この世に神も仏もないのか、と猫が問う

 神無月も残りわずかになりました。劣島に関しては、この月は、あらゆる神さんが出雲に出張って、各地元では「神不在」になるという。逆に出雲は「神在月(かみありづき)」として、大社の境内は、神々の寄り合いでごったがえしている。大変な賑わいであり、出雲地方の各神社も「神を迎える行事」に忙殺されるそうです。出雲観光のPR用HPには、以下のように「神在月」の様子が記されています。なにしろ「八百万(やおよろず)の神」といいます。大変な密度で「神々の祝祭」が寿(ことほ)がれ(「三密」は避けたほうがいい)、やがて神々は、もと来たみち道を、空路か陸路か、あるいは海路を辿って帰郷するらしいのです。いわば、アマテラスとオオクニヌシの手打ち式で、この島の土地争い(ヤクザの縄張り争いのようです)、「シマ取りゲーム」に終止符が打たれた証(例証)が「神無月」「神在月」の名称に遺されているのです。こんな神話を、誰が作り、誰が信じさせたのでしょうか。そのフェイクの軛(くびき)(右上写真)から、今日でも抜け出せずに、藻掻(もが)き苦しんでいる衆生は数知れずですから、ね。誰とはいえませんが、なんとも罪作りなことをしたものです。

*********

 神無月(旧暦十月)に全国の神々が出雲に集まるという伝承は、平安時代末の「奥義抄」以来様々な資料に記されています。神々は出雲大社や佐太神社などに集まり、酒造りや、縁結びについて合議されると民間伝承では伝えられています。/ 神々はなぜ出雲に、なんのためにお集りになるのでしょう?/ 大国主大神が天照大神に「国譲り」をなさったとき、「私の治めていますこの現世(うつしよ)の政事(まつりごと)は、皇孫(すめみま)あなたがお治めください。これからは、私は隠退して幽(かく)れたる神事を治めましょう」と申された記録があります。この「幽れたる神事」とは、目には見えない縁を結ぶことであり、それを治めるということはその「幽れたる神事」について全国から神々をお迎えして会議をなさるのだという信仰がうまれたと考えられます。/ 神魂神社やかつての佐太神社では、諸神の親神にあたるイザナミノミコトの法事のために参集されると伝えられています。また、出雲に来ず留守を守る神様もあるようです。(「出雲観光ガイド:https://www.izumo-kankou.gr.jp/6404)

+++++++++

 ぼくは神社には、よく行きます。あまり信仰心は持たない人間ですから、お参りなどではなく、境内を散歩したり建物(神殿など宮造り)の見物です。出雲には行ったことがない。お伊勢さんには七十年前に行ったことがあるだけです、強制されて。ご利益もなにもあったものではない。拙宅には神棚はありますが、ほとんど利用しないで、物を置く棚代わりです。罰当たりと言われるのは当然ですが、神や仏を信心してもしなくても、あまり人生には影響がないと思っている。「困った時の神頼み」だそうですが、まず先立つ物は「金」ですよ。お賽銭を、どうぞ。額が多ければ、それだけ「救い」も確かだというのか、金で「救い」を売るようなもんだね。「福翁自伝」に出ている諭吉の「神試し」です。大分中津の自宅庭にあった「社(祠・ほこら)」の中に何が置かれているか、幼児の頃に、覗いてみたことがある。紙切れかなんかが入っていたので、それを取り出し、諭吉は踏みつけたそうだ。それ以降にも、特段何の祟(たたり)もなかったので、「なあんだ」と子どもごころに悟ったそうです。

 神や仏に「一億円」「何千万円」と寄付(喜捨)する人が、たくさんいます。要するに「お布施」です。これは、洋の東西を問わない。神・仏は「物乞い亡者」かと言いたくなります。でも実態は、神や仏が物乞いをするのではなく、それを操っている「餓鬼」が、金銭を無心し、せびり倒すんでしょう。酷いものですね。(宗教法人は、どうして豪盛な建物を作りたがるのか。どこでも「威容」を誇っているように見えるが、ぼくには浅ましい限りとしか思われません。貧乏人には「信心」はできないというようです。間違いですね、宗教は「アヘンだ」とマルクスが言ったのは、それに帰依すると「癒やし」になるからだった。「癒やし」ではなく騒動や家庭不和、あるいは家庭崩壊の種を蒔いてなにが「救い」なものかと言いたいな。

 罰当たりついでにいうと、日本の仏教でいう、この「お布施」は無税でしょう。宗教法人にはいろいろと税に関して特典があります。この特典を我が物にするために、法人格を国に対して求めるのです。莫大な「寄付」は無税ですから、神や仏を動かしている人間には応えられないでしょう。「大枚を、喜んで捨てる」、それを喜捨と言う、いや言わせる、その魂胆が卑しいね。じつに、いい気なものです。人の弱みにつけこむ、詐欺や暴力を働く、まったく仏教を弄んでいると言いたくなります。(すべての宗教法人がそうだとはいえないでしょうが)信教の自由と税制優遇とは関係はないもの、「地獄の沙汰も金次第」とは、一体誰が言ったのでしょうか。

