「人災」は「天災」の顔をして「命(いのち)」を狙っている

【10月31日 AFP】(写真追加)インド西部グジャラート(Gujarat)州モルビ(Morbi)で30日夕、つり橋が崩落し、橋の上にいた多数の人々が川に転落するなどして少なくとも120人が死亡した。/ 当局によると、つり橋の上や周辺で女性や子どもを含む500人近くがヒンズー教の祭典「ディワリ(Diwali)」を祝っていたところ、橋を支えていたケーブルが切れ、橋の上にいた人々が川に転落した。/ モルビの警察幹部はAFPに対し、「これまでに120の遺体を収容した。捜索は続いており、犠牲者は増える公算が大きい」と語った。/ 当局者は当初、「75人が死亡した」とし、犠牲者の大半は水死だったと述べていた。/ 橋は全長233メートル、幅1.5メートルで、英国の植民地時代の1880年に建造された。/ 民放NDTVは、橋は7か月間の補修工事を経て26日に通行が再開されたばかりだが、安全性は保証されていなかったと伝えた。事故前日の29日の映像では、橋が激しく揺れているのが確認できると指摘している。(c)AFP(https://www.afpbb.com/articles/-/3431495?cx_part=top_topstory&cx_position=1)

 この事故をなんと名付けるのでしょうか。自然災害ではないし、交通事故でもありません。言うまでもなく「管理者責任」が問われるべき「人災」そのものです。橋の上にいた五百人近くの人々は、群衆ではなかったでしょう。事故が起こって、初めて問題が明らかになる。繰り返し事故の発生を待って、繰り返し多数の人名が失われるのを待って、はじめて「二度と起こってはならない事故だ」と、その程度のことしか政治家や役人は言わないのです。自らの命は自らが守る。それに徹していても、「人災」は個々の命を狙い撃ちしてくるのです。「一人の命は地球よりも重い」と、この島の政治家が言いました。「一人の命」が百数十人分もある、いったいその「尊さ」「重さ」と、一つの「地球」は釣り合うのでしょうか。

 何のための政治であり行政であるのか、どこから見ても当たり前のこのことを、いつでも、誰もが問いただしていなければならないのです。 失われた命に、万感の思いを籠めて深甚の悼みを届けたい。合掌するのみ。

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dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)