たくさんの子猫がいる、名前はまだない

 猫に関わる話題です。ぼくにとっても、以前から大いに気になり続けていること。それを下に引用した上毛新聞のコラムが書いていました。いわゆる「保護猫」というのでしょうか。本題に入る前に、一言。上毛新聞は群馬の地域新聞ですから、「猫」となれば萩原朔太郎でしょう。いくつか「猫」がタイトルになる作品があります。小説「猫町」も。ここでは、一瞬の、猫とのすれちがいのような小さな作品をニつばかり。一つは「月に吠える」から。そのデビュー作には北原白秋の「讃辞」がありましたので、一部だけを。もう一編は、同時期の「青猫」所収の「さびしい青猫」です。長く朔太郎全集を所持していますが、まだ、すべてを読み切っていません。これからその作品に立ち向かう気力が出てくるかどうか。何れにしても、問題となるのは「猫」です。

 猫                                                                                       まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』                                                  (「月に吠える」所収・「現代詩文庫 1009 萩原朔太郎」思潮社 1975年刊)

 「月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい。/ ぴようぴようと吠える、何かがぴようぴようと吠える。聴いてゐてさへも身の痺れるやうな寂しい遣瀬ない声、その声が今夜も向うの竹林を透してきこえる。降り注ぐものは新鮮な竹の葉に雪のごとく結晶し、君を思へば蒼白い月天がいつもその上にかかる」(北原白秋の「讃辞」大正六年一月十日)

 驚くほど繊細で神経質でもあった朔太郎氏。彼の履歴を一瞥しただけで、他者と交わり、「和気あいあい」という具合にはいかなかった生活・生涯がよくわかります。じつに「紆余曲折」を経た生活だった。早くから音楽(楽器演奏)を好み、詩を作る。長い間、ぼくには十分に彼の作品群に親しみを持って近づけないように思われてきました。その理由はよくわかりません。ひょっとしたら、この詩人は性格異常であったかとも思っている。でも一、二の詩には甚(いた)く引かれるのも事実です。

 青猫と柳と墓場と月。そこに一陣の風が流れている。この雰囲気はじつに暗澹たるものという感じもします。青猫は、作者にはなにかの象徴でもあったのでしょうか。

ここには一疋の青猫が居る。さうして柳は風にふかれ、墓場には月が登つてゐる。                                 (「さびしい青猫」「青猫」所収・新潮社1923年1刊)

 問題のコラムです。ぼくは90歳ではない、しかし、年齢だけは立派な後期高齢者です。好きでやっているわけではありませんが、野良猫とそれが産んだ猫たちを、なんとか健康に生きられるように、最低限の世話をしていると言うべきか。「猫が好きなんですね」とよく言われるが、好きだから面倒を見ているというわけではありません。だれも世話をしないから、そして、なんとか今のところは面倒をみることができるから、それで「世話」をしているだけのこと。近所の女性も、「よくやっている、と感心するよ」と、半分は本気で、半分は揶揄をいくぶんか含んだ口調で、会うたびに言う。その人の車庫で猫が死んでいると、電話が来る。猫が車道で轢かれていると連絡が来る。その都度、ぼくはダンボールとスコップなどを持って引き取りに行く。これまでにも、この地で、数匹は面倒を見切りました。行政(役所)に連絡すると、「回収袋」をもってきて、焼却するためにゴミ収集車に渡すのです。

 というわけで、生きているものは、やがて死ぬ。犬でも猫でも、その始末をしなければならない。家の庭には、ここに来て数匹が埋められています。お墓も作ってある。「焼却」を、業者に依頼するといいのですが、かなりの高額を請求されます。家に来ていた猫が病死した際、試みに業者に頼んだら、かなり高額な料金請求がありました。誰も彼もが「面倒を見る」「世話をする」のが当然というのではありません。猫アレルギーでない限り、あるいは少しばかり猫との付き合いにタイムとマネーがあるなら、ぜひ「猫と、つきあってほしい」、そのように心から願っている。結婚して、来年三月で半世紀です。この間、すべて捨てられていた猫、あるいは野良猫になっていたもの、取り混ぜて、五十匹はくだらない数の猫と付き合ってきました。医療費も馬鹿にはなりませんでした、今でもそうです。余裕なんかないけれど、なんとか、命をまっとうさせてやりたい、もちろんぼく自身も。両方の願いが合致しているんだと、勝手に受け止めては、なんとか時間や金を工面しているのです。

 ぼく宛のメールなどにも、しばしば「保護猫」を助けてください、「クラウド・ファンディング・crowd funding」の署名や寄付などの依頼が来ます。ほとんどは署名だけで済ませていますが、余裕があれば、寄付もしたい。ぼくは、何十年も、寄付(支援・援助)を求める「人間たち」(NGO)に、それこそ「貧者の一灯」を灯し続けてきました。文字通りの気持ち(寸志・small intention)だけですが、それでも、これまでの総額は相当な金額になります。千万を超えているでしょう。自慢をするのではありません。自分の足で歩ける限り、自分の頭にとまったハエを追い払うことができるならば、そんな程度のチャラい気持ちでやってきました。政治の貧困、政治家の非道を嘆くことしばしばですが、それでも「なけなしの寄付(little donation)」を続けてきました。もしぼく自身が「孤児(ミナシゴ)」だったらと思い、あるいは、ぼくは「ここにいる野良猫だ」と思いこんでしまう、だから野良たちを見ると「居ても立っても居られない(I can’t stand it)」気分に襲われるのです。「やれる範囲」で、「だれにも知られない」で、そして「ぼくの趣味は寄付です」などと密かに口ごもりながら、もう、そんな秘事を三十年以上も続けてきました。  

