
【水や空】起きてはならない悲劇 もしも、親や先生に叱られた子どもが「遺憾に思います」とか「あってはならないことです」と答えたら…。哲学者の鷲田清一(きよかず)さんは「空想してみたら愉快だ」と、エッセー集「大事なものは見えにくい」(角川ソフィア文庫)に書いている▲心の底から発せられた言葉ではないと分かるから、どこか空々しく、滑稽にも思えるのだろう。韓国ソウルの繁華街・梨泰院の雑踏事故を受けて、尹錫悦(ユンソンニョル)大統領は「起きてはならない悲劇」と述べた▲その割に、韓国の警察庁は「主催者がいれば予防対策も立てられたが、難しかった」「前例がない」と繰り返した。想定外であり、予測不可能だったという弁明に「人災だ」と韓国で怒りが強まる▲狭い空間で何百人もが押し合いへし合いする時の苦しさは、想像を絶するだろう。想定外だ、なすすべもなかった、と当局は遠回しに逃げ口上を並べた。だが、5年前のハロウィーンでは、この路地は通行禁止になったという▲備えが不十分だったと、当局はきのう認めた。打てる手はあったのだと、心の底から思い直したのかどうか▲事故の衝撃からだろうか。東京・渋谷では、仮装した若者たちが警察官に誘導されて、速やかに流れていた。心配された大騒ぎや暴動もなかったというのに、どこかしらホッとできずにいる。(徹)(長崎新聞・2022/11/02)
自分の人生において何が大事か、その決め手はどこにあるのか。あるいはそれを決めるのは誰なのか、というように、「大事なもの」は考えなければ見えてこないんですね。(まるで「星の王子さま」のように、ですね)事件や事故が起こった時、そのことに関心を持てば、その事件や事故は、なにがしかの「思考」を求めてくるのではないでしょうか。写真や動画を見れば分かる部分もありますが、どうしてもわかり得ない部分が残るでしょう。その分からない・見えない部分をこそ、ぼくたちは、自らの「考えるはたらき」で埋めていこうとすんですね。それが「考えること」です。「あってはならないこと」といってみて、では、どうして「あってはならないこと」が起こってしまったのか、その理由は考えないで「二度と同じことが起こらないように」といって、起こってしまった「あってはならないこと」をやり過ごしてしまう。どんなに頻繁に「悲劇」が起ころうとも、「あってはならないこと」といい、「二度と同じことを起こさないために」ということで、問題への意識は消えてしまうし、消すことができる芸当ができるのが「政治家」なのではないですか。

被害者の家族(遺族)には、そんな無責任な「口吻」は無縁でしょう。事後、何年過ぎようが、どんなに慰めの言葉をかけられようが、「起こってしまったこと」は消えてなくならない。犠牲になった「家族の一員」は、年月を超越して、遺された者たちに語りかけるのです。「韓国の警察庁は『主催者がいれば予防対策も立てられたが、難しかった』『前例がない』と繰り返した。想定外であり、予測不可能だったという弁明に『人災だ』と韓国で怒りが強まる▲狭い空間で何百人もが押し合いへし合いする時の苦しさは、想像を絶するだろう。想定外だ、なすすべもなかった、と当局は遠回しに逃げ口上を並べた」と。でも、このような「弁解」はなにも韓国の警備当局に限りません。あらゆるところで、同じような「言い逃れ」や「通り一遍のみせかけの謝罪(虚言)」が繰り返されてきました。

「二度と起こさないために」といった舌の根も乾かないうちに、また同種の事件や事件は起こっている。禁煙の自動車整備検査関係での、この島の自動車会社の度重なる「犯罪行為」は、あからまさに、事件や事故への姿勢を見せつけています。見つかれば、指摘されれば、「見せかけ謝罪」をし、バレなければ、いつでも不正を働く、それが企業の生産行動なんだ。殆どの自動車会社が繰り返し不正検査を指摘され、摘発され、例によって「見せかけ謝罪」の会見を開く。ぼくにはよく理解できないのは、なぜ「記者会見」なのかということです。「格好だけ謝罪し」、その日からも「不正」を続けている。一体これをなんというべきか。見つかれば「謝る」、バレれば、紳士(淑女)ヅラを決め込むという体質。これは何型人間集団なのでしょうか。「やったが悪いか」という厚かましさです。

