都道府県別「学力」競争 ? まるで、狂気の沙汰だ

 【有明抄】スマホを置いて 勉強やスポーツなど日常的な取り組みは質と量が大切。集中しても短すぎては成果が出ないし、長い時間を費やせばいいというわけでもない。質と量はどちらも重要になる◆本年度の全国学力・学習状況調査で、佐賀県は全科目で正答率が全国平均を下回った。要因の一つに、家庭学習の不足が挙げられている。授業以外の学習が平日1日当たり「1時間以上」と回答した県内の小学6年生は54・9%、中学3年生は60・1%で、全国平均よりもそれぞれ4・5ポイント、9・4ポイント低い◆正答率のわずかな差に一喜一憂する必要はないが、学習時間の短さは気にかかる。素人考えでは少し宿題を増やせばと思うが、そう簡単な話ではないようだ◆教育関係の会議で「勉強する環境が整っていない家庭がある」との指摘を聞いた。親子がそれぞれにインターネットの動画を見たり、ゲームに夢中だったり。一つ屋根の下は「個」や「孤」の空間になっており、改善には家庭との連携が重要だという◆内閣府の調査(2021年度)では10~17歳のネット利用時間は1日当たり4時間24分。有用なツールとはいえ、さすがに長すぎないか。依存や学力低下との関連も懸念されている。たまにはスマホを置いてみてはどうだろう。大人と子どもが触れ合って楽しく学ぶ「教育・文化週間」(1~7日)でもある。(知)(佐賀新聞・2022/11/05 )

 このコラム氏は何を言いたのでしょうか。佐賀県内の小学生は「学習時間が短い」「たまにはスマホを置いてみてはどうだろう。大人と子どもが触れ合って楽しく学ぶ『教育・文化週間』(1~7日)でもある」コラム氏の家庭では「子どもはこうです」「親と子はこうして触れ合って、楽しくな学んでいる」という事例を出してくださるといいのにね。この記者の「学習観」は、圧倒的な多数派でしょう。真面目に机に向かっているのが望ましいとでもいうようです。「勉強する環境が整っていない家庭がある」と誰かが言ったっそうですが、どんな環境が「勉強にふさわしい環境」なんですかと問いたいものです。じつに陳腐だし、おそらくこの平均的は「子ども観」「勉強観」「学校観」がこの島を覆っているのです。

 こんなことは当たり前すぎて言うのも気恥ずかしいのですが、どんなところでも勉強はできる、また、しているのです。それを「勉強」とみなし、「学習」と認めるかどうか、それが問われているんでしょ。ぼくは教室だけが「学習環境」だと思ったことは一度もないし、家庭で「一時間以上」勉強した記憶は少学校時代も中学校時代もない。第一、机なんてものがなかった、高校生になるまで。(だからだめなんだと、言われましょうが、それは「見解の相違」ですね)。いまさら、こんなお説教を聞かされても、そうですか? というほかない。昭和三十年代初頭、テレビが家庭に鎮座しだし、やがて、カラーテレビが猛烈な勢いで普及しだしたと見るや、テレビは一日何時間と、見る時間を制限する、チャンネル権は子どもに持たせない、休肝日ならぬ「休観日」を設けるべきだと、アホくさいことしか言わないと定評のある「教育学者」たちが、自分のことを棚に思い切り上げて、珍説を開陳していました(今でもそうかもしれない)。

 テレビが子どもをだめにした、あるいはこの国の衰退を引き起こしたといえますか。言ってもいいけど、テレビにはそんな馬力なんかなかったでしょう。現実を見てください。テレビは、ただの箱。だから、「テレビ番組が低俗だった」とは言えるでしょうが、そのために子どもや青年が痴呆になったのですかと、ぼくは聞きたい。ネットの時代でもそうです、同じように便利で楽しいから、あまりそんなものに時間を使うと、生きるための「偏差値」が下がるというのでしょうか。明治の初期に鉄道が敷設された際、人力車の組合が「鉄道反対」を訴えました。◯✖車界党といったような団体でした。しかし、数年も経ずして鉄道は社会にとって不可欠の「インフラ」になった。つまるところ、便利・娯楽にうつつを抜かすと人間がダメになると、いかにもそのように想われますが、じつは、そこにも明らかな「学習」があるのだと、どうして認めないのでしょうか。

 ぼくの持論を言っても仕方がありません。しかしあまりにも偏頗な教育論や人間論が未だに棲息しているのを見ると、一言いいたくなる。遊びはいけないと、ほとんどの人は言う。そうかもしれない。でも「遊びの中に勉強がある」と、ぼくは経験から学んだのですから、否定されようが非難されようが、少しも動じません。同じことです、「勉強の中に遊びがある、なければ勉強じゃない」と。遊びのない勉強は、文字通りに「強制」です。学ぶのではなく、学ばされる。学ぶとか学ばないという判断は、自分一個のものでしたね。個人の経験ばかりでは普遍性がないというか。そんなところに「普遍性」などを持ち出すまでもないでしょう。いいでしょうか。人間の歴史において、「学校のない時代」は「学校のある時代」の比ではないほどに長い歴史を重ねてきたのです。ぼくはまた聞きたいですね。縄文人や弥生人と呼ばれる人々と、我々「現代人(文化・文明人)」のどちらが賢いのか、と。答えは明白です。だから、ここでは言わない。

 なんのための勉強ですか、という肝心要の「核」が抜けているように思うのです。「賢く」なるためですが、それは「ずる賢く」なることではない。賢さは、点数や偏差値では測れませんね。だから、却って測定可能な「数値」を後生大事にするのです。「成績」というやつですが、これが学校や社会で幅を利かせて来たために、テレビやネットがもたらすであろう弊害の比ではないほどの災厄を子どもたちや親たちにもたらしたのではなかったか。縄文人や弥生人は、もちろん「スマホ」「プレイステーション」なんかは持たなかった。それで不足や不自由があったとは思われない。「賢い」というのは、仲間として生きている存在を押しのけない、意地悪をしない、やたらに優劣をつけないで、互いに助け合うことでしょう。その理由は、集団全体が崩壊しないためです。この「共助」とでもいう関わり方は、いい例ではありませんが、大災害が生じた時に発生する「ボランティア」のはたらきです。助け合うのはお互い同士であり、他者が困った時に助ける、この精神は、いつの時代でも存在していました。学校時代は、たかだか百五十年です。ぼくは、「やがて学校はなくなります」と断言してきました。百五十年ほどの制度が、この先も続くとは微塵も考えられない。そんなものがなくても、人間は学ぶことができるからです。むしろ学校は余計な「悪知恵」を植え付ける。植え付けたのではないですか。序列・席次・偏差値などなど、優劣感情、こんなものでは測れない「内容」をうちに秘めているのが人間です。

 「親子がそれぞれにインターネットの動画を見たり、ゲームに夢中だったり。一つ屋根の下は『個』や『孤』の空間になっており、改善には家庭との連携が重要だという」と件の教育会議の御託です。子どもが「勉強する」ために学校と家庭が連携するべしと、いとも簡単に言いますね。できるなら、とっくに実現しているでしょう。学校は、子どもが自分を見つける場です。仲間を発見する場でもあります。みんな仲良くもいいけれぞ、もっと大事なのは「仲良く喧嘩する」ことを学ぶことですね。この経験は、学校を放れてからも有効な働きをする。優等生を否定はしませんが、優等生になるための「勉強」や「学校」の押し売り、それは金輪際御免被るという一念で、ぼくは学校時代をくぐり抜けてきました。「勲章をもらう」ほどの人間には、さいわいにもならないできました。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。