 以下の上毛新聞の「三山春秋」、これを目にして、やはりぼくは立ち竦(すく)んでしまいました。コラム氏が記事にするだけでも頭が下がるが、下がりついでに「どうです、一、二匹ぐらい」、猫と戯れるといいますが、きっと快適な気持ちにさせてくれますよと言いたくなります。「(90歳の)女性が餌やりをしている猫は避妊去勢手術をしていないようだ。世話を続けるのは難しいと感じたが、制止はしなかった」のはどうしてでしょうか。ぼくは直観しました、密かに「手術費用」を立て替えるつもりだと。二、三万円ほどですが、貴重な寄付ですね、「ありがたい」と、ぼくは早合点しています。

 この新聞社にはいささかの因縁があります。どこかで触れましたが、その奇縁で、一度、この記者さんにお聞きしたいですね。「ありがとうございました」と。「NPO法人『群馬わんにゃんネットワーク』が保護に乗り出しているが、避妊去勢手術費の捻出は難題だ▼同法人は行政や地域住民が早めに気づき、手を差し伸べる大切さを訴えている。筆者はまず、冒頭の女性に会い、猫について尋ねることにしたい」と書かれています。「手術がまだなら、ぼく(わたし)がなんとか工面しますから、ご心配はいりません」というか、あるいは「もし猫が増えたら、ぼく(わたし)がいくつかを引き取りましょう」というはずです、きっと。記事に書いたんですから。 

【三山春秋】▼90歳を過ぎて1人暮らしをしている高崎市の女性と取材で知り合った。夫の遺品を整理する際、業者に随分と買いたたかれたらしい。詐欺と疑われる電話がかかってきたこともあり、怖くなって固定電話はもう使っていないという▼近くを通って顔を見かけると、心配も手伝って声をかけるようになった。ある時、猫が家に寄るようになり、餌を与えているうちに来る回数が増えたと、聞かされた▼以前、動物愛護団体関係者から「猫算」という言葉を教えてもらった。猫は年3回ほど出産し、1回に産むのは4~8匹。爆発的に増える強い繁殖力を表すという。女性が餌やりをしている猫は避妊去勢手術をしていないようだ。世話を続けるのは難しいと感じたが、制止はしなかった▼同市内の民家で約170匹の猫が飼育されていたという記事があった(18日付)。1人暮らしの男性が入院したこともあり、十分な飼育ができず多頭飼育崩壊に陥ったとみられる▼取材した同僚は散乱したふん尿によるアンモニア臭で「目が痛かった」と話す。死がいも転がる悲惨な現場が容易に想像できる。NPO法人「群馬わんにゃんネットワーク」が保護に乗り出しているが、避妊去勢手術費の捻出は難題だ▼同法人は行政や地域住民が早めに気づき、手を差し伸べる大切さを訴えている。筆者はまず、冒頭の女性に会い、猫について尋ねることにしたい。(上毛新聞・2022/10/28)

 今住んでいる町は小さな規模です。今夏、町長選がありました。投票依頼に何度か来られた方が当選された。この街は、急激な人口減少で苦しんでいます(十年前は八千人を超えていました。現在は七千人を割りました)。他地域と同じように、企業の工場や遊園地などを誘致しても埒(らち)が飽きません。犬も猫も、安心して暮らせる街(町)を作ることに力を入れてほしいと、新町長に進言するつもりです。野生動物の大半は「愛玩用(ペット)」のなれの果てです。犬や猫が安心して暮らせ(生きられ)ない地域で、人間が安心して暮らせるはずもありません。ぼくの近所で、野良猫たちを再生産しているような「オタク(お宅)」が数軒あります。時々、キャットフードを進呈していますが、去勢や避妊はしていないと言う。なんとか、そこまで手がまわらないかと、思案しているところ。ぼくもかみさんも後期高齢者、最後まで猫の面倒を見られるか、じつに心許ないのですが、くよくよしても始まりません。家に来る猫は、今のところ、すべてが「手術済み」です。これ以上は増えないと思っているし、願っています。

 フランスなどでは「ペットショップ禁止」になるとか、なったとか。その政策に、この劣島も感染してほしい。(「赤柴、生まれたて入荷」「最終処分」などという幟(のぼり)や看板を見ると、火をつけてやりたくなります。もちろん、今のところは、つけていませんけれど)

 犬よりも圧倒的に猫が「殺処分」されています。わざわざ保護猫を引き取り、虐待する異常者も後を絶たない。犬や猫は勝手に生まれてきたのではない。猫の面倒を見るのは、ぼくがこれまでの人生で犯した数々の罪の償いのつもりと、言う気はありません。たくさんの間違いを犯しましたが、それは、ぼく自身にかかわる行為で償うものです。いかにも「御為ごかし」というような「芸」はしないつもりです。生まれた命を「選別」も「差別」もしないで、だれもが、できる限りで命をまっとうしたいという、ぼく自身にもある心持ちは、おそらく猫たちにだってあるだろうと思う。いかなる存在であれ、生命をまっとうしてほしいですね。

*ここまで書いてきたところで、昨夕から森の中に入って、一晩帰ってこなかった親子(九つ)が、今帰ってきて、食事を貪り食っています(午前十時)。貪る風景は、いかにも壮観ですね。その中の一つは「間違いなく、ぼくです」ね。子猫たち(八つ子)は生後二ヶ月半経過です。「育児手帳」はないけれど、子育てにかかる手間暇は、人間の子と同じですね。

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