信教の自由は、誰にも認められるべき権利(人権)です

 このところ「宗教二世」あるいは「宗教三世」ということがしきりに話題にされています。もちろん、現下の「統一教会」問題が、その実態を明らかにしたからであり、今まで十分に声を上げられなかった「当事者」が勇を鼓して訴え始めたからでした。「信教の自由」というのは年令や性別などにかかわらず、まぎれもない「一つの人権」であり、何人も「信仰の自由」を持つ、その意味は、他者から信仰を強制されないということであり、同じように信仰を放棄することを強いられないということでしょう。その両者の根底にあるのは「自由という権利(人権)」です。「信じる自由」と「信じない自由」のどちらに重みを置くかという問題ではないと思います。それにしても、身内のつながりを遮断し、家庭を崩壊させてもなお、「信教の自由」というに至っては、それはお門違いですよといいたく生る。宗教の意味や役割りは、どこにあるか、人によって力点の置きどころは違うでしょう。しかし、現今の問題になっている教団、これは宗教ではなく、間違いのない「カルト教団」であり、宗教の名を騙(かた)った物取り集団だと言わなければならないようです。信仰を深めるのに、どうして「金をせびる」のですかね。「寄付」が聞く耳を持っているなら、聞いて呆れますよ。

 「宗教二世」の弊害・被害は今に始まったことではなく、どの宗教・教派にもついて回っていました。「統一教会」の場合は、集団(合同)結婚という、狂気の混じった婚姻から生まれた子女が、(無条件に)統一教会の信者にさせられるというものでした。これとよく似たものに「幼児洗礼」があります。あるいは統一教会の宗教二世は、キリスト教のある宗派の「幼児洗礼」を模倣したものかもしれません。キリスト教と称されるものは、どの教団も「幼児洗礼」を認めているわけではありません。「バプテスト派は幼児洗礼を認めず,自覚的信仰告白に基づく浸礼を主張」(下記事典を参照)自らの選択がなければ、信仰を受け付けないというのは当然であるといえます。親が信者だから、無条件に子どもも信者にする・なるのだというのは、教団にとっては、じつに虫のいい話(信者確保という観点から)であり、強制をいとわない、当該宗教の全体主義的傾向は否定できないでしょう。ぼくは、早くから、選択能力の備わらない「幼児洗礼」に大いなる違和感を持っていた。(画像はテレビ朝日:https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000273440.html

 原則として、ぼくは「信教の自由」を尊重する。当然であります。しかし、自ら望まないにも関わらず「信仰を強制される」「棄教を強いられる」事例はいたるところにあります。この劣島に限っても、国家仏教としての天台宗・真言宗を始め、鎌倉新仏教である真宗・浄土真宗、あるいは日蓮宗など数多の「教派・教団」が生まれました。「隠れキリシタン」や「踏み絵」などは、宗教弾圧の歴然たる痕跡、事例です。明治以降に限定しても、いわゆる新(興)宗教、その多くは仏教・神道系でありましたが、それらが雨後の筍の如くの叢生したという歴史があります。どんな思想信条も、(反社会性を帯びた活動をしない限りは)原則として、認められるべきであり、それは憲法に規定しなければならない「基本権(人権)」だというべきでしょう。

 問題の「宗教二世」、あるいは「宗教三世」についてみると、そのような境遇にいた同級生が何人もいたことを覚えています。羨ましいとか、反対に嫌だなあと思ったことはなかったが、それは宗教に関して今以上に「無知・無恥」だったからでした。その時よりは少しは知恵もついたと自己評価はしますが、いまでも、当時と似たような感情を持っている。「信仰も家業かよ」、そんなふうに言いたいね。よく似ているのが、職業選択の不自由です。歌舞伎などはその典型例です。「天皇制」も、選択の余地がないという点では、窮屈そのもの(人権侵害にあたります)ですね。

 誰がどんな信仰を持っているかに関しては、ぼくは可能な限り「偏見」を剥き出しにしないようにしてきました。人間の性向(傾向)として、宗教的あるいは非宗教的の二種類があるように思われます。かみさんなどは、はっきりいうなら「宗教オタク」のようで、いろいろな新宗教に惹かれるようです。ぼくはまったく正反対。上にも書きましたが、信念や信仰まではいいとして、「個人崇拝(a personality cult)」にまで行くと、ぼくはまず門戸を閉ざします。しかし、新であれ、旧であれ、大なり小なり「教祖」を崇めることを条件に信者であることを認めるのでしょうから、ぼくには縁がないというほかありません。(左画像はNHK番組による:https://www.nhk.jp/p/gyakuten-j/ts/JYL878GRKG/episode/te/69X2M5G8Y9/

