書物は憲法の核心と密接不可分の間柄だ

 【大観小観】▼図書館が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の関連本を所蔵していたからといって問題はあるまい。あらゆる分野の本をそろえて誰もが学べる機会を提供するのが図書館の使命である▼県立図書館で関連本、それも総裁の講演集ともいうべき本が見つかったというのは、希少本を所蔵していたということにもなろう。担当者が「取り扱いを検討」するというのはおかしな話で、続けて「検閲をしないのは図書館の使命。内容にあからさまな人権侵害などがない限り、貸し出しは続ける」と語った正論とはいささかの矛盾がある。担当者も宮仕え。正論が通じぬ世界にいることも先刻承知だからかもしれない▼人事、財政に絶大の権限を持つ総務部から関連本の調査を指示されたという。「なんのため」などと聞くわけにもいくまい。「検閲」に抵触しかねないが、とにかく調べて20冊と答えたが、韓総裁の〝講演集〟はすっぽり抜け落ちていたというから、しまらない話だ。出版社名だけで検索したせいという。お粗末極まる▼指示する方も従う方も「検閲の禁止」、表現の自由に関わる憲法問題を突き詰めて考えたことなどないのだろう。宗教の自由についても場当たり的にしか考えていないから県の随所に入り込まれているのことに各部門とも「知らなかった」▼県立図書館は平成八年頃、部落解放運動団体の一つ、全国部落解放運動連合会系の図書を県の方針に合わないとして閉架に移したことがある。自分たちが図書の選別、すなわち検閲をした。時々の風向き次第で右でも左でも。もとより芯はないのだろう。(伊勢新聞・2022/10/27)

 旧統一教会関連本を所蔵 三重県立図書館「取り扱いを検討」 三重県立図書館(津市一身田上津部田)が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の韓鶴子総裁による講演をまとめた書籍を所蔵していることが分かった。図書館は9月に旧統一教会と関係する蔵書の有無を調べたが、この書籍の存在を把握していなかった。記者が図書館で発見したことをきっかけに発覚。図書館は「書籍の取り扱いを検討する」としている。/ 図書館によると、この書籍名は「地球家族」(泰流社)。韓氏が世界平和女性連合の総裁として平成3年から同8年にかけて講演した内容を記載している。韓氏を「神に選ばれた女性」などとする解説もある。/ また、図書館は蔵書検索システムで、この書籍について「統一教会の文鮮明氏の妻にして、世界平和女性連合の総裁である鶴子女史の初めての講演集。宗教的な内容が中心」と紹介している。/ 図書館は9月、総務部の指示を受けて旧統一教会と関係する蔵書の有無を調査。当時は20冊が判明したが、いずれも「宗教的な内容が中心の書籍ではない」などとして貸し出しを継続していた。/ 図書館企画総務課の担当者は25日、取材に「この20冊以外に教会と関係する蔵書はない」と答えたが、記者が司書に依頼して地下の書庫から取り寄せた書籍を示すと「知らなかった」と語った。/ 9月の調査では教会との関連が浮上している出版社名だけで検索したことから判明しなかったという。この書籍が出版された平成8年ごろに購入したとみられるが、購入の経緯は分かっていない。/ 担当者は書籍への対応について「館内で議論することになる」とした上で「検閲をしないのは図書館の使命。内容にあからさまな人権侵害などがない限り、貸し出しは続けると思う」と話している。(伊勢新聞・2022/10/26)

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 毎度のことで、いちいち応接する暇もないと言いたいところです。昨日から「読書週間」だと言うらしい。本とか書物というのは「文化」の象徴とされ、毎年「文化の日」を間に、二週間を「読書週間」と、某所が定めたといいます。良書と悪書などといって、街から悪書追放運動なるものも見られてきました。なにが悪書か、読んでみなければわからないじゃないかという気もします。これは「悪書」と、誰か、本の目利きが読んで判断しているのでしょうか。

 珍しいことに、伊勢新聞から二本の記事です。三重県は親父のおふくろ(ぼくの祖母)の出身地、なにかと懐かしさを覚えますが、この記事内容については、少しは考えて見る必要があると、取り上げた次第です。今回は、たまたま旧統一教会が問題視されている時期だったので、この団体関連本が槍玉にあげられています。しかし同じような事例は過去にいくらもあった。

