全中国人が泣いた、高架橋にたった1人で横断幕を掲げた青年とアニソンとは? ラージャオ(中国人風刺漫画家)/トウガラシ(コラムニスト)NEWS WEEK 日本版(2022年10月25日(火)13時30分) <天安門事件以降、経済を優先し、「自由は食えない」という考え方が中国社会に普及した。しかし、青年の勇気にアニメのテーマ曲「孤勇者」で敬意を表する人々が続出。その内容とは?>

「君が一人で暗い路地を歩く姿が好き/君がひざまずかない様が好き/君が絶望と対峙する姿が好き/泣くことはしない」/ この「孤勇者(こゆうしゃ)」という歌は一晩のうちに、中国SNSの微信(ウェイシン)を席巻した。/「孤勇者」とは孤独な勇者の意味で、あるテレビアニメのオープニングテーマ曲。中国の小中学生に人気のこの歌が大人の世界で急に人気を呼んだのは、共産党第20回党大会直前の10月13日、北京市内の高架橋・四通橋に反政府・反独裁者のスローガンが現れたからだ。

交通量の多い北京市内の高架橋にたった1人で横断幕を掲げ、その場ですぐに逮捕された勇者の名前は黒竜江省出身の彭立發(ポン・リーファ)。事件が判明すると同時に、横断幕に関する映像や写真をシェアした微信や微博(ウェイボー)のアカウントはほぼ停止。彼の勇気に敬意を表することができるのは、この「孤勇者」の歌しかなかったのである。/ 彭がたった1人で北京の高架橋に横断幕を掲げ、自分の主張を叫んだ姿は人々の心を揺り動かした。海外亡命した自由派も「俺たちは孤勇者の彭さんに負けた。恥ずかしい!」と涙した。/ 天安門事件以来、中国政府は経済最優先を唱え、儲けを第一とした。「自由は食えない」「民主は食えない」という考え方は中国社会に普及し、人々は考えることをやめた。生活が豊かになれば、自由なんてどうでもいいと思い込んだのだ。/ しかし今回のコロナ禍による政府の勝手なロックダウンや日常監視の常態化は人々から働く自由を奪った。「自由は食えない」と考えるならば、「ご飯さえも自由に食えない」のだと、一部の人はやっと分かってきた。/ 厳しい言論統制の中、彭の主張を印刷してひそかに公共の場に貼る若者も現れた。今は1人だが、「星星之火,可以燎原」(小さな火花でも広野を焼き尽くすことができる)という言葉のように、いつの日か独裁政権を焼き尽くすだろう。この言葉は中国共産党が成立した当初の信条でもある。(https://www.newsweekjapan.jp/satire_china/2022/10/post-85.php)
「PCR検査は不要、ご飯が必要/ロックダウンは不要、自由が必要/文革は不要、改革が必要/領袖は不要、投票が必要/奴隷は不要、公民が必要」「独裁の国賊、習近平を罷免せよ」

不要核酸要吃饭/不要封控要自由/不要谎言要尊严/不要文革要改革/不要领袖要选票/不做奴才做公民/ PCR検査ではなくご飯を/ロックダウンではなく自由を/嘘ではなく敬意を/文革ではなく改革を/領袖ではなく投票を/奴隷ではなく公民を

【動画】香港歌手イーソン・チャンが歌う「孤勇者」/ Eason Chan:(https://www.youtube.com/watch?v=Hlp8XD0R5qo)
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五年ぶりの中国共産党大会が終了した。その模様をネットで観ていて、熾烈な権力闘争が続行中であるという印象を強く持ちました。ぼくは政治には人並みの関心はありますが、政治オタクではないし、まして研究者でもありません。隣国に住む「一人の国民」として、単純に抱いた感想を例によって綴るばかりです。「人はなぜ、権力者などになりたがるのか」「どうして、人民を支配したくなるのか」、およそ、ぼくのどこを探しても見いだせない感情(情念)(アドレナリン)を多量に持っている人が「政治家」になるのでしょう。あるいは、当初は穏やかで平凡な夢を抱いたが、政治の世界に生息するうちに「権力への意思」が沸々と湧いてくるのでしょうか。若い頃に耽読したニーチェの本を思い出します。
共産党大会の終了宣言儀式の開会直前に、異様な画像が流れてきました。前の国家主席が議場から強制的に退席(退場)させられたというものです。あまりの傍若無人ぶりを恣にしている現主席に、前任者として「人事に対して詰問する」、そんな場面の背景が想像されますが、この映像が中継されたということ自体、習近平氏の「独裁」の完成と、「自信の現れ」を世界に見せつけたということだったかもしれません。誰一人、異論が許されない体制は、驚くほど脆(もろ)い。その事例は枚挙に遑(暇・いとま)がありません。十四億の人民を支配するという「野心」「野望」はどうしたら生まれ育つのでしょうか。ぼくには、どこを探しても、絶対に見られない体質であり、だから、どう足掻(あが)いても、感覚的に理解不能なんですね。ぼく個人においては、それでいいのですが。




