日々是好日、「毎日をありがたく生きていく」

 「日乗」とはややこしい語を使ったものです。「にち‐じょう」の「乗」は「のる・のせる」で、なにかに書き付けるにつながるから、記載・記録の謂をもつ、いわば日記、日誌の類(たぐい)を指します。ぼくたちにもっとも知られているものに「断腸亭日乗」(永井荷風)があります。「断腸亭」は、彼が大正の一時期住んだ、新宿余丁町(付近には、市ヶ谷監獄府(刑務所)が在った、「大逆事件」の幸徳秋水らが刑死したので名が知られる。勤め人の頃、ぼくの行きつけの公園となりました)の家に「断腸花」、つまりは「秋海棠(シュウカイドウ)」が植えられていたことから選んだとされます。ぼくの「書くもの」は、荷風に比すべくもなく、思いつきで使っただけ。もちろん「断腸亭」が頭の隅にあったことは事実。そして、この「シュウカイドウ」は、ぼくが京都に住んでいた頃、隣の町名に「嵯峨野秋街道(サガノシュウカイドウ)町」があった、その連想で「シュウカイドウ」という植物に引かれていたのです。他愛ないことおびただしい。

 「徒然(とぜん・つれづれ)」は、言うまでもなく、ぼくは兼好さん贔屓(びいき)ですから、すこしは悪戯(いたずら)の風趣も加味して。「徒」は「イタズラ」とも読ませますね。あるいは「なにくれとなく」、「なんとなしに」という気味も濃厚にあります。「1 することがなくて退屈なこと。また、そのさま。手持ちぶさた。 つくづくと物思いにふけること。 しんみりとして寂しいこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)ぼくの心境としてはけっして「退屈」「手持ちぶさた」などではなく、むしろ気分的には「2」や「3」の示すところに親しい。これまで「日記」など付けたことはありません。付けようとしたことは何十回もあります。典型的な「三日坊主」でしたね。今回は、どうでしょうか。水の泡を手づかみするような芸当はできませんし、「濡れ手に粟」という具合には行きませんので、悪しからず。感情や気分といった、茫漠(ぼうばく)とした「印象」を点描できれば、ね。

 (このブログの右側にあるカレンダーの下に、いたずら書きのように綴っているものを、ひとかたまりずつ、ここに保管しようという魂胆です。何の値打ちもありません、要するに「駄文」「雑文」の保管庫です。「ご笑覧ください」とも言えぬ代物です。

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 「徒然に日乗」(Ⅰ~Ⅴ)

◯ 今どきの季節を「秋冷の候」というのでしょう。毎朝、ほぼ四時(前後)に起きていますので、朝の「冷え加減」がよくわかります。霜が降りてくると、本格的な寒さの到来です。ぼくは万事に「安上がり」にできている人間で、エアコンはほとんど無用、お酒でいうと「常温」派です。これに反して連れ合いは、じつに「光熱費がかかる女性」、これだけでも馬が合いません。この凸凹コンビもやがて半世紀。歳を取ると気が短くなったり、怒りっぽくなったりで、息巻いているのか、息を切らせているのか。年齢相応の、身丈相応の生き方ができるというのは、この上ない仕合せなんでしょうね。(「徒然日乗」・Ⅴ)(2022/10/20)

◯「裕福になりたい」と、ほとんどの人は願うでしょう。でも、その中味はどうかと問われれば、人それぞれに異なります。「金持ちになる」と「裕福である」ことが同じだと思いこむ人が多いのは事実でも、どれくらいが「金持ち」かと、誰かと比べて多い少ないというのではなく、自らの生活の中で自足する度合い(充足感)に応じて、それは決まるのではないでしょうか。あまり、憂鬱なことは言わぬほうがいいが、今の時代、どこかに一条の光が見える、そんな気配が微塵もないことが、人を必要以上に苦しめているようにも思われるのです。(「徒然日乗」・Ⅳ)(2022/10/13)

◯「信仰」をどう捉えるか。ぼくは特定の教団・教派の支持者じゃないから、「無宗教者」になるのか。しかし、なにかを信じて生きているのは疑いないから、無信仰とは言えない。反宗教・非宗教という主張もまた、一つの宗教的立場だと考えられよう。多くの場合、政党や結社のように徒党を組んで何かを果たそうとする(世界の宗教的統一など)のを世間では「教団」という。実際に、それは「政治党派」と差はないのではないか。だから、容易に「つるむ」んですね。(「徒然日乗」・Ⅲ)(2022/09/25)

◯「中秋の名月」の後は「未曾有の台風」の襲来です。野分といった、昔日の「秋の風」が恨めしい限りです。地震でも台風でも、あるいは火山爆発なども、地域によってまったく経験しないで済むところもありますし、まるで「呪われたように」常に襲われるところもある。それでも「住めば都」というのでしょうか。人間は、しかし長い目で見れば「ヤドカリ」で、娑婆にいても転居の繰り返しだし、人生最後の転居(移住)は、否応なしにせざるをえないのですね。だから、「急ぐこともない」「急いては事を仕損じる」っていうでしょ。大事なのは、一杯のお茶を飲んで、「間を取る」ことですね。(「徒然日乗」Ⅱ)(2022/09/19)

◯ 若い頃から「珈琲」が大好きでした。豆を自分で挽いたりと、一端(いっぱし)の「通」を気取っていた。五十を過ぎて胃潰瘍がひどくなり、すっかりやめてしまいました。でも、珈琲の匂いや香りというものは、記憶されているんですね。どういう調子だったか、モカが口にあっていました。いまでは、紅茶のティーパックで十分に用が足りています。(「徒然日乗」・Ⅰ)(元珈琲ファン)(2022/09/14)

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 「日々是好日」とは「碧巌録」(禅の公案集)中の雲門文偃(うんもんぶんえん)の言葉。いいことも悪いことも、生きていれば、尽きないものです。毎日の生活、あるいは出来事に「一喜一憂」するのは禁物、いや愚かなことで、「毎日がいい日でありますように」「生きていることに感謝する」というような、禅問答中の雲門師の「答え」だったとされています。いいことも悪いことも、メモリ(尺度)を大きく取れば、同じじゃないかということのようですね。つまりは「五十歩百歩」「似たりよったり」「大同小異」、そんなことに齷齪(あくせく)しても、得るところはないしなあ、とやり過ごせるといいね。(写真は「十月桜」です。近間の神社に咲いています)

投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)