徒(いたずら)に日々をやり過ごす

 徒然(つれづれ)に、日記風に、その日暮らしの束の間を切り取って、うまくいくかどうかわかりませんが、わが低俗な感情の流れを綴ります、いや綴ってみたい。なんということもない、瞬間の泡のような、影形もない儚さを切り取れるかどうか。ページの右横にある「カレンダー」の下に書きなぐっている、明け暮れの合間の感想文、それが少したまったら、この場所に移しておくだけのこと。できれば毎日でも綴りたい、猫が笑った、天気がいいな、かみさんに怒られた、そんな他愛もないことが、総理大臣になったり、文化勲章を受賞するより、ぼくには遥かに大事だということが起点、あるいは立脚点になるのです。

 本日(10月21日)、仙台在住の、四十三年前の卒業生から「封書」が届きました。彼はすでに教師稼業を退き、仙台市の図書館で「読書三昧」という。これが、世にいう「悠々自適」なのですか? 仮にそうであれば、ぼくには羨ましい限り。四十三年前の彼の姿が、ありありと浮かんできて、懐かしさがこみ上げてきました。(そのことを思うにつけ、彼は熊本出身で、宮城県の高校の教師にと、ぼくが勧めたような気がします。あるいは、別人だったかもしれない。何人にも、ぼくは教師になるなら土地を選ばないものだなどと、偉そうなことを言っていましたから。N さんは、ぼくの一回り下の六十六歳)卒業式当日にいっしょに撮った写真を同封してくれていました。その際、子息の卒業式に同席した母上とも、ぼくはいっしょに写真に収まりました。その尊母は、御年八十五歳だと言う。生きていると、嬉しいことも悲しいことも、糾(あざな)える縄のごとくに、間断なく生まれては消えてゆきます。その波や風に翻弄されながら、齷齪(あくせく)しながら生きている、そんな人生にぼくはあやかりたいと念じてきました。(つづく)( 上の写真は、ぼくが本当に幼い頃から好きだった「シロツメグサ」です)

 

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dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)