人間は政治的動物であることは、誰か(「アリスとテレス」、大学生の頃、新宿は新大久保に、こんな店名の茶店がありました)に言われなくても確かだと思います。しかし独裁権力を握って、思う存分に権力を行使したい、振り回したいという、多くの並の政治家には認められない、(ぼくに言わせれば余分な)毒素を多量に含んだ「エネルギー源」はタンパク質ですか、脂肪分ですか、それともカルシウムですか。炭水化物ではなさそうですね。きっと体内の栄養素の分泌量が、ぼくのような小人とは桁違いに異なるのでしょう。権力と権力が「一国内」で争われている分には、被害者は出でも、国内限定です。それが国外に及ぶと、大変な被害を生むでしょう。他国に戦争を仕掛ける、他国の領土を占拠する、そんな暴力が、これまでの歴史のいたるところのページを占めています。いや、戦争の連続史こそ、戦争による勝者と敗者の優劣競争史をこそ、ぼくたちは「歴史」と称しているのではないでしょうか。歴史は「加害者の生んだ被害者の陳列(墓碑銘)」でもあるのでしょう。「歴史は戦史である」とも言えそうです。

中国の権力闘争に特段の興味をもつものではありません。しかし、これまた隣国台湾の併合・併呑を堂々と宣言する権力者が、近海の向こうに存在しているというのですから、ロシアとウクライナの事例にまつまでもなく、この島は大きな影響(波しぶき・津波)を受けるでしょう。だから「防衛力の増強」というのではない。徹底して、中国と話し合うという道しか、この小さな島国にはないのですから。「外交交渉」は無理・無駄だというか。この八十年、アメリカの属国になってきた屈辱を思えば、話し合いのテーブルに付くことは何でもないと、素人のぼくは考える。

彭立發(ポン・リーファ)と習近平。掲げられた「横断幕」を見ると、たった二人「彭と習」の闘争・対立に、あるいは「蟷螂の斧」とも見えますが、それは違う。「永続する革命」を支持する、陸続する人々と、己の独裁権力を誇示する一代限りの政治家の戦いです。勝負は、すでについているのではないでしょうか。それを見届けるのは、後世です。この政治的情景を、香港民主化運動を戦ってきた多くの人民(特に若者)が「瞼(まぶた)」に焼き付けていることでしょう。暴力支配は必ず失敗する。習近平氏は、ものの見事に、自分専用の「墓穴」を掘ったと言いたい。現実の出来事の「可否」「善悪」は歴史が証明するということが言えるなら、政治暴力が、手を変え品を変えて、人民支配に躍起になってきたというのも歴史の事実ですが、かかる暴力政治を、時間の制約を超えて「対峙」し、「退治」し、「排斥」してきたのもまた、「人間の歴史」であることは否定はできないのです。後世の「歴史」は、この中国の舞台内外で生じている権力独裁と、それへの民衆の対抗・対峙を、いかなる筆致で証明するのでしょうか。

「自由は食えない」「民主は食えない」というのか。自由も民主も殺さなければ、政治ができないとしか考えられない「独裁者」に、素手で対峙・拮抗するには「自由」「民主」という生きる支えが必要なんだ、「自由」も「民主」も食い物ではない。権力志向者には、看過し得ない「武器」だからこそ、目の敵にするのだ。(左写真は「天安門事件(1989/06/04)」当日の「孤勇者」。この抵抗者は、両手に「日常生活」を携え、普段着で「戦車」に立ち向かった。いわば、中国風「卜伝流」だった。戦車は「顔」を背(そむ)け、轢き殺すことはできなかった。このたった一人の「人民」の背後に、誠実に「歴史」を紡いでいる無数の民がいたのです)
不要核酸要吃饭/不要封控要自由/不要谎言要尊严/不要文革要改革/不要领袖要选票/不做奴才做公民
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