 学生時代、在学していた大学でもいち早く「原理研究会」が作られ、何人もの知り合いの学生が活動をしていました。しかし、その段階ではまだ「宗教二世」は生まれてはいなかった。当然、その多くは「合同結婚式」以降の夫婦によって「誕生」した人々です。ぼくは、生理的に「一個人を崇拝」することはまず受け入れられない人間ですから、ほとんどの宗教には心が開かれることはなかった。エホバの証人(別称「ものみの塔」)の信者らしい人がよく家を訪ねてきます。その人々にぼくは、ある人の名前(明石順三)を出して質問します。ほとんどの人は知りません。そんなものです。文鮮明だとか韓鶴子という「教祖」を名乗っている人間も、ぼくには「詐欺師」としか思われないし、霊感商法に加わっていた同級生もいたことから、この「団体」は宗教ではないと確信してきました。「勝共連合」に関しても同じでした。それに加わっていた知り合いが何人もいたし、それらと闘争を繰り返していた側にも知人がいましたから、宗教ではなく、カルト(個人崇拝)であり、政治団体を名乗っている偽物教団であると、ぼくはいささかの疑いも持っていなかった。

 そのような「宗教まがい」「宗教を騙る」団体の信者の子どもに対して、まずは被害の実態を調べ、場合によっては「所管官庁」は監督責任を明らかにする必要があると言いたいですね。「認証」だけはして、後は知らぬというのでは「共同正犯」ということにもなりかねませんから。現政権は、政権浮沈の狙いがあるのか、被害者救済の法制定を日程に乗せています。「認証取り消し」は、即刻なされなければなりません。「霊感商法」「入信勧誘」では大々的な強制や詐欺行為が認められて、裁判にもなっています。教団敗訴の決定がたくさん出ているのです。このマヤカシ政権において、どんな「救済法」ができるか、認証取り消しに至るのか、悔しいけれど、大きな不信を持ちながら見ています。

 以上に加えて、新たな名乗りを上げた「宗教三世」の方がおられます。エホバの証人の元信者でした。

 「親から体罰、希望していた受験もできず」 エホバの証人3世訴え▢▢▢ キリスト教系新宗教「エホバの証人」の3世として育った夏野ななさん(仮名)が7日、国会内で開かれた野党のヒアリングに出席し、熱心な信者だった親から体罰を受けるなどした生い立ちを明かした。「子どもが親に信仰を強制されず、学ぶ機会を奪われないようにしてほしい」と悲痛な思いを訴えた。/ 夏野さんは30代で東京都在住。3歳の頃から週3回、エホバの証人の集会に参加した。居眠りなどをすると家族にトイレに連れて行かれ、平手やベルトでたたかれたこともあった。「悪い影響を受けるから」と言われ、保育園や幼稚園には通わなかった。教義のため、クリスマスや七夕、誕生日会などのイベントも禁止された。校歌の斉唱や運動会の騎馬戦にも参加できず、小学校ではクラスメートから奇異の目で見られた。親から「宗教活動に割く時間が減る」と言われ、希望していた中学受験もさせてもらえなかった。 「教え強制していない」 ▢▢▢ エホバの証人の広報担当者は毎日新聞の取材に「聖書の教えに基づき、子どもは愛情をもって育てるように伝えている。方法は各家庭で決めることだが、体罰をしていた親がいたとすれば残念なことだ。教えを強制することもしていない」と話した。また、行事への参加の禁止については「異教徒の習慣に基づく祝日は参加しないように聖書が教えている。ただ、決めるのは個人で、特定の祝日に左右されない形で楽しい時間を過ごすようにしている」と話している。【高良駿輔】(右上写真:「エホバの証人」の宗教3世として経験した苦悩を語る夏野ななさん(仮名)=国会内で2022年11月7日午前10時57分、高良駿輔撮影)(毎日新聞 ・2022/11/07) 