 あまりにも信仰心のない駄文になりました。やがて、出雲への出張から「神」が帰郷しますので、この町内の白幡神社の前を通るのは避けたいですね。いたるところに「神社」があって、不届き者を懲らしめるために網を張っていそうです。(一キロ四方に、4つも5つも「お宮」がある)

=====================================================

▼ これまでは週一でキャット・フードを買い出しに行っていたが、子猫も生後二ヶ月半過ぎ、ほぼ一人前を平らげるようになったので、四、五日ごとに購入する羽目になりました。先日店に行ったら、常食用の缶詰が五割以上も値上がりしていた。錯覚かと思い、細い目を無理に見開いたら、正真正銘の値上げだった。人間用のものなら、えげつない値上げはできないと、世間(関係筋)も判断するでしょうが、動物相手だと足元を見るというのか、じつに遠慮なしの高騰芸でした。すべては当節の「物みな値上げ」の一列縦隊かと見過ごしたい気もするし、いや「便乗値上げ」という悪乗りも相当にあると疑ってもいる。猫缶などはその口か。それはともかく、人でも動物でも、生き物である以上は、食わずに暮らせない。まして自給自足が不可能である以上は、否応なく「言い値」で買うほかありません。「物価高われ痩せ細る秋の宵」(無骨)(「徒然日乗」・Ⅹ)(2022/10/26)

▼ 昨日と似たような曇天で、気温もかなり低いままです。時に小雨も降ってくる。さすがに暖房がほしい気分になる。ぼくは夏の暑さと冬の寒さには、そんなに音を上げない方でしたが、寄る年並ですね、人並みに体が要求するようになりました。▼ 日が差していれば、草取りを予定していました。おそらく、今年は四回目。一週間はかかります。これをしないと野原然としている庭が、さらに汚く、種々の草種(くさぐさ)に占領されてしまいかねない。今年は、どこへ行っても「セイタカアワダチソウ」のひときわ高い茎・幹が目立ちます。これが繁茂すると、景色が一変し、向こう側が見えなくなる。▼ 草にも命があり、それを邪魔だ、目障りだと言って根絶やしするのを厭わない人もいるでしょう。除草剤をタップリ撒布し、草はもちろん、蝶々やトンボ、あるいはアリやミミズまで退治する。昆虫類が死滅するほどの化学薬品を撒いておいて、その土の上で人間が落ち着いて過ごせるのでしょうか。(「徒然日乗」・Ⅸ)(2022/10/25)                    

▼終日気温が上がらず、まるで雪でも落ちてきそうな寒い一日でした。先人たちは、冬から春への季節の変わり目に、春を待望する気持ちも籠めて「三寒四温」と言い慣わしていた。その例に倣うなら、さしずめ晩秋から初冬に差し掛かろうかという、今頃は「三温四寒」とでも言ったところか。昨日は「霜降(そうこう)」でした。蛇笏の句に「霜降の陶 (すゑ) ものつくる翁かな」とあります。息の龍太さんにも、ぼくは親しみましたが、なぜか、俳人蛇笏の「生涯」というものを、時に痛切に想ったりします。(「徒然日乗」・Ⅷ)(2022/10/24)

▼ 今日は秋晴れというのか、久しぶりの好天です。子猫たちが庭で、家の中で飛び回っています。「猫のいる風景」といいますが、そんな風情のあるものではありません。ぼくのところは、猫に占拠された陋屋(ろうおく)、車庫も奪われている。「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」(Give him an inch and he’ll take a yard.)というが、奪い取るのは人間ばかりではなかった。▼ 「保護猫」と、だれもが言います。でも「保護犬」とはあまり聞かない。それだけ対象が少なくなったということのようです。幼児の頃は、とにかく「野良犬」(「野犬」)がいたるところにいました。(「野犬狩り」もいた)野良の一つを連れてきてからが、犬猫との付き合いです。以来、もう七十年以上になります。これまでにどれだけの犬や猫や鳥たちと付き合ったか。すべてが「捨てられた」動物だった。 散歩中に野良猫などと目が合うと、ぼくは立ち竦(すく)む。「捨てられているのは、ぼくだ」と思い知らされるからです。少なくとも、猫を残して先立てないと、我が身の健康に、今更のように思い及んでいる始末。(「徒然日乗」・Ⅶ)(2022/10/23)

▼「燃えるゴミ」の回収日は毎週火・木・土。その日になると、ぼくは重いゴミ袋を、車で収集場まで持っていきます(毎回ではありませんが)。だいたい、六時から六時半ころに。距離にして二百メートルほど、坂道のためもあり、重量があるための車載です。 ▼ 本日も六時半ころに行くと、近所の女性に出会いました。農家の奥さん、愛犬(柴)の「あいちゃん(十四歳)」に引かれて。それとなく雑談に及び、なんと「いまは一人で畑をしています」という。相方(夫)は勤めに出たそうです。それにしても、広大な面積を一人で担っていることになる。いきなり「手伝ってもいいですか」と言いそうになりました。帰宅して「言わなくてよかった」と、胸をなでおろしました。どうしてですかね(「徒然日乗」・Ⅵ)(2022/10/22)

________________________________________

投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。