若し灯火の 漏れ来ずば それと分かじ 野辺の里

 時期は少し早いかもしれません。しかし、「秋の夕暮れ」がすっかり暮れきり、朝晩の冷え込みも身を震わせる、そんな季節になったと実感している。どこからともなく聞こえてくる、冬の露や霜に凍えそうな「幻の歌声」に唱和している自分がいます。それは「冬景色」(大正二年発行)でした。作詞作曲者は不詳となっています。この他にもたくさんの、誰が詞を書き誰が曲を作ったかが判明していない唱歌がたくさんあります。理由はいくつかあります。もっとも多いのは、学校に音楽を取り入れることに忙しかった明治初期から、その道の専門家が集まって音楽教育に資する(曲)作りを始めた。一つの曲にいろいろな人が関わり、今で言えば「集団合議」で仕上げていったとされます。何ごとにおいても出発する段階の姿勢や様子は、その方向を決めると同時に、多くの唱歌も複数人が関与して作られていった、その名残が「作詞者・作曲者不詳」というわけです。共同作業もまた、人間の生活には欠かせない機能を果たしてきました。まるで「短歌」や「俳句」を集団で作っていくような作業でした。

 誰が作ったかわからないのは気分がよくないと思われるかもしれません。しかし、ものに形があるというのは、その大半は誰かが作った(作り手あり)ということであり、時間の経過とともに作者がわからなくなったり、最初から集団で制作したがゆえに、個人名を留めていないものが伝えられてきたのです。その典型を一つ上げると、「法隆寺」です。この寺を作ったのは「聖徳太子」だと冗談のように言われますが、太子は大工ではなかった。だから正解は「大工を始めとした職人たち」でしょう。でも個々の名前はまったく消えています。その多くは朝鮮半島を渡ってきた渡来人です。建築者の名前がわからないから、この建物はだめだ、という人はいません。むしろ、個人名や作者がわからないもののほうが、人間の生活では圧倒的に多いのです。 

 一例を上げると、「火」は誰が作ったか、誰にもわからないでしょう。もちろん「唱歌」と火や法隆寺は同じように扱えませんが、作者がわからないものは怪しいというのは根拠のない理屈、あるいは「好き嫌い」だけの問題になるのです。この島の「学校唱歌」にはいろいろな思いが籠められてきました。学校教育の中核として、特に重視されたということはできませんが、むしろ、算数や国語並みの扱いを受けてこなかったから、唱歌が純粋にぼくたちの胸にも心にも響いているのではないでしょうか(唱歌)。音楽という科目は好きでも嫌いでもなかったが、音楽教師の何人かに個人的に教わったり、ピアノやアコーディオンの手引をしてもらったという些細な経験が後々に影響を与えたともいえます。二十歳過ぎてから、ぼくは、暇にあかせて「唱歌」に思い切り時間を使い、自分流に「唱歌の歴史」を学んだことがあります。戦後はもちろんでしたが、戦前のもの、特に明治大正期の唱歌を丁寧に調べたのでした。その結果、得たものがあったかどうかは怪しいが、唱歌に歌われてきたものは「日本の生活・風景」であり、そこに働く労働の尊さではなかったかと思い至るようになった。

 本日、取り上げている「冬景色」の場面はどこにもありそうですが、どこと特定されない、「幻の場所」です。でも、それが特定されない「不明」の場所の情景だからこそ、その歌を聞いたり謳ったりする人は、自らに親しい場の思い出を、その風景や場所に重ねることで、歌の味わいを深めてきたのではなかったか。この「冬景色」を想起すると、ぼくはいつでも、まずは、京都の嵯峨広沢の池(そのすぐ近所に住んでいましたし、親父やおふくろの「お墓」は下の写真に写っている「山(持ち主は広沢山遍照寺)」の地主が経営する墓所にありますので、なおさら、ぼくには「冬景色」は広沢池の景色と重なるのです。二枚目の写真の奥に写っているのは「愛宕山」で、何度も登った山でもあり、帰郷する時に新幹線のなかからこの山が見えてくるのを楽しみにしていたほどの思い出も山でした。(小学校の「校歌」に「高くそびえる愛宕山」と出てきます)

 「唱歌」は、明治・大正期には現実に生きられている景色や生活を歌いこんだものが多く、今日では跡形もなく消え去り、消されてしまったこの島の各地の「営み(生活・文化)」を、いろいろな曲調に載せて、幼い子どもたちに伝えようとしたものです。それを歌いながら育った人々にとっては、今はない過去の「人や生活」を偲(しの)ぶ縁(よすが)にもなっているでしょう。この「冬景色」の「詞」を繰り返し読んでみます。まさにこれは、和歌であり、俳句である、そんなことを言いたくなるような「言葉の世界」であり、風情や風景を描いた一編の画幅とも受け取ることができます。このように言って、ぼくは郷愁に浸るというのではありません。自らが生きた過去、多くの人と歩いた過去を、もう一度、自分に取り戻す、過去を自らの今に取り戻す、そんな意味合いを感じているのです。自らの細やかに過ぎる「歴史(人生)」を辿る行程でもあるとぼくは考えているのです。

 生涯に一度も雪を目にする機会のない人もいましたし、海というものを経験したことにない人がたくさんいました。そのような未経験の世界を満たしてくれたのも、多くは「唱歌」であったかもしれない。大声で謳ったり、季節を考えずに謳ってもいいでしょうが、季節に応じた歌が齎(もたら)す、感覚や感受性というものも大事に会いたい。わかったようなことを言っていますが、ぼくは、小学校の音楽の時間で唱歌を習った記憶がまったくないのです。不思議といえば不思議です。その大半は学校とは無関係に、学校を離れてから、いつもひとりでに歌い継いできたのではないかという気もしている。唱歌は、きっと、一人の人間の細胞に刻まれた季節感や場所のイメージに大いに貢献してきたと、ぼくひとりは考えているのです。

(一)さ霧消ゆる 湊江の 舟に白し 朝の霜 ただ水鳥の 声はして いまだ覚めず 岸の家              (二)烏啼きて 木に高く 人は畑に 麦を踏む げに小春日の のどけしや かへり咲(ざき)の 花も見ゆ                                                          (三)嵐吹きて 雲は落ち 時雨降りて 日は暮れぬ 若し灯火の 漏れ来ずば それと分かじ 野辺の里

*「冬景色」(https://www.youtube.com/watch?v=oA_KqAHgV-A

                                 

 (奥の山は愛宕山・(「京都旅屋」HPより)

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