 このような問題が放置されてきたのが、何かあれば「法治国家」と紋切り型の反応しかしてこなかった社会の、新たな(じつは被害は長年続いていた)課題です。訴えをどのように受け止められるのか。家庭における「幼児・児童虐待」に類する行為であり、あからさまな「人権侵害」でもあります。宗教(信仰)の名においてなされている「暴力」は、他の暴力と何ら選ぶところはないのです。ぼくは統一教会を宗教団体とは見ていないし、エホバの証人についても、戦時中の戦争協力姿勢などについて、宗教の教団とは認められないものがあったと思いますし、いまでもそれは継続していると考えています。「戦争」に積極的に協力したのが(洋の東西を問わず)各国の宗教教団でした。この国においても、圧倒的な体制(翼賛)で、ほとんどの教団は戦争応援に靡きました。国粋・国家主義のお先棒を担いだ。その反省はきわめて不十分でした。(どちらかと言えば、宗教は政治と兄弟姉妹のようであり、どうかすれば、一気にカルト集団に豹変するという歴史に照らしても、信仰は「Belief」であり、個々人の「信念」において把握されるものだと、ぼくは考えているのです。徒党(教団)を組むというのは、何かしらの目的があるからであり、往々にして、それは宗教とは似て非なるものだということでしょう。その点では、内村鑑三さんの「無教会派(主義)」が、ぼくには一つのヒントになっています。

 件(くだん)の教団名に使われていた「世界統一教会」というのは、紛れもなく「覇権」を宣言しているとしかみえないですね。今般、あからさまになりつつある「政治と宗教」の関係、実態は「似非政治と似非宗教」の談合であり癒着であり、そこには真面目な政治思想も宗教思想も含まれていないことに、ぼくたちは呆れているばかりでは足りないのであって、その積年の弊害が、どれほど「宗教」と「政治」そのものを汚濁してきたかに思いを及ぼす必要があるでしょう。宗教二世や、三世の方々が訴えている叫びには、既存の教団や政党が「堕落・頽廃」を我が世の春と決め込んでいる間に生み出された人々の、人間回復のための「肺腑の言」であると受け止めるし、それこそ誠実に対応すべきだと考えています。当事者の叫び、訴えは、あらためて「人間の誠実とはなにか」というものを、ぼくたちに突きつけると思う。

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● 洗礼(せんれい)(baptisma; baptism)=キリスト教で,水によって神の名 (普通は三位一体の名) において原罪,自罪とそれによる罰を許し,人を神と教会の子,すなわちキリスト教徒とするサクラメント。「浸す」というギリシア語 baptizōの名詞形。水を用いての清め,あるいは新生を与えるという思想は,古代東方諸宗教をはじめ旧約聖書にもみられるが,教団入信の儀式としての確立はユダヤ教への改宗者に対してなされたものによる。イエスもヨハネから洗礼を受けたが,ヨハネのものは,すべての人に要求された終末的悔い改めの洗礼であったのに対し,イエスが命じた洗礼は,罪の許しと永遠の命を得させるものとなった。イエスが復活後,弟子たちに命じたことに基づいて,洗礼は聖霊の力によって「イエスとともに死に,ともに新しい命に生きる」契機となり,復活のイエスのからだである教会の肢となることを意味する公の礼典となった。 12世紀頃までは全身を水に浸したが,今日では頭部への灌水が一般的。初代教会以来,受洗には信仰告白が前提であったが,2世紀に幼児洗礼が確立。バプテスト派は幼児洗礼を認めず,自覚的信仰告白に基づく浸礼を主張。(ブリタニカ国債大百科事典)

● 新宗教【しんしゅうきょう】=新興宗教とも。既成宗教に対して新しく興った宗教の意味であるが,その概念は必ずしも明確でない。歴史的には明治以降の成立が考えられるが,第1次大戦当時盛んとなり多くの教団の源流となった大本教をはじめ,天理教,黒住教などを除く見解もある。性格的特徴としては,教祖個人の呪術(じゅじゅつ)的性質やシャーマン的性質をもとにし,病気・貧乏・争いなどの日常的問題を超自然的な力によって解決しようとし,現世利益中心の教義が多い。新しい教説に基づいて教祖や組織者によって形成され,布教活動が盛んに行われる。在家・俗人主義で教職者でも俗人のままである。入信を導いてくれた人を〈親〉などと呼ぶ宗教的親子関係が擬制され,教祖は絶対化・神格化され,権威主義が支配的である場合が多い。教派的には神道と仏教の真言・日蓮宗系のものが多く,現在約600の教団が数えられる。(マイペディア)