適切な表現ではありませんが、世間ではどんな「悲劇」も「惨事」も、「人の噂も七十五日」と、経過する時間にすっかり委ねて、日常を生きているのです。ある意味では、世間の冷酷さでもあり、生き延びる方策でもあるのでしょう。いまでは、その賞味期限も「七十五日」どころか、せいぜいが「十日あまり二十日」であって、つまりは、一、二週間で起こってくる、新たな事件や事故に対応する準備をするのです。「事件や事故を風化させるな」「被爆者の苦しみを忘れるな」「原発事故を忘れないように」と言われます。その傍らで、事件や事故は済んだこと、原爆の悲劇は「広島」「長崎」だけのことであって、もう歴史の彼方に消えたんだと、いかにも軽くいなすのです。「福島原発事故」といいますが、放射能の流失などは「アンダーコントロール」といった能天気がいました。いつまでも「原発事故」に悲しんでいられない。さらに安全な「原発」を緊急に作らなければと、時の権力は、何かに突き動かされ(脅迫され)ているかのように叫んでいます。
「喉元すぎれば熱さを忘れる」というのは、失敗や過ちを犯した「当人」の「性懲りのなさ」を笑ったものです。しかし、今日発生する「事件」「事故」は多くの人が「当事者」になっているのですから、その当事者(世間)が「喉元の熱さを忘れない」とならないのは、経験した事柄に対する自覚や意識が希薄に過ぎるからでしょう。いつも言うことですが、「過去」は紛れもない「歴史」であり、その「歴史」を生きているのがわれわれです。過去を忘れるということは、「歴史」に加わっていないということでしょう。仮に「人間の歴史」というものがあって、それに加わらないということは「蟻の歴史」か何かのように、きっと過去を持たないで生きているということです。過去から学ぶことがないという意味は、本能に従う行き方をしているということにならないでしょうか。「ものを学ぶ」とは「過去の経験から学ぶ」ということと同義です。そのような学習経験を持たないで生きるなら、繰り返し同じようにみえる失敗や間違いを犯すことになるでしょう。「本能」も一つの学習能力です。しかし、それはまったく「予想外の変化・現象」には対応できません。それを考えると、まるで学習よりも本能のほうが「人間にふさわしい能力」だと思ってしまいそうになります。

「起きてはならない悲劇」という言い草はどういう性質のものでしょうか。ぼくなら「起こしてはならない」というでしょうね。自らの関与が「起きたこと」に対して問われるからです。親の不注意で「子どもが事故でが亡くなった」とき、親は「起きてはならない悲劇」とは断じて言わない。自らの不注意(無責任)が引き起こした事故だからこそ、「犯してはならなかった誤ち」「起こしてはいけなかった事故」だという意識から自由になれることはないのです。責任とか責任意識とは、「犯した誤ち」から責められることであり、責められ続けることではないでしょうか。自己の過失を責めることでしか「起こしてはならなかった」事故・事件に向き合う方法がないのです。大きな事件や事故を起こした企業ではしばしば見られることです、「社長の俸給何ヶ月分、何%カット」と。いつでもぼくは思ってしまうんです、「ここでもまた、自らの地位を金で買っている」と。

ぼくが勤務していた学校で、ある時期「教員が公金を不適切に使った」という事件があり、当時の総長の責任(問題)意識が問われた(問題の教員を招聘したのは総長だった)。ぼくはその際、総長に向かって「責任の所在を明らかにすべきだ」と繰り返し問いただした。その後、総長は「何%俸給のカット」を言いだし、それでケリを付けたいと言いたかったのでしょう。ぼくは「あなたは、わずかばかりの金額でポストを買うんですか」とある会議で詰(なじ)ったことでした。「偉い人」は、その程度の悪態には平然とできる「耐力」「厚顔力」を持っているんですね。次々に発生する不祥事に付き合っていては、この「大切な御身」がもたないということなんでしょう。

結論はない。あえて言うなら、ぼくたちが生きている時代や社会はけっして「いい社会」ではないということ、いつでもそうだといえますが、では、そんな時代や社会に「生きる」ということはどういうことかと問うこと、これが大事ではないかと言いたい。「いい社会」とは、大上段に振りかぶって問題を広げることではなく、毎日の生活において、くれぐれも「注意深く生きること」、自分にも他人にも「注意深く」、そんな姿勢や態度を自らにおいて作ることです。そういう「注意深い人」が形成する社会が、ぼくの考える「いい社会」です。(ベラーたちが書いた「GOOD SOCIETY」は、ぼくの愛読書でした。▶)
この時「注意」というのは、自分に対する期待であり、こんなところで躓いて堪るかという、自身への希望を奮い立たせることです。誰もが、「注意深い人間」になることができる、なろうとする社会、それはぼくにとって、この上ない「いい社会」です。人間は間違いを犯し続ける存在であり、その間違いを忘れないで生きられる動物でもあります。その核心は、「他人の振り見て、我が振り直せ」であり、「他山の石」という貴重な存在を大事にすることです。(このブログの右サイドに「徒然日乗」と題して、生活の雑感・偶感・愚感を綴っています。ここ数日のテーマは「いい社会とは?」です)
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