 「図書館が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の関連本を所蔵していたからといって問題はあるまい。あらゆる分野の本をそろえて誰もが学べる機会を提供するのが図書館の使命である」、この趣旨に反対する理由はありません。表現の自由を持ち出すまでもなく、誰かが恣意的に(勝手な基準で)「検閲」に結びつく行為をしては「図書館」の名が泣くでしょう。いかなる内容が書かれていたとしても(あからさまな人権侵害や名誉毀損に該当するもの以外は)、検閲(選別)は許されないと言うべきだ。今回の「旧統一教会」関係者の著作物であっても、図書として排斥するのは行き過ぎているのではないですか。三重県は「人権問題」に鋭敏というか、いくつもの経験を蓄積されてきていると、ぼくなどは考えていたものですから、このような事態が生じることを見るにつけ、今までの「人権啓発」は何だったのかと言いたい気がします。いや、実態は人権侵害の見本市のようだから、「啓発」に躍起になっている・いたのかもしれない。

 「県立図書館は平成八年頃、部落解放運動団体の一つ、全国部落解放運動連合会系の図書を県の方針に合わないとして閉架に移したことがある。自分たちが図書の選別、すなわち検閲をした。時々の風向き次第で右でも左でも。もとより芯はないのだろう」という時、まず「検閲」と「選別」を混同しているのはどうでしょうか。図書館の場合は多く、「選書」「選定」というようですが、なにを基準にそれをするかが、明確であるべきだし、時勢に動かされてはならないのは当然。このような「権力」の匙(さじ)加減で貴重な「文化」(「思想」)が左右されてきた歴史を忘れてはならないと思います。いかなる内容であれ、特定の基準によって、特定の書物は排斥されてはならないと、ぼくは考えているのはいうまでもない。ごく一般的な意味で、ぼくはこれまでに、相当に評判の悪い、いわゆる「悪書」を読んできました。だから、ぼくは「ダメ人間」になったというのではない。元々駄目だったのですから、「悪書」は何の影響もぼくに与えなかったでしょう。却って「良書」の中にこそ、本物の「悪書」があったようにも経験してきました。「本物の悪書」とは、ぼくにとって、不愉快極まるものであり、結果として「人権蹂躙」が根底にあるものでした。そんなものは、街中で出会えるものではありませんし、まして、図書館ではありえないでしょう。

 これはいい本、これは悪い本と、誰が見ても一目瞭然、そんな便利な基準がありそうに見えますが、なかなか簡単には測れないでしょう。結局は、その本を手にする「読者」が決定するのが根本だし、もっとも大事なところです。でも、時にその判定能力が未熟な場合もありますから、それなりの手当て・手助けは必要です。年齢や能力に一切関係なく、どんな本でも「図書館」に収め、誰にも読めるようにすべきだと、ぼくは言うのではありません。これは「常識」に属することですが、その「常識」を持たない大人や青年たちがいることも事実だから、間違いや過ちがあり得ることを想定して、しかも「検閲」や「選別」はすべきではないと言うのです。図書館館員や官吏が「検閲】まがいのことをするのは、認め難いし、これ「悪書」だとして、民間人が徒党を組んで「青少年健全育成に資するものではない」と、自らの選択によって、現代版「焚書坑儒」をしたこともありました。あるいは、ぼくが知らないだけで、今日も「焚書」は行われているのかもしれません。

● 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)=中国、秦(しん)の始皇帝による思想言論弾圧事件。始皇帝の天下統一から8年後の紀元前213年に、博士淳于越(じゅんうえつ)が古制に従って子弟を封建するよう建議したのに対し、丞相(じょうしょう)の李斯(りし)は、学者たちが昔の先例を引いていまの政治を批判するのを禁止せよと上奏した。始皇帝はその主張をいれて、『秦記』(秦国の史官の記録)および医薬、卜筮(ぼくぜい)、種樹(しゅじゅ)(農業)の書物以外は、『詩経』『書経』や諸子百家の書を民間で所蔵することを禁止し、すべて焼き捨てることを命じた。さらに翌年、始皇帝を批判した疑いのある方士(ほうし)、儒生460人余りを検挙し、都の咸陽(かんよう)で「坑(あなうめ)」の刑に処した。旧中国における第一の思想言論弾圧事件とされるもので、とくに禁書令による文化的損失は大きかったが、その後10年もたたぬうちに秦帝国は滅亡した。(ニッポニカ)

 

● 悪書追放(あくしょついほう)=社会的に悪影響のある書籍雑誌の出版や販売を中止させること。 1963年の場合のように,青少年条例の有害図書指定を根拠とすることが多く,言論,表現の自由を圧迫しがちである。(ブリタニカ国際大百科事典)

● あくしょ‐ついほう〔‐ツイハウ〕【悪書追放】青少年に有害な雑誌を追放しようとする小売書店の運動。昭和38年(1963)10月、山梨県の甲府書籍雑誌共同組合が始め、全国各地に広がった。(デジタル大辞泉)

