが強かったのだと思います」(北海道新聞・2022/11/09)

昨日に続いて、この問題を考えてみたくなりました。人間が集団で生活するようになって以来、あらゆるところで、この「カルト」問題は生まれては消え、消えては生まれてきたでしょう。そのどれもが、同じ原理で機能しているとはいえません。しかし、ある特定の目的をもって「カルト」の威力を発揮させるという点では、多くは共通していともいえます。カルト問題を考える、最初の出会いは、ぼくにとっては「狐憑き」という「習俗」に類する民間信仰でした。石川県時代にも京都時代にも、この「狐憑き」の信仰行事を見る機会がありました。詳細は省きますが、おおよその内容は以下の事典の説明を参照してください。どう考えたって、動物の「悪霊」が人間に乗り移写り、さまざまな祟(たたり)を齎(もたら)すと考える理由はないのですが、その時の精神状態によって「藁にも縋(すが)る」心境になっていれば、自由な判断が働かなくなり、遂には「荒唐無稽」な策略に引っかかるのでしょう。これをマインドコントロールと言ってもいいし、洗脳と言ってもかまわない。まあ、ある種の「オレオレ詐欺」ですね。この手の事件は枚挙に暇なしで、この島の至る所にあったし、今でもあるのではないでしょうか。妖かしの狐を材料にして、一端の「藁」になりきって、「溺れるもの」の弱みに付け込んでは、しこたま金品を巻き上げるのです。人間の判断力は、いかにも脆弱(ぜいじゃく)にできているのです。
● きつねつき【狐憑き】キツネの霊が人間の体に乗り移ったとする信仰。現在でも広く各地で信じられている。憑かれるのは女性が多い。憑かれるとキツネのような行動をして,あらぬことを口走ったりするのが,狐憑きの典型的な症状であるが,体などに原因不明の異常が生じた時,そのような症状を呈さなくても,祈禱師によって,キツネが憑いているからだとされる場合もある。キツネに憑かれたままにすると,内蔵を食いちぎられて,病気の末に死んでしまうとされ,祈禱師などを招いて祈禱したり,憑かれた者をいじめたり,松葉でいぶしたりして祓い落とす。(世界大百科事典第2版)

● マインド・コントロール=洗脳という言葉は、1950年代、朝鮮戦争中に米国人捕虜たちが共産主義者から受けたとされる尋問や教化の方法を指して、米国のジャーナリスト、エドワード・ハンターが作った言葉。「脳を洗う」という意味にとれる中国語から英語に直訳し、ブレイン・ウオッシングとした。洗脳は、長時間にわたる身体的拘束や拷問、薬物の投与などにより、個人の精神構造(信念やアイデンティティー)を強制的に変えるものである。これに対してマインド・コントロールは、物理的・身体的に強制的な方法を用いずに、本人にもまた周囲の人々にも、それとは気づかれないうちに個人の精神構造に影響力を及ぼすような、洗練された社会心理学的テクニックである。しかし、マインド・コントロールという言葉は心理学の用語としては認められておらず、カルトが暗黙のうちに使っているテクニックをそう呼ぶようになった。日本では90年代半ばから一般に普及し、様々な場面で拡大解釈されて使われるようになった。そこで、個人の自主性を著しく阻害し、心身の不調、人間関係の崩壊や犯罪行為への加担など、本人が望まないような結果を生じさせる心理的操作として、マインド・コントロールを限定的にとらえていく必要がある。(知恵蔵)

● 山岸会(やまぎしかい)=山岸巳代蔵 (1901~61) が編出した養鶏法の根本にある精神を広め,幸福な社会の実現を目指す目的で 1953年に結成された社団法人。その基本信条は無所有一体の生活にあり,会員となるには一切の財産を会に供出する誓約が求められる。このヤマギシズムを実践するため,58年三重県の伊賀町に共同生活の養鶏場をつくったのを手始めにに,幾度かの曲折を経て,全国に数十ヵ所の共同体をもつにいたった。養鶏を中心にした有機農法による生産物の供給や,関心をもつ者に会の理想を体得させるための特別講習研鑽会を通じて,一般社会に働きかけている。(ブリタニカ国際大百科事典)

学生の頃、ぼくの周囲の何人かは「ヤマギシ会」に所属していた。大きな「騒ぎ」を起こして、この社会の特異集団として、山岸さんは大いに注目されたのでした。(後年の「イエスの方舟」を想起させます」ある種の「原始共産社会」を模した集団を作ろうと、「無所有一体」の集団生活を徹底していた。体験入会した人から話を聞いたことがあります。洗面所(学校の水道場のような)にある歯ブラシや歯磨き粉は人数分だけなかったそうです。どうしてかと思って、よく見たら、歯ブラシに「だれのものでもない」と書いてあったそうです。これより前には、作家の武者小路実篤が初めた「新しい村」などがありましたが、人間社会あり方を追求し、理想を求めたのであったろうと思われます。しかし、理想は理想、現実は現実で、目標は高く、現実は低くというのが相場です。
このように、世間の垢や泥から抜け出し、望ましい人生を送るにはそれなりの精進が求められます。その「精進」の極意が「洗脳」であり「マインドコントロール」だったということが、多くの宗教を騙る集団の常套手段でした。もちろん、信教の自由を認めるのですから、「鰯の頭」であれ、「狐の妖術」であれ、ご当人がそれに疑問を持たない限りは、どうこういう筋合いはない。どうこういう筋合いが出てくるのは「常軌を逸した行動」に走るからです。被害や迷惑が、すくなくとも当人限りならまだしも、家族、特に子どもに及ぶなら、それは宗教の名においてではなく、むしろ「社会規範」というか「倫理問題」として、必要な処置を取らなければならないのではないですか。善悪の判断が機能しなくなり、誰が考えても「百害あって一利なし」の事態に陥っているなら、あらゆる手段をもちいて、救済をしなければならないでしょう。
繰り返しになります。「信教の自由」は認めるとしても、「信教」行為が他者に危害を加え、人権を侵害し、暴力に及ぶとしたら、それを排除するために、とりうる方策を考慮するべきでしょう。家庭内のこと、それは教育や躾の一環だと言い張る人も多いようですが、暴力という何当たる行為は、法律に照らし、社会倫理に照らして、それを容認することはできないのです。