● 宗教法人(しゅうきょうほうじん)=宗教法人法(昭和26年法律第126号)によって法人格を取得した宗教団体をいう。公益法人の一種。現行法においては、宗教団体が法人になるか否かはまったく任意であって、非法人であっても自由に宗教活動を行うことができる。宗教団体が法人格を取得することの意義は、団体の名により財産を所有し、維持運用し、訴訟その他の法律行為を行う能力を獲得することであって、宗教上の活動の自由とは無関係である。宗教法人は、税法の定めるところにより、一定の非課税規定の適用を受ける。/ 宗教法人になることができる宗教団体は、宗教の教義を広め、儀式行事を行い、および信者を教化育成することを主たる目的とする団体で、(1)礼拝の施設を備える神社、寺院、教会、修道院その他これらに類する団体、(2)前号に掲げる団体を包括する教派、宗派、教団、教会、修道会、司教区その他これらに類する団体、の2種類とされている(宗教法人法2条)。宗教法人は、法の定める要件を備えた規則を作成し、所轄庁の認証を受け、設立登記を行うことによって設立される。所轄庁とは都道府県知事または文部科学大臣である(同法5条)が、日本国憲法が信教の自由(20条)を保障し、そのために政教分離の原則を定めていることを受けて、認証申請が適法であれば所轄庁の裁量でこれを不認証とすることはできない(宗教法人法14条)し、宗教上の事項について監督、統制、干渉、調停をする権限もない(同法85条)。/ ところが、オウム真理教(2000年アレフ、2003年アーレフ、2008年Aleph(アレフ)に改称)が地下鉄サリン事件など、一連の犯罪行為を行ったことを契機に、1995年(平成7)宗教法人法が一部改正され、宗教法人は備え付け書類を所轄庁に提出することを義務づけられ(同法25条)、一方、所轄庁には宗教法人に対する一定の質問権(調査権)が与えられる(同法79条の2)など、宗教法人は所轄庁の管理下に置かれるものという色彩が強められた。しかし、これらの改正規定は、所轄庁の裁量権限を否定している同法の認証主義と整合性を欠くことになり、また憲法の政教分離原則に違反する疑いも払拭(ふっしょく)できないので、かなりの数の宗教法人が書類提出を拒否して抵抗の姿勢をみせるなど、多くの問題を残すことになった。(ニッポニカ)

● 無教会主義(むきょうかいしゅぎ)=明治・大正期のプロテスタント系キリスト教思想家内村鑑三が唱道,実践した信仰の立場とその運動。福音の理解は聖書そのものの正しい研究によってのみ得られるとし,また福音の本義は律法によるのではなく,キリストの恩恵と信仰のみによる救いにあるとした。日本固有の使命を認め,海外の教会からはもとより,あらゆる支援を退け,独立自主を主張,日本における既存教会の教会主義を批判,聖書的教会 (エクレシア) は認めながらも現状ではそのような教会はないとして無教会主義を唱えた。門下から俊英が輩出し,特に第2次世界大戦後,南原繁,矢内原忠雄らが出て,その思想界における影響力を示している。(ブリタニカ国際大百科事典)

● エホバの証人(えほばのしょうにん)(Jehovah’s Witnesses)(Watch Tower=キリストの再臨と千年王国の出現を信じ、現実の制度を否定して、19世紀後半のアメリカに発生した異端的宗派。ニューヨークのブルックリンに本部がある。教会の伝統と組織と教職制度を否定する思想を激しく表明するため、制度的なキリスト教界では異端と評価されて孤立しているが、一般社会では、キリストの再臨と聖書研究を強調し、輸血や柔剣道など格闘技の拒否、兵役の拒否を主張する一教派とみられている。この派の教義はC・T・ラッセル(1852―1916)が提唱し、J・F・ラザフォード(1869―1942)が体系化した。現世拒否のモチーフ(権力批判)がキリストの再臨信仰と結び付いているため、緊張の固持が信者の日常的言動を包み込み、その熱意は世俗の生活者と制度的宗教家をときに刺激する。日本での最初の指導者は明石(あかし)順三。1926年(昭和1)日本支部の灯台社が創立され、太平洋戦争後は48年に日本支部が、53年にものみの塔聖書冊子協会が組織された。なお、「ものみの塔」は「ハバクク書」(2章の2)に由来する。(ニッポニカ)

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