 ここで「憲法」を持ち出すのも、意味のないことではないように思われます。図書館員、あるいはお役人は、骨の髄まで「憲法」に鎧(よろ)われていないんですね。時流・時勢に漂流している限り、「人権」はあらゆるところで危殆に瀕し続けるに違いありません。「公務員」が憲法に無関心であっては、人民には立つ瀬(面目)がないがな。

日本国憲法第14条
1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

日本国憲法第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

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 読書週間の歴史 終戦まもない1947年(昭和22)年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。 そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。/ そして『読書週間』は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。/ いま、電子メディアの発達によって、世界の情報伝達の流れは、大きく変容しようとしています。しかし、その使い手が人間であるかぎり、その本体の人間性を育て、かたちづくるのに、「本」が重要な役割を果たすことはかわりありません。/ 暮らしのスタイルに、人生設計のなかに、新しい感覚での「本とのつきあい方」をとりいれていきませんか。/『読書週間』が始まる10月27日が、「文字・活字文化の日」に制定されました。よりいっそうの盛りあがりを、期待いたします。(公益社団法人 読書推進運動協議会:http://www.dokusyo.or.jp/jigyo/jigyo.htm)

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 「喉元すぎれば、熱さを忘れる」と言われます。今では喉元を過ぎないうちに、熱さを忘れるという病理が蔓延しているのではないでしょうか。ぼくなら、さしずめ「雨晴れて笠を忘る」ということではなかったか。反対に「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ということもあります。どちらか一方に偏するのではなく、いつでも「自らの不注意を防ぎたい」「不注意に注意したい」ということです。晴れもあれば雨もある。曇りもあれば土砂降りもある。天気は自然現象(だった、その昔は)ですから、人為的にコントルールはし難い。そこへ行くと「人事」はなんとか「自制」できるのですよ。でも、時勢と言うか、時代の流れという「人為現象」が「価値基準」を勝手に作り、それをあらゆるものに当てはめたくなる、それが、世にいう「政治」ですね。「旧統一教会」は悪だが、「創価学会」は善であると断定はできないのは、ある人間が全面的に「善」であり、別の人間はまるごと「悪」でないのと同様です。一人の人間には「善」と「悪」の両面が存在しています。

 もっといえば、健康の心身に病気の部分が、病気の心身に健康な部分がきっとあるのです。だから、大事なのは、全体を見通す、見抜く、そんな洞察力を育てることです。そのための大きな作用は、いろいろな場面における「教育」によるものです。学校教育も家庭教育も、あるいは社会教育も、すべてが共同・協力して、一人の人間の「判断力」や「注意力」を育てることに責任がある。交通信号のように、誰かが「赤・青・黄」の判定(命令)者の役割を果たすような集団(社会)は、決して健全な集団(社会)ではない。己の判断を誰かに依存するというのは、まことに知恵のない話です。誰か(権威筋)が「正しい」というから、自分も「正しい」と思う、というのは「判断力」や「批判力」の放棄を意味する。まるで、羽のないトンボじゃありませんか。

 誰かにとって「悪書」でも、別人には「人生を導く好著」になりうる。それを判断するのは個人です。なによりも、個々人が自らの「判断力」を育てる、そのためのかけがえのないサポートになるのが、外からの教育作用です。間違えてはいけない。成績を上げるとか、偏差値を高めるのもいいけれど、そんなアホみたいな「教育」で生み出された人間たちが、結果として、この国を破滅の縁にまで導いてきたんじゃないですか。読書週間にふさわしくないかもしれませんが、「良書・悪書」の見極めができる判断力や知恵こそが、他人に左右されない「自立した」人間を生むでしょうね。本の効能(読書経験)は、ここにもありそうです。まず本を読もう、その次に、それは自分にとっていい本だったか、よくない本だったか、おのずから判明するのですから。(「他山の石」という訓戒は、一冊の本においても妥当しないでしょうか)

 ネットの時代、本に限らず、あらゆる情報媒体が錯綜・氾濫しています。その一つ一つを「選別」し、区分けして「排斥」するのは至難の業というより、すべきではないことでしょう。情報統制がどんな不幸を人民にもたらされるか、ぼくたちは、毎日のように、東欧で起こっていることとして見せつけられているではないですか。政府が「白」というから、黒いカラスも「白」という、それは自分を偽ることです。自分を偽ることは、何のためでしょうか。権力の忌諱に触れるからですか。「白旗作戦」などという性悪の政治が戦争を引き起こし、他国の人民を殺戮し、自国民すらも路頭に迷わせる。おかしいことはおかしい、それを自らの生活の信条(ビリーフ)にすることがなければ、ぼくたちは自失したままで生きさらばえているというほかありません。ネット情報であれ、それを読む力がなければ、足元を救われます。その力本を読み取る力と選ぶところはなさそうです。

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