「洗脳」とか「マインドコントロール」という言葉に示される、人間の「考える」「信じる」はたらきは、人によって千差万別です。ぼくは「洗脳」に遭遇することも「マインドコントロール」をかけられたこともありません。かけられかかったたことはあったかもしれませんが。(これは小さな声で言うのですが、かみさんと結婚したのも、どこかに「洗脳された」という部分があったかもしれない。でも「痘痕(あばた)も笑靨(えくぼ)」というように、生涯、「笑窪」だと信じ込んでここまで来たのです。やっぱり「マインドコントロール」にかかっているんだね)「自分をコントロールする」のは、じつに大切です。「自制」とか「注意」などといつでもいうのですが、この「自制心」や「注意」が他人に向けられると、面倒なことになる。自分を制御するのではなく、他人を制御(コントロール)する、それを養育や教育などと錯覚(誤解)している人がどんないることか。学校の教師や親たちは「子どもに注意する」という。でも、その中身(内容)は「子どもを管理し、支配し、行動や思考の自由を奪うことになる」ことをつゆ考えないんじゃないですか。幼児期の段階で、親から「管理」され「支配」され「命令」されることに身を任せると、いつかは親以外の「教祖さま」にもすっかり心身ともに委ねてしまうのでしょう。
「洗脳」から解き放たれることは、そんなに容易ではありませんが、不可能でもありません。ぼくの感覚では、いわゆる新(興)宗教(それらはぼくの受け入れる「宗教」ではないことがほとんどです)に「入信」した人よりも「脱会」した人のほうが多いという気がしているのです。具体的な数字があるわけではありません。しかし、人間の心理状態をつぶさに見れば、生涯を「一信仰」「一教団」で一貫している人は少ないように思われてきます。この島の人間は「宗教の掛け持ち」をしている。キリスト教も仏教も神道も、なんでもござれという、あからさまな「融通無碍」もまた、既成・既存の宗教教団に応接する態度として、ぼくはそれを求めるものです。

「親が自分の価値観を子供に教えるのは自由だが、自分の生き方に子供を巻き込む自由はない。米本さんの指摘だ。子供に対する度を超えた支配権の行使と言わざるを得ない▼冒頭の少女の母親は脱会後、後悔を口にした。「娘は誰も自分のことを守ってくれないという想いが強かったのだと思います」(コラム氏)我が子ではあっても、「親の持ち物ではない」と、どうして考えられないのか。じつに訝(いぶか)しいところですね。「よくなって欲しい」「子どもの幸福を考えればこそ」と、親は「愛情」のようなものをちらつかせる。間違いですよ。どんなに子どもが間違いを犯しかけていても、子どもを支配したり、命令してはいけないんです。子ども自身の選択と判断にゆだねられるかどうか、その姿勢、それこそが、あえていうなら「親の愛情」というものではないですか。愛情の受売りも、安売りも御免被りたいですね。ぼくは小さい時に「少しは勉強せなあかん」と、親から言われたことは一度もなかった。大学生になって、それは無上の仕合わせであると、「親の愛情」をしみじみ感じたことでした。それと同じように、ぼくは我が娘たち(双子の女性です)と付き合ってきました。自分で判断し、自分で行動する、それができないときは、「助言ぐらいはするよ」という、一見無責任は姿勢を持ち続けてきました。するかしないか、それを決めるのは子供の領分。選択を子どもにゆだねること、それができないんですね。

とても大事なポイントです。だれもが「マインドコントロール」にかかるといいます。おそらくそれに近い状態があることは否定しません。でも本当にマインド(心・精神)がコントロールされるのでしょうか。コントロールされ、支配されるのは、それとは別のもだという直観がぼくにはあります。その昔、「精神分裂病」という病名がもちいられてきました。(今日では、「統合失調症」と変更されています)この「精神」は分裂もしないし、増加もしません。いつでも「精神」は、その人のものとして変容は加えられないのです。(これを語りだすと面倒ですから、機会を改めて考えます)「精神」は、一貫したその人の核心部をなすものでしょう。その精神が「管理」され「支配」されのなら、「再生(洗脳からの解放)」はいかにして可能となるのでしょうか。「健全な精神」が存在するからこそ、再起も再生も可能になるのだという、たくさんの事例をぼくは見てきました。(マインドを「意識」と限定するなら、意識を支配されることはいくらもあります。言葉の問題というより、人間の身体(器官)機能、神経の働きをどのように捉えるかという問題に逢着します。何れにしても後日、少し丁寧に考察してみたい)
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